沈黙の調書
2026/06/26 本文投稿。
【注意】
・この物語は名称設定等に際しAI(ChatGPT)の助言を一部参考にしています。
第一章「99%の話をします」
* * *
深夜二時十七分。
村瀬遥は、冷めたコーヒーのカップを脇に押しやり、スマートフォンを手に取った。
投稿するつもりはなかった。ただ書き留めておきたかっただけだ。
指が動いた。
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@haruka_murase_law
99%の話をします 1/8
日本の刑事裁判における有罪率は、99%を超えます。
これを聞いて「それだけ警察が優秀なんだ」
と思う人がいます。
違います。
スレッドで説明します。
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送信ボタンを押した瞬間、遥はもう後悔していた。
弁護士がこういうことを書くと、必ず誰かが言う。
「被疑者の味方をする人間の言うことだから」と。十七年間、何度もそう言われてきた。
国選弁護人として、金にもならない案件を抱え続けた十七年間。
それでも指が止まらなかった。
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@haruka_murase_law 2/8
アメリカの有罪率は約67%。
イギリスは約80%。
ドイツは約83%。
日本は99.3%。
この数字の意味を考えてほしいのです。
日本の警察と検察は、他国より
30〜40ポイントも優れているのでしょうか。
それとも別の理由があるのでしょうか。
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遥がニューヨークの法律事務所に勤めていたのは、二十代の終わりから三十代の初めにかけての六年間だった。
そこで最初に驚いたのは、取調べの場に弁護人が当然のように同席していることだった。被疑者が口を開く前に弁護人が介在する。それが当たり前の光景だった。
日本に戻ったとき、遥は自分が何か別の国から来たような感覚を覚えた。
取調室に弁護人はいない。
被疑者は一人で座る。
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@haruka_murase_law 3/8
アメリカの「ミランダ警告」を
ご存知の方も多いと思います。
"You have the right to remain silent."
「あなたには黙秘権があります」
逮捕時に警察がこれを告げることは
法律で義務付けられています。
日本でも黙秘権は憲法で保障されています。
ただし——実際の取調室で何が起きているかは、
別の話です。
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三年前に担当した男性のことを思い出す。
六十二歳。近所でのトラブルを巡って傷害の疑いをかけられた。物証はなかった。相手方の証言だけだった。
男性は十九日間、毎日八時間の取調べを受けた。
二十日目に、遥が接見に行くと、男性は言った。
「先生、もう認めてしまおうかと思っています」
「やっていないのに?」
「やっていなくても、認めれば終わるって言われました」
遥はそのとき初めて、「終わる」という言葉がどれほど魔力を持つかを理解した。無実の人間に「終わり」を差し出す。
それは、拷問よりも巧妙な手段かもしれない。
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@haruka_murase_law 4/8
日本には「代用監獄」という制度があります。
本来、逮捕された人は拘置所に入ります。
しかし日本では、警察の留置施設に
最大23日間置くことができます。
取調べをする警察が、
被疑者の生活環境も管理する。
この構造を国際人権団体は
長年にわたって批判してきました。
日本政府は「改善中」と答え続けています。
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国連人権理事会から日本政府への勧告文書を、遥は何度読んだかわからない。
2013年。2017年。2022年。
同じことが書いてある。
「代用監獄の廃止」
「取調べへの弁護人立会権の保障」
「自白偏重からの脱却」
日本政府の回答も毎回似ている。
「制度の趣旨を踏まえつつ、適切に対応してまいります」
適切に。
その言葉の重さを、取調室に一人で座ったことのある人間だけが知っている。
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@haruka_murase_law 5/8
もう一つ、あまり語られない数字があります。
性犯罪の検挙率です。
内閣府の調査によれば、
性被害を警察に相談した女性のうち
「捜査が進んだ」と感じた人は
半数に届きません。
同じ警察が、
無実かもしれない人を23日間拘束する一方で、
被害を訴える人の話を
「証拠不十分」で終わらせる。
この非対称を、どう説明しますか。
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五年前、遥が担当した女性がいた。
職場の上司に繰り返し被害を受けた。診断書があった。録音データもあった。警察の窓口で担当者は言った。
「示談という方法もありますよ」
男は一度も取調室に呼ばれなかった。
遥はその女性の代理人として告訴状を提出し、三度却下され、四度目にようやく受理された。
そのとき女性はすでに職を失い、別の都市に引っ越していた。
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@haruka_murase_law 6/8
私は国際弁護士として
アメリカ、イギリス、ドイツの
刑事司法制度を見てきました。
