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命日

その日は、じんわりとした梅雨明け独特の暑さが支配する日だった。

全身にねっとりと絡みつく気だるさは、何よりも気持ち悪い。ぼくの両足にもまとわりつき、足取りを重くさせた。

ぼくは姉である結花の命日の今日、ぎりぎりまで部活をして普段より遅い時間に帰宅した。既に薄暗く、夕飯間近の時刻になっている。

ぼくは玄関の前で一度立ち止まった。小さく、息を吐いた。

――結局今日、行かなかった。後悔のような、それとは全く違うような感情がじわじわと染み出してくる。そのせいだろうか、足は勿論、全身が酷く重かった。

頭上を仰げば、そこは橙や藍や灰や黒に染まりこれまた気持ち悪い。パレットを逆さまにして、絵の具をキャンバスにぶちまけたみたいだ。色がごちゃごちゃ入り混じって、じっと見ていると酔いそうになった。

早く終われ、今日。

ぼくは心の底から祈る。無神論者のくせに、だ。全く。

ただいまと言って家の中に入ると、奥から母が出てきた。お玉を持ったまま。母の体からは、食欲をそそるお味噌汁の香りが漂っていた。

「景、お帰り。もうすぐ夕飯の仕度出来るからね。着替えたら、早めに降りてくるのよ」

「うん。解った」

母の言葉に答え、靴を脱いで揃える。ぼくはこういうのはちゃんとしてないと、何だか気になる性分だ。こういう所は、姉とは似ていなかった。ついでに片方が斜めになっていた母の靴を直した。

母がまた奥に引っ込んだのを見遣り、ぼくは二階に向かう階段を上がる。ぼくの自室は二階にあった。何故だろう、いつもより階段を上がるのが億劫だ。

……勘の鋭い母の事だ、きっとぼくが結花の墓に行ってない事を解っているだろう。そうでありながら咎めるどころか触れもしなかった母に、感謝の気持ちを覚えた。

今日が姉である結花の命日である事は覚えていたけれど、でもぼくは部活を優先した。別に部活を重要視してるわけじゃない。ただ、言い訳の道具として非常に都合が良かった。

――お墓に参りに行くべきかもしれない。

そう思いながら部活をした。

でも結局――行かなかった。

ぼくにとってあの姉は、なんだか苦手な人だったから。

死んだ姉の事をこんな風に言うのは良くないだろう。

でも、苦手だった。


同じモノなのに。


……止めよう。あいつの事を考えるのは。

明日は早く帰って、墓石に一日遅れで花を添えよう。

言い訳にもならない行為だとよく解っていたけど、このまま何もしないよりマシな筈。

そう決めて、部屋の中に入り、電気をつけた。

ベッド、机、クローゼット。その程度のものしかない。それらはほとんどがモノトーン調であり、はっきり言って地味だ。ぬいぐるみやポスターなどの色を放つものは何一つ無い。あるとすれば、床一面を覆う萌黄色のカーペットぐらいだ。ぼくは明るい色より暗い色の方が好きだ。落ち着く。明色は目が痛い。

後ろ手でドアを閉める。そのまま視線を前に向け、ドアの向かいにある窓からちらりと外を見る。四角く切り取られた空はあっという間に暗さを増していた。

大量の黒をぶち込まれて、キャンバスは混沌から奈落に生まれ変わっている。

黄昏から暗夜へと、これから一気に変貌するのだ。人間の時間から、魑魅魍魎の刻へと。

何故だか漠然とした胸騒ぎを覚え、視線を逸らす。ぼくは動く事で、この言い知れぬ胸騒ぎを掻き消そうと、着替えを始めた。

ぼくの部屋の入って右側には、全身が映る大きな鏡が貫禄たっぷりに居座っている。幼少時代からずっとあった鏡で、もう大分薄汚れている。夜中に寝ぼけ眼で見ると、結構不気味だ。

