月下の柳(その3)
先にも簡単に触れたが、我が国においては特に武家政治の時代になって以降、マモノに対する差別は明確化した。これは、中国から儒教思想が到来した影響が大きい。儒教はマモノを忌むべきものとして徹底的に排斥した。この点を詳述すると長くなるので略するが、中世から近世にかけて、我が国ではマモノは被差別階級化した。
古代の我が国ではマモノは恐れられ差別を受けてはいたが、それが明確な身分制度にはなっていなかった。逆に、先にも述べたように、陰陽師の社会的地位のように、畏怖されつつも重用されていた。世界史的にみると、我が国はマモノを差別の対象にした時期が最も遅い地域の一つであった。しかし、どうあれ近世に入る頃には、我が国もマモノを被差別階級化した。世界の例にならい、マモノの額に黒の刻印をすることを義務付けた。
余談だが、仏教、特に我が国で発達した諸宗派は、いずれもマモノこそ第一に仏に救われるべきもの、としていた。額の刻印が義務付けられると、その刻印を「仏刻」などと称して「もっとも仏に近いもの」と呼んだ。ただし、時の権力に対し、マモノへの差別をやめるよう訴えた宗派は皆無であった。それが、マモノへの差別を、結果的に助長することとなった。
ところが、近年になって、全世界的にマモノの境遇に大きな変化が起きた。それは、我が国のマモノも例外ではなかった。
変化をもたらしたのは、戦争だった。近代戦の時代になり、近代兵器が使われるようになって、それをより有効に活用するために、マモノの能力が必要とされた。要するに、先にも述べた「弾操術」が戦術として活用されるようになったのだ。
「弾操術」を最初に戦術として活用したのが誰であるか、諸説ある。我が国の織田信長もその一人である。ただし、それは長篠の合戦以降の話であり、それがどの合戦なのかは諸説あって一致していない。西洋において、明確にマモノの「弾操術」を戦術として用いた最初の人は、かのナポレオン・ボナパルトであった。それがいつなのかは、これまた諸説あるが、有名なエジプト遠征の時は、すでにその軍にマモノだけの部隊がいたことは、よく知られている。
このように我が国は、かのナポレオンにはるか先駆けて「弾操術」を戦術に登用するという、画期的なことを行ったにもかかわらず、これはまったく信長だけの独創に終わり、その後は秀吉も、家康も、その他の武将も、これを採用しなかった。彼らはいずれも、マモノの得体の知れぬ威力を恐れ、これを封じる道を選んだ。関ヶ原はおろか幕末の戊辰戦争、さらには西南の役においても、我が国でマモノが戦術として活用されることはなかった。むしろそんなことは「武士の恥」として激しく退けられた。ただ、個々のマモノが、一雑兵として合戦に参加し、そこで己の持てる力を発揮したことはあったろうが、それを具体的に記録した文書は残っていない。
我が国が、再びマモノを戦術として活用し始めたのは、日清・日露の両戦争からである。ナポレオン以降、欧米列強はこぞってマモノを戦術の一部に活用するようになった。我が国の政府もそれにならった。
我が国においては、新政府が樹立してからも、マモノに対する差別は何ら変わらなかった。相変わらず、マモノは生まれた時に額に刻印することが義務付けられていた。
ちなみに、マモノに刻印するのはもっぱら寺であった。「マモノ寺」と呼ばれる、マモノを檀家に持つ政府公認の寺がそれを行い、新政府樹立後も、それは継続された。
マモノの世界においては、他の被差別階級のような地位の平等と差別の撤廃を求める社会運動も起こらなかった。これは実際のところ、人里に住み、「マモノ寺」の檀家となって暮らすマモノより、額に刻印も受けず、山奥深くに結界を作ってひっそりと暮らしているマモノの方がずっと多かったためで、彼らは実社会における地位の向上や差別の撤廃を目指すより、これまで通りの暮らしを維持する方を選んだのだ。これら山中に隠れ住むマモノが、いわゆる「サンカ」と呼ばれる者たちである。
それが突如、軍隊に入ったマモノとその家族は、「名誉臣民」として、以後額への刻印の廃止のみならず、一般市民と同じ地位を保証する、という布告が出された。日清戦争開戦直後のことである。