どの国も完璧ではありません。
冤罪はどこにでもあります。
ただ、「間違いを正す仕組み」の
充実度が違います。
取調べの全過程録画。
弁護人の立会権。
独立した捜査監察機関。
日本にあるものを数えるより、
ないものを数える方が早い。
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遥が弁護士になった理由を、人に話したことはほとんどない。
大学時代の友人が、痴漢の冤罪で一年間を費やした。最終的に無罪になったが、その一年で友人は大学を中退し、婚約も解消し、別人のようになっていた。
「無罪になったのに、何も戻らなかった」
友人はそう言った。
その言葉が、遥の十七年間の燃料だった。
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@haruka_murase_law 7/8
次のスレッドから、
私が担当した、あるいは傍聴した
具体的な案件の話をします。
名前と細部は変えています。
ただ、構造は変えていません。
なぜ今、書くのか。
最近、一つの事件を知りました。
ある若い人が、
取調室から生きて帰れなかった。
それだけです。
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@haruka_murase_law 8/8
今夜はここまでにします。
読んでくれた方、ありがとうございます。
反論も歓迎します。
ただ一つだけお願いがあります。
「でも日本は安全な国だから」
という言葉は、
少し待ってから使ってほしい。
安全と、正義は、
別の話です。
——村瀬遥(弁護士)
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送信し終えて、遥はスマートフォンを伏せた。
通知が来始めた。最初の一件は「いいね」だった。次は「RT」。それから見知らぬアカウントからのリプライ。
そして、非通知の着信が、二件。
遥は画面を見つめ、出なかった。
コーヒーはとっくに冷めていた。
* * *
第二章「止めに入った子」
* * *
三日後の投稿は、午後十一時に始まった。
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@haruka_murase_law
#止めに入った子 1/9
今日は、ある18歳の話をします。
白川澪(仮名)。
介護福祉士の資格を取得したばかりの、
18歳でした。
「でした」と書かなければならないことが、
今も信じられません。
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遥がこの案件を知ったのは、澪の母親からの電話だった。
「娘が死にました。でも、誰も謝らないんです」
電話口の声は泣いていなかった。泣き終わった人間の声だった。それが遥には、泣き声よりずっと重く聞こえた。
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@haruka_murase_law 2/9
澪さんは、灰瀬市(仮称)内の
高齢者デイサービス施設で
見習いとして働いていました。
ある午後、利用者同士のトラブルが起きた。
言い争いが激しくなり、
一人が手を上げそうになった。
澪さんは間に入りました。
それが仕事だと思っていたから。
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母親から渡された資料の中に、澪の介護福祉士の合格通知があった。
十八歳で取得するのは珍しい。高校在学中から独学で勉強し、施設での実習も欠かさなかったと母親は言った。
「この子は本当に、この仕事が好きだったんです」
遥はその合格通知をコピーして、手元に置いた。
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@haruka_murase_law 3/9
その場に、22人いました。
利用者、スタッフ、ボランティア。
全員が見ていた。
澪さんが止めに入ったことも、
その後何事もなく場が収まったことも、
全員が見ていた。
数日後、警察が来ました。
「暴力行為の疑い」とのことでした。
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日本の刑事訴訟法では、逮捕には「相当な理由」が必要とされている。
遥は資料を読みながら、何度も首をかしげた。通報者の証言は一人。内容は「止めに入った際の動作が乱暴に見えた」というものだった。
乱暴に見えた。
二十二人の目撃者がいる中で、警察が話を聞いたのは、その一人だけだった。
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@haruka_murase_law 4/9
ここで一つ、比較をさせてください。
イギリスでは逮捕前に
複数の証人への聴取が
標準的な手順として定められています。
ドイツでは、
逮捕状請求の際に
反対証拠の存在も
裁判官に開示する義務があります。
日本では——
一人の証言で、十分でした。
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遥がニューヨークで研修していたとき、指導担当の弁護士が言った言葉を今も覚えている。
「捜査というのは、有罪を証明するためにあるんじゃない。真実を探すためにある。その順番を間違えると、全部狂う」
その弁護士はブルックリン出身で、公選弁護人として二十年働いてきた人だった。
日本に戻ったとき、遥はその言葉をしばらく誰にも言えなかった。
綺麗事だと言われる気がした。
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@haruka_murase_law 5/9
澪さんは連行されました。
