第35話 背中を押す言葉
学園で大阪行きの班を決められたその日の夕刻。宵は両親に知らせるべく足早に家に帰った。
戸を開けると、温かな灯りが宵を迎えた。懐かしい木の香り、食卓の上に並ぶ茶器。日常の光景がそこにあった。
「帰ったのか」
父の声は低く落ち着いており、いつも通りの調子に聞こえた。
「おかえりなさい、宵。今日は……顔が少し疲れているわね」
母は台所から現れ、湯気の立つ茶を盆に載せて運んできた。優しい微笑みを浮かべる。
宵は食卓に腰を下ろし、真っ直ぐに二人を見据えた。そして今日、セリエ先生から伝えられた事、大阪に行くことになったこと、ヨーロッパに行く班もあることなどを話した。
父は茶を一口含み、しばし黙した。やがて杯を置き、静かに言葉を継ぐ。
「そうか……」
母はそっと宵の手に自分の手を重ねた。
「宵、怖がらなくてもいいの。あなたには仲間がいるでしょう? 大丈夫、あなたならやり遂げられる」
宵はその温もりに少し救われる。しかし同時に、父の口から放たれた言葉が胸に重く沈む。
「宵……覚えておけ。怨骸や正は表に見える敵に過ぎん。真に恐るべきは、その背後に潜む"理由"だ。世界が崩れたあの日――二十年前に示されたものは、まだ解き明かされてはいない。お前が向かう大阪で目にするものは、その断片かもしれん」
「……父さん?」
宵は眉をひそめる。「崩壊の零事変」――誰もが知る史実。しかし父の言葉には、それ以上の含みがあった。まるで彼が、その《《裏側を知っている》》かのように。
母がやわらかく首を振る。
「宵に難しいことを押し付けないで。今の宵には、ただ前を見て歩くことが大事なのよ」
父はわずかに笑みを見せ、しかし瞳は揺らがなかった。
「……すまない。ただ、お前に伝えておきたかった。己を信じろ、宵。真実に触れるその時が来ても、迷うな」
宵は言葉を失ったまま、両親の顔を見比べた。母の温もり、父の厳然たる眼差し。その両方が、自分を支えているのだと感じた。
やがて宵は深く息を吸い込み、頷く。
「わかった。やり遂げるよ」
母は柔らかく微笑み、父は静かに目を閉じた。家の中の時間は、戦乱の外の世界とは別の穏やかさに包まれていた。だが宵の胸には、父の言葉の残響がいつまでも消えなかった。
――怨骸の背後に潜む理由。崩壊の零事変とのつながり。
理解できないながらも、それがただの父の言葉以上の意味を持つことだけは、直感的に悟っていた。
その夜、宵は布団に横たわり、暗い天井を見つめながら静かに目を閉じた。心は揺れながらも、背中を押された確かな力があった。明後日から始まる大阪への道、その先に待つものを恐れながらも、受け止める覚悟が少しずつ形を取り始めていた。