鏡に投影する姿が、ぼくではなく姉のように錯覚してしまうから。

いっそ捨ててしまいたい。だけど、この鏡は亡くなった祖母のものだとか言って、母や父が廃棄する事を許してくれない。

形見だから大切にしなさいって、さ。

ぼくは何となく、その鏡に背を向ける。そのまま制服のボタンに手を掛けた。

制服を手早く脱いで、ハンガーに掛ける。そして学校に行く前に用意していた服を、順番に着ていく。

ジーンズにパーカー。洒落っ気など全くない、ありふれた地味な格好。

姉にはもっと身なりに気を使えとよく言われていたけど、ぼくはそういうのが苦手だった。

……ああ。

また、姉の事を思い出している。普段なら全然思い出さないのに。

今日が、彼女の命日だからか。

ぼくは小さく溜息を吐いた。

別の物事を考えようとしても、結花の姿が脳裏に浮かんでしまう。死人の癖に、奴はいつまで経ってもぼくの意識の中に存在している。

ぼくの意思とは無関係に、もう一度溜息が口から漏れた。

    

ひゅっ


「あ……」

吐き出された憂鬱な気分は、何の加減か、口笛のように高い音を奏でた。溜息として、不相応な程に。

……口笛、か。

それから連想する事象が、ぼくの記憶の中に存在する。そしてぼくはまた、結花の事を追憶してしまった。

ぼくは口笛を吹くのが下手だ。どれだけ練習しても、空気の掠れた音しか漏れない。それに比べ、結花はとても上手だった。テレビから流れる人気歌手の歌に合わせて、見事に音程をつけ、吹いていた。結花の口笛は一種の楽器だった。

羨ましくも妬ましくもなかった。だが、ひたすら鬱陶しかったのを覚えている。

ぼくが出来ないのを知って、まるで見せ付けるように奴は吹いていた。

……あいつは、人が嫌がるモノを悟るのが非常に上手だった。

思考すればする程に、ぼくは気分が悪くなっていく。

全ては姉が理由で。

――もう止めよう。

早く一階に下りて、夕飯を食べよう。そしたら気分も変わる筈だ。

と。

無理やり思考を停止しようとした、

その刹那、


ひゅう


「……え?」

背後から、肩を落とすぼくの姿を嘲笑う口笛の音がした。


この部屋には、ぼく以外誰もいない筈なのに。


どうして口笛の音なんか聞こえるんだ?

ざわりと、心の奥底がざわめく。

――嫌な感じが、全身を走り抜ける。

肌に感じる温度が、一気に零下まで下がったような異質な感覚。

こことそっくりの別世界に迷い込んだような、漠然とした不安感。

それらをごちゃ混ぜに内包した、何とも形容し難い思いがぼくの中を去来する。

背中から全身へと。

疾風が如く、巡り行く。


後ろに、何か、

――――――いる。


「…………」

――何を馬鹿な。

辿り着いたその考えを一蹴した。ありえない。下らない。

ぼくはゆっくりと、後ろを振り返る。

背後には、鏡がある。ぼくが映っている。そうに決まっている。

振り返っても誰もいなくて、ただぼくの姿が鏡に映っている。

ぼくが体を捻って後ろを振り返ったのだから、鏡の中のぼくだって体を捻ってこっちを見ている筈だ。戸惑いの表情を浮かべて。

だけど――――


振り返った鏡の中のぼくは正面を向いて、静かに微笑んでいた。


「えっ……」

そこにはぼくと同じ、そして全く違う人間が、映画のスクリーンみたいに、ぽっかりと浮かんでいた。

幽霊みたいに。

ぼくの歪んでいるであろう顔とは酷く対照的な顔を、鏡の中の物体はしている。

「――お久しぶり、景」


そいつは口元に小さな笑みを浮かべて、口を開いた。

聞き親しんだ声が、薄っぺらの鏡からぼくの耳に届く。

この声。口調。表情。忘れない。二年経っても、決して。

ぼくが生きている限り、忘れられない。

「…………!!」

ぼくは口から出掛かった絶叫を、必死で押さえ込んだ。

なんでだ、なんでこいつがいる。それも、鏡の中に。


耳と目を塞げば何もかも無くなってしまうのなら、どんなに良かっただろう。


ぼくは今の状況を、ひたすら怨嗟した。

平面である鏡の中で、形だけの微笑を作る『そいつ』。

――そいつは、二年前に死んだぼくの姉。

「うふふ。ワタシね、あの世から帰ってきたのよ。――貴女に逢いたくて」



結花、だった。


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