お母さんは「どこに連れて行くんですか」
と聞きました。
警察官は行き先を告げませんでした。
これは違法ではありません。
日本の法律では、
逮捕時に家族への通知は
「できる限り速やかに」とされています。
「できる限り」は、
伸縮する言葉です。
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母親が娘の居場所を知ったのは、連行から九時間後だった。
面会を申請した。「現在、取調べ中のため」と断られた。翌日も断られた。
当番弁護士の制度を知らなかった。警察は教えなかった。
これも違法ではない。
告知の義務は、厳密には存在しない。
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@haruka_murase_law 6/9
アメリカでは逮捕後、
弁護人を要求する権利が
明示的に告知されます。
告知しない逮捕は
その後の手続き全体を
無効にしかねない。
日本では、
弁護人を呼んでいいことは
「教えてもらえれば」知ることができます。
知らなければ、
知らないままです。
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澪が勾留されていた七日間、母親は一度も娘の顔を見られなかった。
差し入れを持っていった。受け取られた形跡はなかった。
後に母親が聞いた話では、澪は最初の二日で食事をほとんど取らなくなっていた。三日目からは、出されたものを見ることもできなくなっていたという。
取調室で何が言われたかは、記録に残っていない。取調べは録音も録画もされていなかった。
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@haruka_murase_law 7/9
取調べの可視化——
録音・録画の義務付けについて。
日本では2019年から
裁判員裁判対象事件に限り
義務化されました。
それ以外の事件では、
任意です。
密室で何が起きたかは、
調書だけが語ります。
調書を書くのは、
警察官です。
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七日後、澪は釈放された。
理由は、通報者が発言を撤回したからだった。
「ちょっとオーバーに言いすぎました」
その言葉一つで、すべてが終わった。
逮捕も、勾留も、取調べも、七日間の密室も——それらは全部、「ちょっとオーバー」な一言から始まっていた。
誰も謝らなかった。誰も責任を問われなかった。
澪は自宅に戻った。
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@haruka_murase_law 8/9
釈放後、澪さんの体重は
急激に落ちていきました。
食べることが、
できなくなっていました。
あの七日間に何があったか、
澪さんは多くを語りませんでした。
ただ一度だけ、
お母さんにこう言いました。
「私がやったって、
最初から決まってたみたいだった」
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遥は資料を閉じて、しばらく動けなかった。
十七年間、似たような話を何度も聞いてきた。それでも慣れない。慣れてはいけないと思っている。
澪が亡くなったのは、釈放から四ヶ月後だった。
十八歳だった。
介護福祉士の資格証は、部屋の机の上に置かれたままだった。
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@haruka_murase_law 9/9
22人、全員が見ていました。
警察は、その22人に
一度も話を聞きませんでした。
私はその理由を
今も理解できません。
理解できないことを、
理解できないと言うために、
私はここに書いています。
おやすみなさい。
——村瀬遥
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投稿を終えた遥は、画面を閉じようとして止まった。
リプライが来ていた。
最初の数件は「知らなかった」「ひどい」という言葉だった。その次には「弁護士がこんな投稿していいの」というものがあった。さらにその下に、一件だけ、こうあった。
「村瀬先生、以前お世話になりました。澪ちゃんと同じ施設で働いていた者です。私も警察に話を聞かれませんでした。ずっと言えなかった。ありがとうございます」
遥はそのリプライを、長い時間見つめていた。
二十二人のうちの、一人だった。
* * *
第三章「面会禁止の部屋」
* * *
この投稿は、遥にとって最も書くのが難しかった。
澪が部屋の中で何を考えていたかは、誰にも確かめようがない。遥が書けるのは、母親から聞いた断片と、釈放後に澪が残した数少ない言葉だけだった。
それでも書くことにした。
断片だけが、時に全体より多くを語るから。
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@haruka_murase_law
#面会禁止の部屋 1/10
今夜は、澪さんが
勾留されていた七日間の話をします。
私が直接知っているわけではありません。
お母さんから聞いた話、
釈放後に澪さんが残した言葉、
施設のスタッフから聞いた断片。
それだけが手元にあります。
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@haruka_murase_law 2/10
勾留というのは、
逮捕後に引き続き身柄を
拘束することです。
裁判官が令状を発付します。
原則10日、延長で最大20日。
令状を審査する時間は
平均で数分と言われています。
ここでも一つ比較を。
ドイツでは勾留延長のたびに
弁護人の意見陳述が
義務付けられています。