ただし、この布告には大いなる矛盾があった。この「名誉臣民」となる資格を持つのは、「マモノ寺」の檀家となっているマモノに限られていたのだ。つまり、「名誉臣民」になれるのは、布告の時点ではすでに額に刻印をされてしまっているマモノだけなのであった。もし、山中に隠れ住む額に刻印を受けていないマモノが「名誉臣民」になろうとすれば、その時は一旦「マモノ寺」の檀家となり、額に刻印を受けねばならないのであった。これは、マモノは出生時に額に刻印されねばならない、という法律は変えられていなかったためで、そのため、額に刻印のない者は、刻印漏れ、として改めて刻印を受けねばならなかったのだ。それでも、子孫が額へ刻印を受けなくともよく、かつ一般市民と同じ権利を有するために、この時額に刻印を受けたマモノも多かった。一方、あくまでそれに肯んぜず、相変わらず結界を作って山奥に住み続けるマモノたちも、少なからず存在し続けた。
そしてこの布告は、もう一つの矛盾、というか、新たな階級を生んでしまったのでもあった。それは、兵隊に行く男子のいるマモノの家族は「名誉臣民」になれるが、そうでなければ相変わらず被差別階級のまま、ということであった。基本的にマモノを被差別とする、という政府の政策は、「名誉臣民」布告以後も何ら変わりはない。結果、マモノの社会は三つの階層に分断された。「名誉臣民」と、そうなれない「マモノ寺」の檀家の額に刻印のあるマモノたち、そして山奥に結界を作って暮らす「サンカ」のマモノたち、である。この分断はマモノの社会に激しい対立を生むことにもなり、結果、マモノたちの地位向上を目指す社会運動の発生をさらに著しく鈍らせ、遅らせることになったのだった。
話をようやく平之助に戻す。雪華の送迎をし始めたばかりの頃の平之助だ。
彼はこの時点ではまだ、先に述べて来たような、マモノに関する深い知識と認識を有していた訳ではない。あくまで学校ならびに市井の図書館で読める範囲の書物で得た、ごく浅い知識を持ったに過ぎない。だが、そんな急拵えに得た半端な知識であっても、新たに知ったことは誰かに喋りたくなる。これは人間の性というより、単に平之助の性格かも知れないが。
しかし、それを雪華に話すことは、さすがに平之助にも憚られた。これが極めてデリケートな、慎重を要する話題であることぐらい、平之助にだってわかる。だが一方で、マモノについて調べれば調べるほど、雪華にいろいろ訊いてみたくてたまらなくなっても来るのだった。
でもそれ以前に大きな問題があった。そもそも、平之助は雪華とどう自然でなめらかな会話をしようかと、苦心かつ腐心していたのだ。マモノに関する話題に慎重になるあまり、ではない。そんなことは、むしろ瑣末な問題と云って良い。
平之助が雪華に上手く話し掛けられない、その最大の理由は、深遠にして、単純なことだった。それは、雪華があまりにも美し過ぎるからだった。
いちばん最初に出会った時は、雪華はダブダブの男物のシャツにズボンという、おかしみのある格好だったので、それほどでもなかったが、その後、色鮮やかな浴衣や着物姿、あるいは女学校の征服を着た雪華を見るたび、平之助は正直毎度絶句し、めまいを感じるのであった。もちろん馬鹿にしているのではなく、その逆だ。
平之助は、雪華の美しさを形容できる言葉を持ち合わせていなかった。抜けるような白い肌、艶やかで柔らかそうな黒髪、すっと通った鼻筋、ほんのり紅を帯びた頬、凛とした意志の強そうなまなざし…。いずれも陳腐な言葉にしかならない。雪華の美しさの表面を伝えても、本質はまったくとらえていない。
雪華は小舟の舳先の方へ、膝を崩して座って、船の行く先をまっすぐに見据えて、滅多に後ろで櫓を漕ぐ平之助の方を見ようとはしない。それが平之助には何とも残念、何とも不満なのであったが、しかしその雪華の姿はまさに一幅の名画の如く(絵に詳しくない平之助が云うのもなんであるが)であって、ずっと眺めていても飽くことがないように思われた。
