接触
「……は? 何、言って……!!」
ぼくは呻いた。
一体何を――。
何、面白くも無い冗談をほざいているのだ、この姉は。
「ワタシ、貴女の体が欲しくて『向こう』から来たの。正確にはもう一度『そっち』で遊びたくて、ね。だから頂戴?」
首を傾げて平面に映る姉は笑う。無邪気な子供が『玩具を買って』と母親にねだるような仕草。子供なら可愛げがあるが、残念ながらこの姉にそんなものありはしない。断られるなんて露とも思っていないような、自己中心で傲慢な態度にぼくは激昂する。
「――ふざけた事を言うなっ!」
普段なら絶対に出す事のない怒声。だが、抑えられなかった。
「何訳の解らない事ほざいてるのか知らないけど、ぼくはあんたの言う通りになる気は無いっ! それに結花はもう死んでるだろう!? 何が出来るんだ、死人に! 早く消えろ!!」
溢れ出る激しい感情を抑えきれない。それは嵐に揉まれる波となり、ぼくの中で暴れまわり、ぼくの外へ勝手に迸る。
だがぼくのこの怒りに似た思いは正当なものだ。結花が言う『お願い』とやらの方が、理不尽な事この上ない。
ぼくの様子に、結花は驚きはしたが気圧されはしない。困惑した顔で頬に手を当てる。本当に意味が解らないといった感じで、心底、腹が立つ。
本当にこいつはぼくと同じモノから出来ているんだろうか。
「どうしてそんなに怒ってるの? 景。……そっか、貴女、いつも言ってたものね。『ぼくと結花は酷似しているけど相反している』って。まるでワタシと貴女が別物であるみたいに。そうだよね、それじゃ仕方ないよね」
「別物、だろう!?」
ぼくの荒れ狂う激情は大きくなるばかりだ。理解不能の戯言を繰り返すこいつは、異常者以外の何者でもない。そして何より。
こんな奴と同等にされたくなかった。
「そんな事ないわ。だってワタシ達、同一よ? だからいいじゃない。ワタシと貴女の立ち位置が交代されようと、何も変わりはしないのだから。『結花』が生きても『景』が生きても、ワタシ達にも周囲にも変化は訪れない」
「嘘だ、嘘だっ! そんな自分勝手な事っ!!」
「嘘でも勝手でもないわ。ワタシは貴女になれるし、貴女だってワタシになれたわ。もし貴女が先に死んでたら、ワタシの体は貴女のモノになってたのよ? ワタシは、『向こう』でそう教えてもらったの」
「……!」
「うふふ。なら、先に死んだ方が長く生きられたって事になるのかしら? うふふふふ。こういうの何て言うのかしら? 急がば回れ? 何だか違うわね。ねぇ景。良い言葉知ってたら教えてくれない?」
「…………」
飾り物の笑顔の結花に、ぼくは沈黙で答えた。先程暴発した感情は既に鎮火してしまった。
この化け物に言う言葉など、最早存在していないように思われたのだ。何を口にしても、通じはしない。なら、文字を音にしたモノにどれ程の価値があるだろう。
ぼくの返答に、結花は可愛らしく溜息をついた。まだ、無駄な演技を続けてる。
聞き分けの無い子供をあやすように。
「これから生きるのはワタシなの。今更貴女が持っていても仕方ないモノである知識を、ワタシに教えて。そしたらワタシがその知識、ちゃんと活かしてあげるわよ?」
だからね、と結花は嗤った。
そして。
鏡の中で、姉がこっちに向かってゆっくりと手を伸ばした。
「こ、こっちに来るなっ………………!!」
自分でも、顔が真っ青になっているのが解る。がたがたと震える体を止める事が出来ない。
――指先が、向こう側の鏡に触れた。
くぷっ
水面から顔を出すようにして。
鏡面を微かに揺らして、指先が出てきた。
事故にあった時のまま。
擦傷と血に覆われた、白くて細い指が。
「――うああああっ!」
ぼくは完全な死人の手から、逃げようとした。
鏡に映っているだけなのと、そこから出てくるのとでは全然違う。
こいつに捕まったら、ぼくは消失し、結花は再生する。
本能的な恐怖とこの状況を忌避しなければならないという理性が、ぼくを突き動かした。
ぼくは座り込んだままの姿勢から跳ねるように立ち上がる。ドアに向かって走ろうとしたが――
「!?」
足が、動かなかった。
目を落とすと、ぼくの両足には――
「――――っ!!」
無数の白い手が、絡みついていた。
柔らかい萌黄色のカーペットから突き出た、完全に血の気を失った人間の手。それがぼくの足をしっかりと掴み、この場にぼくを張り付けにしていた。
足を握る数多の手は、病的なまでに白く、靴下越しでも解るくらいに冷たい。そのくせして反対側が見えるほど透けている。なのに足を掴まれるこの感触は本物だ。――死者の手が、ぼくを捕まえている。
「うふふ。驚いた? その人達は、ワタシの『向こう』で出来た新しいお友達よ。皆、ワタシの為に手伝いに来てくれたの。とーっても、優しい人達なのよ? 貴女が『向こう』側に行ったら、ちゃんと仲良くしてくれると思うわ」
結花はくすくすとぼくの無様な姿を嘲笑う。
どこまでもどこまでも楽しそうに。
道化と化したぼくの滑稽な姿を嗤う。
「うふふふ。ワタシは貴女になってあげる。『景』という名を、この世で一番幸せな人間の名前にしてあげる。感謝、してね? ――空の上から」
ゆっくりと結花は鏡という境界を踏み越えて出てくる。
手が、腕が、足が、胴体が、頭が。
皮膚が捲れた手が、あらぬ方向に曲がった腕が、拉げた足が、桃色の管を食み出させた胴体が、蒼白になった顔が、血に染まった全身が、死んだ存在が。
狂いきった笑みに表情を歪めて、やってくる。
「うふふ。もう、手遅れなのよ? それもこれも、貴女が今日、ワタシのお墓に来てくれなかったからよ」
出てくる。
ぼたん、と、皮一枚で繋がっていた指が千切れて落ちた。
萌黄の床に、赤茶けた染みを作る。
それは死んでしまった青虫のようで。
酷く、おぞましい。
「……!!」
ぼくは口元を両手で覆った。
喉の奥から、何かがせりあがって来る。
ぬるぬるとした、固形物と流動物が混じり合ったモノが。油断すると、一気に嘔吐してしまう。
大量の冷や汗が、頬を、胸を、背を、手を、足を、伝う。
「ワタシ、とても寂しかったのよ? 泣いちゃいそうなくらい」
何かを憂える表情、しかしぼくはそんな事を気にする余裕は無い。
……遠まわしに、ぼくと同じ顔の狂人が言う。ぼくに、『死ね』と。
死んだ筈の姉があの世からボクに手を伸ばす。
『こっちに来い』ではなく、『変われ』と。
彼女。
結花。
姉。ぼくの代用品。ぼくのオリジナル。
ぼくの片割れ。ぼくが半身。
そして、ぼく自身。
瓦礫のようにごわついた死人の手が、ぼくの目を覆った。
冷たい。氷だ。
姉の手じゃない。ぼくの手じゃない。生き物の手じゃない。
こんなの模造品だ。ただの嘘だ。虚言だ。夢だ。
だけど現実だ。真実だ。本当だ。
何も見えない。
暗い。ここは嫌だ。
光を。ぼくに光を。
頼むから。
暗闇に。
ぼくは。
落とされて。
そして。ぼくは――――
消
え
る。