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母親が面会を最初に断られたとき、窓口の警察官はこう言った。
「捜査に支障をきたす恐れがあります」
母親は「娘は何をしたんですか」と聞いた。
警察官は「捜査中です」と答えた。
それだけだった。
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@haruka_murase_law 3/10
接見禁止——
弁護士以外との面会を
禁じる処分があります。
家族にも会えない。
手紙も届かない。
これは裁判官の判断で
付与されます。
ただし「証拠隠滅の恐れ」という
基準は、広く解釈されます。
18歳の見習いスタッフが
どんな証拠を隠滅すると
考えられたのか、
私にはわかりません。
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澪が釈放された夜、母親が最初に気づいたのは娘の手だった。
ひと回り細くなっていた。
澪はその夜、テーブルに出された食事を見て、「ごめん、まだちょっと無理」と言った。母親は何も聞かなかった。
翌朝も、その翌朝も、同じだった。
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@haruka_murase_law 4/10
拘置環境の話をします。
留置施設の食事は、
一日三回提供されます。
ただし食べるかどうかは
本人次第です。
食べられなくなることは、
珍しくありません。
精神的な負荷が
身体に出る。
それは弱さではなく、
人間の正常な反応です。
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澪が母親に話したのは、釈放から三週間後のことだった。
夜、二人でテレビを見ていたとき、澪は突然言った。
「最初から決まってたみたいだった」
母親が「何が?」と聞くと、澪はしばらく黙ってから続けた。
「私がやったって。それを確認するだけの時間だったみたいだった」
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@haruka_murase_law 5/10
取調べにおける
「自白偏重」の問題を
少し説明します。
捜査の目的は真実の発見です。
しかし取調べが
「自白を取ること」を
目標にした瞬間、
構造が変わります。
被疑者は有罪の前提で
部屋に座ることになる。
無実の人間が
その部屋に座ったとき、
何が起きるか。
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@haruka_murase_law 6/10
心理学の研究が示すことがあります。
密室、長時間、孤立、
繰り返しの否定——
これらが組み合わさると、
人間の認知は歪み始めます。
「自分が間違っているのかもしれない」
という感覚が生まれます。
無実であっても。
これを「虚偽自白」といいます。
先進各国の司法制度は
この研究を踏まえて
設計されています。
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遥は資料の中に、一枚のメモを見つけた。
澪が自室に残していたものだった。母親が形見として持っていて、遥に見せてくれた。
走り書きで、こうあった。
「私はやっていない。でもそれを信じてもらえる場所がない」
日付はなかった。
涙で滲んでいた。
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@haruka_murase_law 7/10
「信じてもらえる場所がない」
これが冤罪の本質だと、
私は思っています。
無実を証明する機会が
与えられないこと。
訴える先がないこと。
釈放されても、
「では無実でした」と
誰かが言ってくれるわけではないこと。
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@haruka_murase_law 8/10
イギリスには
「冤罪調査委員会(CCRC)」
という独立機関があります。
有罪判決を受けた人が
申請できる、
司法とは独立した再調査機関です。
アメリカには各州に
「イノセンス・プロジェクト」
という組織があり、
DNAや新証拠で
再審を支援します。
日本の再審制度は、
扉が非常に重い。
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澪が亡くなる二日前、母親に送ったメッセージがあった。
「お母さん、介護の仕事、また続けたい」
母親はすぐに返信した。
「もちろん。焦らなくていい」
澪からの返信はなかった。
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@haruka_murase_law 9/10
澪さんは、
また介護の仕事をしたいと
言っていました。
あの部屋に入る前から
ずっとそれを目指してきた子が、
あの部屋を出た後も
それを諦めていなかった。
私はそのことを、
ここに書き留めておきたかった。
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@haruka_murase_law 10/10
22人は今も沈黙しています。
沈黙しているのは
彼らのせいではありません。
「出てきたら面倒なことになる」
という空気が、
沈黙を作っています。
その空気がどこから来るのか——
それはまた、別のスレッドで。
今夜は澪さんのことだけを
書きました。
——村瀬遥
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投稿を終えて、遥はしばらくスマートフォンを置けなかった。
通知は止まらなかった。RTが広がっていた。メディア関係者らしいアカウントからのDMが三件来ていた。弁護士仲間からの「大丈夫か」というメッセージが二件。
