私より先に笑う ― 反射 ~ 鏡の中の私は、瞬きをしない ~
第1話
その日から、鏡の中の私は、瞬きをしなくなった。
気づいたのは、朝だった。
洗面台の前。
白い蛍光灯が冷たくて、顔色が少し薄く見える。
歯ブラシをくわえたまま、ぼんやりと自分を見ていた。
私は昔から、自分の顔を見るのが嫌いではなかった。
好きでもないけれど、観察するのは落ち着く。
笑うとき、右の口角が少しだけ先に上がる。
怒ると、眉の間に浅い線が寄る。
泣くときは、鼻より先に喉が熱くなる。
だいたいの順序は、知っている。
そのはずだった。
瞬きをする。
まぶたが閉じる。
開く。
鏡の中の私は、まだ目を開けたままだった。
ほんの一拍。
でも確かに、“私ではない時間”があった。
遅れて、まぶたが閉じる。
指先が止まる。
もう一度、ゆっくり瞬きをする。
今度は同時だった。
寝不足かもしれない。
光の反射かもしれない。
私は出来事を分類してから考える癖がある。
分類できないものは、だいたい見間違いに入れる。
学校へ向かう途中、コンビニのガラスに自分が映る。
横目で確認する。
ちゃんと瞬きをしている。
教室の窓。
黒板の艶。
スマホの黒い画面。
反射するものがあると、つい見てしまう。
昔、合わせ鏡をどこまで続けられるか試したことがある。
無限に並ぶ自分を見ていると、
どこか一人くらい、違う動きをするのではないかと思った。
もちろん、誰も裏切らなかった。
放課後。
友達と廊下を歩いていた。
くだらない話。
誰が誰を好きだとか、そんなこと。
友達が、やけに大げさな声色で真似をした。
私は笑おうとした。
その瞬間、廊下の窓に自分が映った。
乾いたガラス。
曇りのない表面。
そこにいる私は、もう笑っていた。
口角が上がっている。
目が細くなっている。
音は、まだ出ていない。
私の喉は、まだ動いていない。
一拍遅れて、笑い声が出る。
友達は何も気づかない。
私はちゃんと笑っている。
でも、窓の中の私は、
私より少しだけ早く、楽しそうだった。
帰り道のショーウィンドウ。
自室の姿見。
電気を消したあとの黒い画面。
大きなズレはない。
ただ、ごくわずかに、
表情が先に決まっている気がする。
気のせいだ。
もし本当にそうなら、
私はいま、自分よりも後から笑っていることになる。
それは、少しだけ変だ。
でも、変なだけだ。
鏡の中の私は、
今日もちゃんと瞬きをしている。
たぶん。
◇◆◇
第2話
昼休み。
廊下はいつもより暗い。
細い雨が、窓を斜めに流れている。
湿った匂いが、校舎に溜まっている。
ガラスの横を通り過ぎたとき、
自分が映った。
水滴に歪んだ顔。
目尻だけが、じわりと濡れて見えた。
泣きそうだ、と思った。
でも私は、悲しくない。
胸は静かだ。
呼吸も一定。
雨粒の位置だ。
ただの錯覚。
そう思って歩き出す。
一歩。
二歩。
みぞおちの奥が、鈍く押される。
遅れて、肺が浅くなる。
息が、うまく吸えない。
喉の裏が熱い。
舌の付け根が、かすかに震える。
理由を探す。
何もない。
嫌なことはなかった。
それでも、体が先に泣く準備をしている。
さっき見た顔は、
私より少し早く、この重さを知っていた。
私はまだ悲しくない。
そう思ったときには、もう悲しくなっていた。
◇◆◇
第3話
朝。
鏡を見る。
瞬きをする。
同時に閉じる。
同時に開く。
もう一度。
同時。
問題はない。
制服の襟を直す。
表情も、同じ。
学校。
笑う。
声が出る。
口角が上がる。
順序はわからない。
何も先に動かない。
放課後。
窓に映る。
同時。
夜。
部屋の電気を消す。
黒い画面に、顔が浮かぶ。
目が合う。
見ている。
画面の中の私が、息を吐く。
胸は動いていない。
一拍遅れて、空気が入る。
まばたきが、ほんのわずかに遅れた。
視線が、こちらを捉える。
表情が変わる。
わずかに、口角が上がる。
私は、まだ笑っていない。




