二人きりの馬車
城塞都市を出発する日の朝。アンネリーゼは客間の窓から、活気を取り戻し始めた街の風景を眺めていた。広場の通りでは、あのお式の成功を聞きつけた若者たちが、花屋の前に列を作っているのが見える。新婦の花屋の娘の笑顔が目に浮かぶようだった。
「次は王都でブライダル事業ね、エルドラン」
アンネリーゼが小さくつぶやくと、足もとに霧が集まり、エルドランが姿を現す。彼はふわりと尾を揺らし、念話で答える。
『いい意気込みだ。王都へ行けば、もっと多くの人間がキミの魔法を待っているはずだよ』
「もう、魔法だなんて褒めすぎでしょう。でも、シグルド様が信じてくれたこの道、わたしはまっすぐに進みたい。自分の足で前を向いて歩んでいる、彼みたいに」
胸もとの菫色のブローチにそっと触れると、指先から勇気が湧いてくるようだった。
昨日、彼が「国王夫妻に紹介したい」と言ってくれた時の照れた顔を思い出し、途端にまた胸の奥がドキリと音を立ててしまう。
(もう、もう、どうしていつも彼のことを考えるとドキドキしちゃうの……!)
――わかっているのだ。自分は、彼に惹かれ始めているのだと。
けれども、この気持ちは胸に秘めておかなければならない。元婚約者から婚約破棄をされ、祖国を追放された身。いまはなんの身分も持たないただの娘である自分を、忘れてはいけないのだ。
(……そうだわ、余計なことを考えていてはダメ。ましてや恋に現を抜かしている場合ではないわ。ブライダル事業でこの国を救う……わたしはそのためにこの国に置いていただけているのだもの)
アンネリーゼは胸に手を当てて深呼吸をする。
そして、次にまぶたを開けた時、その菫色の瞳からは揺らぎが消え、前世から数多の現場を支えてきた『仕事の目』へと戻っていた――。
***
やがて、王都へ向かうための立派な馬車が館の前に用意された。
少ない荷物をまとめ、旅装に着替えたアンネリーゼは、街の人々に名残惜しそうに見送られながら城塞都市を後にする。「また必ず遊びに来るわ」と約束をして。
道中、御者に引かれて揺れる馬車の中、アンネリーゼはシグルドとふたりきりになる。王族が使用する馬車であるから十分な広さがあるのだけれど、どうしても走行中に揺れるので、たまに彼と体が触れそうになってしまう。
そのたびに、お互いに気を遣い合って「ごめんなさい」やら「申し訳ない」と短く謝り合って――それを何度か繰り返すうちにシグルドと小さく笑ってしまった。
「……なんだか俺たちは似た者同士なのかもしれないな」
「そうですね。ちょっと性格が似ているのかも」
ふふ、と顔を綻ばせると、そんなアンネリーゼをシグルドが目を細めて見つめる。
そして、彼は少し緊張した面持ちを浮かべた。
「アンネ。今のうちに伝えておこうと思うのだが、王都へ戻れば、君には苦労をかけるかもしれない。……俺の父上たちは少し、頭が固いところがあるからな」
(自国が危機に瀕しているのだから、国王夫妻が厳しい目になるのも無理はないわ……)
アンネリーゼは、問題ないとうなずいてみせる。
「覚悟はできておりますわ、シグルド様。わたくしの提案する『ブライダル事業』が、この国を救う鍵であることを、全力で証明してみせます」
「……ああ。君ならそう言うと思った」
シグルドはふっと表情を和らげ、おもむろにアンネリーゼの手を優しく包み込んだ。軍服越しでも伝わってくる彼の温かさに、アンネリーゼは「あ……」と声を漏らし、顔を赤らめる。彼から手を握られたことは、初めてだった。それだけ自分に親しみを持ってくれていることがわかって、アンネリーゼは指先が震える。
「俺は、君のその情熱を誰よりも信じている。……だから、安心して俺の隣にいてほしい」
シグルドが金茶色の瞳を細め、少年のふうな明るい笑顔を向けた。
(な、な、なッ……! そのセリフは反則でしょうっ)
彼のことを意識し始めている自分にとっては、いわゆる殺し文句でしかない。
きっと朴念仁のシグルドは、自分がどんなに甘い言葉を言っているのか無自覚なのだろうけれど。
アンネリーゼは肩を震わせながら、勢いのあまり目の前のシグルドの頬を引っ張る。
「――痛ッ⁉」
「殿下! そういうことは、意中の女性におっしゃってください!」
肩で息をしながら、シグルドを叱ったその時だった。突如として、馬車が急停止したのだ。外からは、護衛の兵士たちの戸惑う声が聞こえてくる。
(なに……?)
異変に身を縮こませていると、シグルドが「君はここを動かないでくれ」とこちらを安心させるようにアンネリーゼの肩に両手を置く。
「何事だ!」
シグルドが険しい表情で窓の外を確認すると、そこには豪華な、けれど見覚えのある紋章が刻まれた馬車が道を塞いでいた。
(あれは、まさか――)
見間違えるはずもない。……グランディール王国の、王家の紋章だ。
やがて、その馬車から降り立ってきたのは、アンネリーゼが最も会いたくなかった人物――元婚約者のルシアード王太子だった。以前に別れた時よりも少し痩せただろうか。
「久しぶりだね、アンネリーゼ。……迎えに来たよ」
ルシアードは相変わらず自信満々に胸を張り、傲慢な笑みを浮かべてこちらを見据えていた。アンネリーゼを罪人として追放した時と同じ、自分勝手な輝きを瞳に宿している。
(どうして……。ルシアード様が、なぜここに……?)
一国の王太子が、祖国と身分を失い、ただの娘となった自分に用などないだろう。
青ざめていると、シグルドがそっとアンネリーゼの耳もとに口を寄せる。
「……アンネ。大丈夫だ。君のことは、俺が必ず守る」
シグルドの凛々しい横顔に、アンネリーゼは感動から胸を熱くしてうなずくことしかできなかった。彼に守られている――それがとても頼もしくて、うれしくて。
隣でシグルドが、反射的にアンネリーゼを背中に隠すようにして立ちはだかった。
平穏を揺るがす影が、ついにアンネリーゼたちの前に現れたのだった。




