第39話 幻視
轟、と大地を震わせる轟音が響いた。紅燐の前に立つ宵たち十三人は、ただその場に立ち尽くすしかなかった。紅燐にはそう《《見えていた》》。
赤褐色の瞳を細め、紅燐は静かに片腕を掲げる。流れるようにその血潮が形を変え、幾何学めいた陣を描く。次の瞬間、虚空を貫く赤黒い槍が幾本も形成され、一斉に放たれた。
地を抉る。空を裂く。そのすべてが、宵たちへと襲いかかっているかのように《《見えた》》。
「……ッ、速すぎる!」
咲弥が叫び、双剣を交差させる。水の導を纏った刃が幾条もの奔流を生み出すが、それをも容易く突き破り、紅蓮の血槍は止まらない。
叶多が雷鳴を轟かせる。
「ハッ!」
天より落ちる稲妻が閃光となって槍を焼き払おうとするが、紅燐は一歩も動かず、ただ冷徹な眼差しで見据えていた。
「無駄ですよ」
抑揚の少ない声が、冷ややかに響く。次の瞬間、槍は稲妻を貫き、雷光そのものをねじ伏せるように弾け飛んだ。
宵は漆黒の短剣 闇御津羽を構え、全身に闇を纏わせる。
「――靭宵ッ!」
夜闇の斬撃が奔り、迫る血槍を切り裂く。だが切り裂いたはずの断面から、さらなる槍が芽吹くように生まれ、倍加して迫ってくる。
「……そんな、馬鹿な」
宵は息を呑んだ。攻撃は悉く増殖し、押し潰す。止めどなく、果てしなく。
紅燐は淡々と続ける。
「血は循環します。切り裂かれようとも、分断されようとも、必ず帰結する。これが理です。――逃げ場はありません」
言葉通り、宵たちの反撃は一切通じなかった。水も雷も闇も打ち砕かれる。珠璃の治癒の導すら、仲間の命を紡ぐ間もなく、血潮の奔流に覆われていく。
「……こんな、相手に……勝てるわけが」
咲弥の声は震え、膝が折れかける。普段の彼の挑発的な気質は跡形もなく、眼前の圧倒的現実に飲まれていた。
紅燐の血潮はさらに形を変え、無数の弾丸となって宙を埋め尽くす。それは星辰の如く煌めき、次の瞬間、一斉に炸裂した。
――星屑の雨。
衝撃が奔り、場所そのものを削り取るような破壊音が轟いた。
宵は必死に闇を広げて仲間を庇うが、爆発的な衝撃波に吹き飛ばされ、地に伏す。咲弥も叶多も同じだ。珠璃もまた、震える腕で必死に薬草を握りしめるが、それが果たす役割はない。
「――これが現実です」
紅燐の声は氷のように冷たかった。
誰も勝てない。
誰も抗えない。
そう、誰の目にも明らかだった。
宵は視界が暗転する中で、ただ悔しさを噛み締めた。
(俺たちは……何のために……)
――そして世界は、静寂に包まれた。
だが。
その「惨劇」は、《《現実ではなかった》》。
紅燐の瞳は確かに宵たちを見据えていた。だが、彼が見ていた宵たちの動きも死も、すべては幻。宵たちは紅燐から少し離れたところにおり、傷ひとつ負っていない。
珠璃が手元の小瓶を握りしめ、呼吸を整える。緑葉の粉末を溶かし、特殊な香気を帯びた薬液。彼女の導――葉の導による調合が成した秘薬。それは紅燐の五感と意識を絡め取り、虚構の戦場を脳裏に投影していたのだ。
咲弥は驚愕を抑えきれず、隣で囁いた。
「……珠璃、お前……」
「……うん。少し危なかったけど、効いてる。あの人は今、幻覚を現実だと思い込んでる」
珠璃は汗を滲ませながらも、静かに頷く。
紅燐は今も幻の敵と戦い続けていた。虚空に血槍を投げ、虚無に向けて冷徹な分析を口にし、存在しない敵を圧倒している。
「……凄まじい効果だな」
叶多は呆然と呟いた。彼の雷光が打ち砕かれる様を、幻覚の中で紅燐が演じているのだ。黒影教授は眉をひそめ、冷静に言葉を返す。
「だか、時間制限はあるはずだ。これはあとどのくらい効く?」
「……人によると思いますが……きっと、あと数分。今のうちに」
黒影教授は息を整え、生徒を見回した。
「……今しかないな」
そして黒影教授の漆黒のローブが揺れ、視線は冷徹に紅燐を射抜く。黒影は懐から鎖を取り出した。黒鉄の枷。幾重ものご加護が絡みつき、淡い紫光を放つそれは、怨骸をも封じた拘束具。導そのものを断ち切る「絶導の枷」だった。
「紅燐――その名は記録した。正の七台筆頭に並ぶ存在であることもな」
黒影は淡々と告げる。
「よって、今ここでお前の導を封じさせてもらう」
紅燐はなお幻覚の中で攻撃を続けている。血潮は虚空を裂き、彼は勝利を確信していた。その隙を逃さず、黒影は一瞬で距離を詰め、枷を振るった。
ガシャン、と鎖が絡む音。冷たい鉄が紅燐の両腕を縛り、紫光が迸る。
「……!」
紅燐の瞳が揺らぐ。幻覚の幕が剥がれ、虚構が崩れ落ちる。
「……これは……幻覚……? 私が……闘っていたのは……」
掠れた声が漏れた。赤褐色の瞳が大きく見開かれ、現実を認識した。黒影は冷然と見下ろし、告げる。
「無駄だ。枷はお前の血をも縛る。導は発現せん」
紅燐はなおも抗おうとするが、鎖の力が血流を固め、力は発動しない。その姿に、宵たちは再度実感する――あの圧倒的な戦闘は幻。だが現実の紅燐は今、捕らわれの身である。
珠璃は小さく息を吐き、呟いた。
「……よかった、効いて」
宵は胸を撫で下ろしつつ、黒影教授の後ろ姿を見つめた。やはり重厚にして威圧的。その存在感は、紅燐と匹敵するほどだった。
黒影は鎖を締め上げ、低く言った。
「紅燐――お前には訊くことが山ほどある。正についてもな」
闇はまだ深く、その奥に潜む正の真実は遥かに重い。だが、この瞬間だけは、確かに彼らの勝利であった。