そして弁護士会からのメール通知が、一件。
件名は「ご連絡」とだけあった。
遥はそれを開かずに、画面を伏せた。
介護福祉士の合格通知のコピーが、机の上にあった。
十八歳で取った資格。
使われないまま残っている資格。
遥は電気を消さずに、その夜は眠れなかった。
* * *
第四章「撤回」
* * *
投稿から四日後、遥のもとに一本の電話が来た。
澪の母親からではなかった。
地方紙の記者だった。「取材させてほしい」という内容だったが、遥が気になったのは会話の最後の一言だった。
「弁護士会から何か言われましたか」
遥は「なぜそれを」と聞いた。記者は少し間を置いて言った。
「こちらにも、いろいろ連絡が来ているので」
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@haruka_murase_law
#撤回 1/9
今日は短く書きます。
通報者が、発言を撤回しました。
「ちょっとオーバーに言いすぎました」
それだけです。
それだけで、すべてが始まり、
それだけで、すべてが終わりました。
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@haruka_murase_law 2/9
法的に言えば、
撤回は「なかったこと」を
意味しません。
逮捕は適法に行われました。
勾留も適法でした。
取調べも適法でした。
誰も責任を問われません。
「適法」という言葉が
これほど空洞に聞こえることを、
法律家になりたての頃の私は
知りませんでした。
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遥が初めて『適法な冤罪』という言葉を使ったのは、ニューヨーク時代の指導弁護士との会話の中だった。
「それは矛盾語法じゃないか」と指導弁護士は言った。
「でも実際に起きています」と遥は答えた。
指導弁護士はしばらく考えてから言った。
「だとすれば、法律が間違っている」
日本に戻ってから、遥はその言葉を何度も思い出した。法律が間違っているという考え方は、日本の法曹の世界では歓迎されない。
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@haruka_murase_law 3/9
比較をさせてください。
アメリカでは
「悪意ある訴追(malicious prosecution)」
という概念があります。
根拠のない訴追によって
損害を受けた場合、
訴追者に対して
民事訴訟を起こせます。
「言いすぎました」では
終われない仕組みがある。
日本にも国家賠償法はあります。
ただし「違法な捜査」の
立証責任は被害者側にあります。
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────────────────────────
@haruka_murase_law 4/9
では誰が責任を取るのか。
組織は取りません。
担当した警察官は取りません。
令状を出した裁判官は取りません。
検察官は取りません。
被害者の家族だけが、
残されます。
「責任を取る」という言葉の
意味を、私は今一度
問い直したいと思っています。
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弁護士会からのメールを、遥はあの夜から開かずにいた。
四日が経って、ようやく開いた。
件名は「ご連絡」。本文は短かった。「SNSでの情報発信につき、一度お話を伺いたく存じます」
差出人は、綱紀委員会だった。
────────────────────────
@haruka_murase_law 5/9
私のところに、
弁護士会から連絡が来ました。
「お話を伺いたい」
どんな話をするのか、
だいたい想像できます。
私はこの投稿を
やめるつもりはありません。
ただ、それをここに書いておきます。
────────────────────────
リプライがすぐに来た。
「応援しています」
「負けないでください」
「私も似たような経験をしました」
その中に一件、こんな投稿があった。
「弁護士が黙れということですね。誰が黙らせようとしているのか、みんなで見ていましょう」
遥はそのリプライを見て、少し考えた。
自分が今やっていることが、正しいかどうかではなく——続けられるかどうかを、初めて考えた。
────────────────────────
@haruka_murase_law 6/9
ここで一つ、
海外の話をします。
イギリスには
「公益開示法(Public Interest
Disclosure Act)」があります。
公的機関の不正を
外部に告発した人間を
保護する法律です。
内部告発者が
報復を受けないための
制度的な盾です。
日本の公益通報者保護法は
2020年に改正されましたが、
対象範囲と実効性において
まだ議論があります。
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────────────────────────
@haruka_murase_law 7/9
私は内部告発者ではありません。
私は弁護士として、
依頼人から聞いた話を、
個人情報を除いた上で、
公共の議論のために
書いています。
それが許されない社会は、
どんな社会でしょうか。
私にはわかっています。
でも、あなたにも
考えてほしい。
────────────────────────
遥は下書きをいくつか書いて、消した。
感情的になりすぎているものは消した。個人を名指しするものは消した。
残ったのは、事実だけだった。
事実だけで、十分に怖い話になった。
────────────────────────
@haruka_murase_law 8/9
澪さんのお母さんに
先日会いました。
「娘のことを書いてくれて
