前夜
※本稿は、戦後に発見された相田玄中の遺稿をもとに、当時の表記を一部現代語に改めて掲載したものである。原稿は、戦時下に所在不明となった雑誌「幻燈短編文学全集」の旧号に掲載された可能性が指摘されている。没後、遺稿をまとめた『相田玄中作品集』(未刊行原稿多数)が家族の手により私家版としてまとめられたが、現存は確認されていない。
明の初め、洪武帝朱元璋の世である。あるひとりの官僚が、時代の流れに攫われ、刑に処される。
前夜。私は刑に処される前夜の身である。私のせいで、兄も、妹も、妻も、娘も、全員、現世に別れを告げなくてはならなくなってしまったのだ。私は今、牢獄にいる。明日の朝、故郷へと発ち、そこで死ぬのだ。過去が頭の中を流れていく。兄との思い出、科挙に合格した時のこと、親と共に都から離れた時のこと…季節が過ぎた花の様に色褪せた記憶が、色を取り戻し鮮やかに咲いている。
刑吏が食事を運んできた。肉の羹であった。私はそれを食った後、少し考え事をして眠った。
翌朝。刑のために牢を出た。死に場所に着いた。懐かしい、子供の頃の日常の匂いがする。あそこの桃の木の桃をよく兄様と分けて食べたなぁ、春先になれば兄と妹を連れて梅の花を見にいって…子供の懐かしい日常が胸を温める。
刑場にて侯の側は告げた。
「昨晩食した羹はどうであったか。あれは貴様の兄のものだが、兄の肉はさぞ美味だっただろうな」
全身の毛が逆立ち、胃の内容物が喉を遡る。しかしここで吐けば向こうの思う壺だ。私の負けだ。身体を捩り必死に飲み込む。
息を切らし汗と涎を垂らして王の側を睨みつける。私の僅かな、最期の勝利だ。
私は昨晩兄の一部を腹に入れた。
これで兄と共に死ねるのだ。
私の勝ちだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
相田玄中でした。
著者:相田玄中(1909〜1942)
執筆:昭和十五年頃(掲載誌不詳)
出典:幻灯文学集第七号
略歴:
1909年 東京府本郷区に生まれる。本名、小鳥遊俊昭。
1932年 帝都大学文学部卒。中国文学を専攻。小説「玄武の禍」で文芸誌に応募
1939年 徴兵。戦地で短編「前夜」を執筆
1944年 ビルマ戦線にて戦死。享年35
*本作は架空の作家・設定による創作です*
*中身はただの現代人です。安心してください*




