月
人生が変わりそうな瞬間は、何度かあった。
たぶん、実際に変わっていたのだと思う。
ただ、それを証明できるものは、
今の僕の手元には何もない。
金はないし全部高い。
肩書もないし恋人もいない。
連絡を取らなくなった人の名前だけが、
記憶の中にいくつか残っている。
何者かだった気もするし、
最初から何者でもなかった気もする。
どちらでもいい、と今は思っている。
死んでもいいと思っていた時期はあった。
それは投げやりという意味じゃなく、
やることはやった、という感覚に近かった。
今は違う。
生きたいとも、死にたいとも、強くは思っていない。
ただ、時計の音だけがちょうどいいリズムで続いている。
それだけだ。
夜のコンビニは静かだった。
レジの音と、冷蔵ケースの低い唸り声だけが聞こえる。
買ったのは、
どこのメーカーかもわからないコーヒーと、
必要でもないものを一つ。
外に出ると、空気が少し冷たかった。
アスファルトは昼間の熱を失っていて、
歩くたびに靴底から感触が跳ね返ってきた。
徒歩5分のコンビニ。
帰り道はいつもと同じだった。
信号、横断歩道、街頭。
何も起きないはずの道。
なのに、急に視界が狭くなった。
音が遠くなって、
自分の呼吸だけ大きく聞こえた。
汗が一気に噴き出す。
足に力が入らない。
立っていられない、というより、
立つ理由が見つからなくなった感じがした。
寒いのか熱いのかわからなくなった。
気づいたときには、地面が近かった。
冷たい。
熱い。
硬い。
でも痛みは感じなかった。
どれぐらいの時間、そうしていたのかはわからない。
数秒かもしれないし、
もっと長かったのかもしれない。
その間に、声がした。
はっきりとした音ではなかった。
耳で聞いたというより、
考えが浮かんだ、というほうが近い。
「それでも生きる?」
責められた気もしない。
でも、励ます感じでもない。
ただ、事実確認みたいな問いだった。
その瞬間、頭の中にいくつかの顔が浮かんだ。
名前もはっきりしない誰か。
まだ伸びきっていない才能。
途中で止まってしまった未来。
死んでもいいと思っていたはずなのに、
その問いを前にして、僕は少しだけ迷った。
迷った、ということは、
答えはもう決まっていたのかもしれない。
返事をしたかどうかは覚えていない。
声に出したのか、
心の中だったのかもわからないし、
何よりそれどころじゃなかった。
視界が戻ってきて、
街灯の光がやけに遠く見えた。
立ち上がるのは、まだ少し怖かった。
でも、ここで眠る理由もなかった。
家に帰る。
それだけを決めて、ゆっくりと立ち上がる。
途中でコンビニの袋を忘れたことを思い出したが、
取りに戻るほどの余裕はなかった。
玄関の扉をあけて、その場に倒れこんだ。
寝たいわけじゃなかったが、
靴を脱ぐのが面倒だった。
「それでも生きる?」
あの問いが浮かぶ。
分からなかった。
『あれは街灯じゃなくて月だったと思う』
適当な返事をした。
声に出したのか、
心の中だったかも分からない。
呼吸が少し楽になって。
僕はそのまま眠った。