ありがとうございます」と
言われました。
私は何も言えませんでした。
書くことしかできない自分が、
その瞬間、ひどく
無力に思えました。
でも書き続けます。
それしかできないから。
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────────────────────────
@haruka_murase_law 9/9
次回は、
性加害事件の
検挙率について書きます。
同じ制度の、
別の顔です。
「厳しすぎる」と
「緩すぎる」が
同じ組織の中に
同時に存在している。
その構造を、
できるだけ丁寧に
書くつもりです。
——村瀬遥
────────────────────────
投稿を終えたあと、遥は窓の外を見た。
灰瀬市の夜景は、どこの地方都市とも変わらない。コンビニの明かりと、信号と、たまに通る車のライト。
この街のどこかで今夜も、取調室に明かりがついているかもしれない。
誰かが一人で座っているかもしれない。
「認めれば、今日帰れますよ」という言葉を、今夜も誰かが聞いているかもしれない。
遥は弁護士会からのメールに、短い返信を書いた。
「来週、伺います」
送信して、画面を閉じた。
澪の合格通知のコピーは、まだ机の上にあった。
* * *
第五章「今日帰れます」
* * *
弁護士会との面談は、三十分で終わった。
委員は二人いた。どちらも穏やかな口調だった。それがかえって、遥には不自然に感じられた。
「投稿の内容が、特定の捜査機関への不当な批判にあたる可能性がある」
「弁護士としての品位を保つ観点から、慎重な発信を」
「もちろん、強制ではありませんが」
遥は黙って聞いた。反論しなかった。帰り際に「ご助言ありがとうございました」とだけ言った。
その夜、投稿した。
────────────────────────
@haruka_murase_law
今日、弁護士会と話しました。
「強制ではない」という言葉を
二回聞きました。
強制ではないけれど、
やめた方がいい。
その構造を、
私はどこかで見たことがあります。
——村瀬遥
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逮捕されたのは、その十日後だった。
朝七時十四分。
玄関のチャイムが鳴った。
────────────────────────
@haruka_murase_law
—— 以降、投稿が途絶える ——
────────────────────────
令状には「業務上横領」とあった。
依頼人から預かった和解金の一部を、私的に流用したという疑いだった。
遥には、まったく身に覚えがなかった。
取調室は、思っていたより狭かった。
十七年間、弁護士として何度も『この外側』に立ってきた。接見室のガラス越しに、依頼人がいた部屋。
今、自分がその中にいた。
椅子は硬かった。テーブルは古い。蛍光灯が少し明るすぎた。
担当の刑事は四十代に見えた。落ち着いた声で話した。
「村瀬さん、弁護士さんなんですよね。じゃあ手続きはご存知ですよね」
遥は黙っていた。
「横領の件、正直に話してもらえると、早く終わります」
早く終わります。
遥はその言葉を聞いた瞬間、澪のことを思った。
「認めれば、今日帰れます」
同じ構造だった。
出口を差し示す。
ただし、その出口の先に何があるかは言わない。
「黙秘します」
遥は言った。
刑事は表情を変えなかった。「そうですか」とだけ言って、書類に何か書いた。
沈黙が続いた。
遥は壁を見た。何もない壁だった。
この部屋に録音機器があるかどうか、遥には見えなかった。記録されているかどうかも、わからなかった。
* * *
二時間後、接見室で当番弁護士と話した。
同期の弁護士だった。名前は桐島といった。
桐島は開口一番、「何があった」と言った。遥はかいつまんで話した。桐島は聞きながら、何度か眉をひそめた。
「タイミングが、できすぎてる」
「わかってる」
「SNSの件と関係があると思うか」
遥はしばらく考えた。「思う。でも証明できない」
桐島は腕を組んだ。「とにかく、何も認めるな。一言も」
「わかってる」
「わかってても、長くなると——」
「わかってる」
遥は繰り返した。
わかっていた。頭では。
ただ、椅子に座ったまま、この部屋で何日も過ごすことが、十七年間想像してきたそれと、まったく違う重さを持っていることも——今、初めて知っていた。
* * *
三日目の夜、遥は眠れなかった。
留置施設の天井を見ながら、依頼人たちのことを考えた。
六十二歳の男性。「認めれば終わる」と言われ続けた男性。十九日間、この感覚の中にいたのか。
澪は、七日間。
SNSで読んだ——別の事件の十七歳の少女が、この部屋で何週間も過ごした。
自分は弁護士だ。法律を知っている。権利を知っている。桐島がいる。
それでも、重かった。
何も知らない十八歳が、一人でここに座ったとき。
何も知らない十七歳が、ここから出られなかったとき。
* * *
五日目、取調べで刑事が言った。
「村瀬さん、あなたが発信してきたこと、私も読みましたよ」
遥は黙っていた。
「正直、気持ちはわかる部分もある。制度の問題、確かにあると思う」
遥は答えなかった。
「ただ、今回の件は別の話ですよね。横領は横領です。認めて、きちんと説明してもらえれば——」
「黙秘します」
刑事は少し間を置いた。
「今日も、ですか」
「今日も」
* * *
七日目の朝、桐島が来た。
「預り金の記録、全部洗った。入出金の履歴に、不審な点が見当たらない」
遥は頷いた。
「向こうが持っている証拠が何なのか、まだ見えない。ただ——」桐島は声を低くした。「依頼人の一人が、警察に呼ばれて話をしたらしい」
「誰が」
「それはまだわからない」
遥は天井を見た。蛍光灯が、変わらず明るかった。
* * *
十日目。
担当の刑事が変わった。
新しい刑事は三十代で、前任より話が少なかった。ただ、最後にこう言った。