それでも平之助はただボンヤリ黙っているばかりでなく、時折は思い切って話し掛けてもみた。マア手っ取り早い話と云えば、第一にお天気のこと、第二に学校のことだ。「授業面白い?」とか「友達出来た?」とか、ありふれたことを訊くのだ。しかし初めのうちは、返って来る答えは「はい」とか「いいえ」ばかりであり、そのうち「面白いです」とか「仲良くしてくれます」とか言葉はやや増えたものの、何とも硬い返事であった。
「おまえは本当に朴念仁だねえ」そのことをかねに話すと、かねは呆れて云った。「そりゃ、雪ちゃんだって緊張してるのに決まってるじゃないか。男のおまえが緊張を解いてやらなくて、どうするんだい」
「どうするんだいって」平之助は困惑して訊いた。「どうするんです?」
「何でもいいから、褒めてやるんだよ」かねは云った。「あんな綺麗な子だもの、褒める所はいっぱいあるじゃないか」
で、早速実行した。
「雪ちゃんは、本当に綺麗だね」
真顔で大真面目に云ってしまってから、平之助は、雪華のこちらを見やる、唖然とも呆然ともつかぬ、引きつった表情を見て、その失敗を悟ったのであった。雪華の絶句したまま硬張っている顔に、次第に赤みが差して来た。
「あ…」雪華は小さな声で云った。「有難うございます…」
平之助は、それに続く会話を予定して、練習までしていたのに、それはすっかり頭の中から蒸発した。平之助も己の顔面が急速に火照るのを感じた。
「ド、ドウイタシマシテ…」
ぎこちなく、平之助は云った。すると、雪華の表情が突然歪んだ。しまった、却って傷付けてしまった、泣くのか? 平之助は瞬時に焦った。と、次の瞬間、雪華はプッと吹き出し、続いて、ゲラゲラ笑い出した。涙を流して、雪華は笑い出した。平之助は初めは呆然としていたが、やがてつられて、笑い出した。
「ごめんなさい」雪華は涙を拭いながら、なおも笑い続けている。「でも、あんまり真面目な顔で云うんだもの」
あまり二人が笑うものだから、小舟が大きく揺れて、危うく二人とも川面に投げ出されそうになったが、それがいっそう笑いを誘って、二人は結局、船着き場に着くまで笑っていたのだった。
まあ、絵に描いたような、ありがちなきっかけではあるが、ともあれ目出度く平之助は、雪華となめらかに会話出来るようになったのだった。
好きな教科は国語で、苦手なのは数学、英語は難しいが面白い。社会科は嫌い。雪華は他にも、各担当教師の特徴を面白おかしく話すこともあった。雪華の観察は的確かつ辛辣だがユーモアもあって、平之助はそれらの教師をもちろんまったく見たことはないのだが、まるで目の前にいるかのように、思い描くことが出来るのだった。
時に平之助が勉強を教えてあげることもあった。もっともそれは、小舟の上では難しいので、杉戸の家に帰ってからのことになる。だがこれは、松五郎もかねもあまりいい顔をしないことがわかったので、ほんの時折、どうしても必要な時だけ、になった。しかし雪華は極めて勉強が出来たので(苦手、嫌い、と云っている科目も、試験の点は常に極めて優秀であった)、そのうち平之助の出る幕はほとんどなくなってしまった。
心配だったのは、なかなか雪華に友達が出来なかったことだった。平之助が女学校の門に着くと、いつも雪華は一人で現れるか、一人で待っているかのどちらかだった。それが平之助にはひどく気がかりだったのだが、だからある日、丸山トミ子と共に雪華が本当に楽しそうな顔をして校門に現れた時には、思わず涙が出そうになったほどだった。ただし、一抹の心寂しさも、平之助は同時に感じていたのだが。
丸山トミ子は牧師の娘なのだそうだ。あるいは神父だったかもしれないが、まあどうあれクリスチャンで、毎朝自宅の教会でお祈りしてから登校し、帰宅後も夜のお祈りをしてから寝るのだそうだ。そんな話を愉しそうに、屈託なく、雪華は平之助にした。そうやって無邪気に喋っている雪華は、その美貌は別として、まったく普通の女学生にしか見えない。
だが、そんな風に打ち解けても、平之助はどうしてもマモノのこと、「手刀術」のことは話題に出来ないのであった。打ち解ければ打ち解けるほど、却ってそれは訊きづらくなる内容であった。もちろん、雪華の方からそんな話題を切り出すことはなかった。
雪華が女学校に通い出して最初の冬が、終わろうとする頃だった。