「村瀬さん、あなたには戻る場所があるんですよね。事務所、依頼人、書きたいことも。認めて、早く戻った方がいいんじゃないですか」
戻る場所。
遥は机の傷を見ながら、澪のことを考えた。
澪には戻る場所があった。
介護の仕事。取った資格。好きだった仕事。
戻れなかった。
「黙秘します」
遥は言った。声は、思ったより静かだった。
* * *
第六章「署名しない」
* * *
十四日目。
桐島が来た。顔色が違った。
「証拠が、見えた」
遥は黙って続きを待った。
「依頼人の一人——三年前の離婚案件——が、調書に署名していた。あなたが和解金の一部を着服したと」
「その人は」
「弁護士会の聴取にも応じた。先週」
遥は壁を見た。
三年前の離婚案件。依頼人は四十代の女性だった。難しい案件だったが、最終的に納得のいく和解ができたはずだった。
「その人が、なぜ」
「わからない。ただ——」桐島は声をさらに低くした。「その人、最近警察の別件で事情聴取を受けていたらしい」
沈黙があった。
「そういうことか」と遥は言った。
桐島は何も言わなかった。
* * *
その夜、遥は眠れなかった。
食事が運ばれてきた。見た。食べられなかった。
次の日も同じだった。
食べようとすると、胃が締まった。水は飲めた。それだけだった。
食べられなくなる感覚を、遥はそのとき初めて理解した。
弱いからではなかった。
身体が、状況を正直に反映していた。
澪も、こうだったのかもしれない。
この部屋で、食事を前に、同じように——
* * *
十七日目。
担当刑事が言った。
「村瀬さん、体調が優れないと聞きました。無理しなくていいですよ。認めてしまえば、楽になる」
遥は答えなかった。
「あなたが発信してきたこと、意味がなかったわけじゃないと思う。ただ、今は自分のことを考えた方がいい」
遥は机を見た。
十七日間、同じ机だった。傷の形を覚えてしまっていた。
「署名しません」
* * *
二十日目。
桐島が来た。
「依頼人の女性、撤回した」
遥は顔を上げた。
「警察の聴取で言わされたことだったと。弁護士を立てて、上申書を提出した。自分も疑われるのが怖かったそうだ」
遥は何も言えなかった。
「釈放される。明日」
* * *
翌朝、遥は外に出た。
十一月だった。
空気が冷たかった。光が、施設の中より少し違う色をしていた。
桐島が隣にいた。何も言わなかった。それでよかった。
遥は空を見た。
澪が釈放されたのも、こんな朝だったのかもしれない。
家に帰って、母親が待っていて、でも食べられなくて、それでも——また介護の仕事をしたいと思っていた。
あの部屋の中で、それを諦めなかった。
遥は歩き始めた。
* * *
自宅に戻って、最初にしたことはシャワーだった。
次に、スマートフォンを手に取った。
二十一日分の通知があった。開かなかった。
机の上に、澪の介護福祉士合格通知のコピーがあった。
留置施設に持っていけなかった。でも、ここにあった。
遥はそれをしばらく見ていた。
* * *
翌日、遥は食事を少し食べられた。
トーストを半分。それだけだった。でも、食べられた。
桐島からメッセージが来た。「無理するな」
遥は「ありがとう」と返した。
それだけだった。
* * *
三日後の深夜、遥はスマートフォンを手に取った。
アカウントを開いた。
二十一日間、投稿がなかった画面を見た。
フォロワーが増えていた。何が起きたか、みんな知っていた。
遥は長い時間、画面を見ていた。
書くべきことは、わかっていた。
ただ、指が重かった。
それでも、動いた。
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@haruka_murase_law
戻ってきました。
21日間、取調室に座りました。
「認めれば、今日帰れます」
私は弁護士です。
その言葉の意味を、
知っていたつもりでした。
知らなかった、と今は思います。
——村瀬遥
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送信して、遥はスマートフォンを伏せた。
コーヒーを入れた。飲めた。
窓の外は暗かった。
灰瀬市のどこかで今夜も、明かりのついた取調室があるかもしれない。一人で座っている誰かがいるかもしれない。
遥はコーヒーカップを両手で持った。
温かかった。
* * *
終章「22人、今も沈黙している」
* * *
十二月になっていた。
遥は少しずつ、食べられるようになっていた。
トーストが一枚食べられるようになった。次の週には、温かいものが食べられるようになった。桐島が「顔色が戻った」と言った。遥は「そうか」と答えた。
事務所に戻った。依頼人たちはいた。案件はあった。仕事があった。
ただ、何かが変わっていた。
取調室の椅子の硬さを、遥はまだ覚えていた。蛍光灯の色も。傷の入った机も。
忘れようとは思わなかった。
* * *
釈放から三週間後、澪の母親から連絡が来た。
「先生が戻ってきてくれてよかった。ニュースで見ました」
遥は電話口で、しばらく言葉が出なかった。
「お母さんこそ」とだけ言った。
「澪のこと、これからも書いてもらえますか」
「書きます」
「ありがとうございます」
電話が切れた。
遥は受話器を置いて、窓の外を見た。
冬の空だった。
* * *
その夜、遥はスレッドを書いた。
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@haruka_murase_law
#22人、今も沈黙している 1/11
戻ってきました。
21日間のことを、
少しだけ書きます。
これは私の話です。
ただ、私の話をするために
書くのではありません。
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@haruka_murase_law 2/11
取調室に入って、
最初に思ったのは——
「椅子が硬い」
でした。
17年間、外側から
この部屋のことを語ってきた。
座った初日に、
知らなかったことを知りました。
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@haruka_murase_law 3/11
5日目から、
食事が食べられなくなりました。
弱いからではありません。
身体が、正直だっただけです。
澪さんも、こうだったのかと
思いました。
あの部屋で、
一人で、
7日間。
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@haruka_murase_law 4/11
私には桐島という
弁護士の友人がいました。
法律の知識がありました。
黙秘権を知っていました。
制度を知っていました。
それでも、重かった。
澪さんには
何もなかった。
18歳で、
一人で、
あの部屋に座った。
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ここで遥は、一度入力を止めた。
次の言葉をどう書くか、三十分考えた。
感情的になってはいけない、と思ってきた。事実だけを書く、と決めてきた。
それでも、書いた。
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@haruka_murase_law 5/11
一つだけ、怒りを書かせてください。
澪さんが釈放された理由は
「通報者が撤回したから」でした。
では——
22人の目撃者に
最初から話を聞いていれば、
澪さんはあの部屋に
一日も座らずに済んだはずです。
22人。
その数字を、
私は何度数えても、
慣れることができません。
22人が見ていた。
22人が知っていた。
22人は今も、沈黙しています。
彼らのせいではない。
沈黙せざるを得ない空気を
作ったものが、あります。
それが何かを、
私はこれからも書き続けます。
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送信して、遥は深呼吸した。
手が少し震えていた。
十七年間で初めて、投稿した文章に手が震えた。
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@haruka_murase_law 6/11
私が逮捕された件について。
預り金横領の疑い。
証拠とされたのは、
依頼人の証言でした。
その依頼人は、
別件で警察の聴取を受けた直後に
私についての証言をしていました。
その依頼人は後に、
すべてを撤回しました。
私は釈放されました。
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@haruka_murase_law 7/11
因果関係を、
私には証明できません。
SNSの投稿と、
逮捕のタイミングの関係を、
立証する手段がありません。
ただ、タイミングは
記録として残ります。
弁護士会への苦情が来た。
地方紙への圧力があった。
そして逮捕された。
記録は、消えません。
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@haruka_murase_law 8/11
海外では、
公益告発者を守る制度があります。
イギリスの公益開示法。
アメリカの内部告発者保護法。
EU全域をカバーする
告発者保護指令(2021年)。
日本でも制度はあります。
ただ、私のような
「外側から声を上げた弁護士」を
守る仕組みは、
まだ十分ではありません。
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@haruka_murase_law 9/11
私は続けます。
取調べの可視化。
弁護人立会権の確立。
代用監獄の廃止。
性加害事件の捜査改善。
公益告発者の保護。
一つ一つは、
難しい問題です。
でも難しいから
黙るのは、違うと思っています。
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遥は最後の二つの投稿を、一番時間をかけて書いた。
澪のことを思いながら書いた。
合格通知のコピーを、机の上に出して、書いた。
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@haruka_murase_law 10/11
澪さんのお母さんが
先日、こう言いました。
「娘は、またあの仕事をしたいと
言っていました」
18歳で資格を取った。
好きな仕事があった。
戻りたい場所があった。
それだけのことが、
なぜ——
という問いに、
私はまだ答えられません。
答えられる日が来るまで、
書き続けます。
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@haruka_murase_law 11/11
最後に、
22人へ。
あなたたちが見ていたことを、
私は知っています。
話せない理由が
あることも、
わかっています。
ただ一つだけ。
あなたたちが見ていた、
その事実は——
消えません。
記憶は、
沈黙していても、
存在します。
いつか、話せる日が来たとき。
私はここにいます。
——村瀬遥
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投稿を終えた。
通知が来た。最初の一件は、見知らぬアカウントからだった。
「22人のうちの一人です。読んでいます」
遥はそのリプライを、長い時間見た。
返信しなかった。
する必要はないと思った。
存在することが、わかった。それで十分だった。
コーヒーを入れた。
今夜は飲めた。温かかった。
灰瀬市の夜が、窓の外にあった。
どこかに明かりのついた取調室があるかもしれない。今夜も誰かが一人で座っているかもしれない。
遥にできることは、書くことだけだった。
それでも、書き続ける。
澪の合格通知のコピーは、明日も机の上にある。




