第1話 天帝と闇
天帝 宵。今年で16歳になる。
俺には――神から授かるとされる『導』を使いこなす才能が、驚くほど無かった。自分でも情けなくなるくらい、何度挑戦しても、何度練習しても、うまくいかない。
周囲の視線は痛くなかった。皆優しくて暖かい。期待されることもなく、見下されることもなかったが、それが逆に悔しかった。
毎日教会に足を運んでは神に祈った。「どうか……俺にも力を」と。信じることしかできなかった。信じるしか、俺には残されていなかった。
誰かに守られ続ける人生なんて、絶対に嫌だった。誰かの背中に隠れて、震えながら助けを待つような生き方なんて――俺の理想とは程遠い。
俺は、俺の力で立ちたい。自分の意志で選び、進み、戦いたい。誰かの盾じゃなく、誰かの荷物でもなく――ちゃんと、俺という存在をこの世界に刻みたかった。
そのためには、どんなに才能が無くても、どれだけ遅れていようとも、足を止めるわけにはいかなかった。
でもそんな必死な思いも虚しく、俺は結局力を授けられることはなかった。
「なんでだよ……」
ぽつりとこぼれた声は、自分でも驚くほどかすれていた。どうして俺には、神様が振り向いてくれないんだ。あんなに祈ったのに。誰よりも願っていたのに。
俺が悪いのか? 俺が……弱いから? 努力が足りなかった? それとも、生まれつき価値がないから?
そんな疑問ばかりが、頭の中で渦を巻く。答えはどこにもない。誰も教えてくれない。神様でさえ、黙ったままだ。
俺の声は、まるで空虚に吸い込まれていくようだった。どれだけ叫んでも、どれだけ泣いても――誰にも届かない。誰も、俺に手を差し伸べてはくれない。
胸の奥に、黒い何かがじわじわと広がっていくのを感じた。希望が冷たく、静かに消えていくようだった。
俺の心に闇が覆い掛かっていく。
――その瞬間。
目の前に、突然、見覚えのない男が現れた。
あまりにも突然すぎて、息を呑む。誰だ――と、問いかける暇もない。そこに立っていたのは、まるで神の化身のような、美しい男だった。
紫と黒が織り交ざったメッシュの髪が、静かに揺れるたびに艶やかな光を帯び、まるで夜空と黎明を併せ持ったような神秘的な輝きを放っている。
ただ立っているだけなのに、周囲の空気が一変したように感じた。重く、厳かで、それでいてどこか懐かしいような――不思議な感覚。
「え……?」
思わず声が漏れる。何が起こっているのか、理解が追いつかない。
さっきまで一人きりだったはずなのに――俺の目の前に、確かに何かがいる。
すると、男が口を開いた。
「汝は何故、そうも嘆くのだ」
その言葉は、深く静かに、俺の心の奥底へと染み渡っていくようだった。誰も届かなかったはずの場所に、初めて誰かの声が届いた気がした。
その男は、まっすぐに俺の目を見つめたまま、静かに問いかけてきた。不思議なほど落ち着いた声音だったけれど、その言葉には妙な力があった。心の奥を優しく、けれど確実に抉るような――そんな響きだった。
そして俺は、反射的に口を開いていた。理性よりも先に、胸の内側から感情がこぼれ出た。
「俺だって……!」
声が震える。けれど、止められなかった。
「俺だって、神様からの寵愛が欲しいんだ!力が……力が欲しいんだよ!誰かに守られてばかりの人生なんて、もう嫌なんだ!俺は――俺は、自分の手で、誰かを守れるようになりたいんだ!」
その言葉は、ずっと心の奥に閉じ込めていたものだった。情けなくて、恥ずかしくて、誰にも言えなかった本音。それが今、見ず知らずの男の前で、すべて溢れ出してしまった。
けれど、彼は何も否定しなかった。驚きも、呆れもせず、ただ静かに俺を見つめていた。そして、すっと俺の方へ近づいてきた。距離は一歩、また一歩と縮まり――気がつけば、彼の顔が目の前にあった。
そのまま、彼は俺の耳元に口を寄せ、低く囁く。
「汝に――我の力を与えてやろう」
その言葉が耳に届いた瞬間、時が止まったような気がした。
「……え?」
理解が追いつかない。何を言っているんだ?けれど、次の瞬間――俺の体を、激痛が貫いた。
「ぐっ……あ、あああああっ!」
胸の奥から、焼けつくような熱が走る。骨が軋む。血が沸騰するような感覚に、思わず膝から崩れ落ちた。
「な……なんだ、これ……っ!?
体の中が……燃えてる……!」
痛みに叫びながら、地面に倒れ込む。視界が歪み、意識が引き裂かれそうになる中――彼は、冷ややかに俺を見下ろしていた。
その姿は、美しさを纏いながらも、どこか人ならざる威厳と恐ろしさを漂わせていた。
「汝のその強き願いに免じて、我が力を授けよう」
その声は静かだったが、確かに響いた。魂の奥底に直接語りかけてくるような、不思議な声。
「但し――」
彼の表情がわずかに険しくなる。
「我の力を真に解き放てるのは、辺りが闇に染まった時のみ。それ以外の時は、己の力で我を引き出してみせよ」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。けれど、その不吉さと同時に――確かに何かが、俺の中に流れ込んできているのを感じた。
熱く、重く、そして底知れぬ力。
それは、祈り続けて、ようやく手にした答えだった。
彼はそう言い残すと、ふっと俺の目の前から姿を消した。まるで幻だったかのように、跡形もなく。
次の瞬間――意識が、ぷつんと途切れた。
***
「――う……ん……」
微かなうめき声と共に、俺はゆっくりと目を開けた。重たい瞼を押し上げると、見慣れた天井が視界に入る。
辺りを見渡すと、そこは教会だった。さっきまで祈りを捧げていた、あの祭壇の前――まさしく、いつも通りの静けさが広がっている。
「……あれ……?なんで……俺、こんな所で倒れて……?」
思わず口をついて出たその言葉に、自分でも答えられない。確かにさっきまで、あの男がいて……力を与えるとか、痛みとか、何か――確かに、あったはずなのに。夢……だったのか?
けれど、胸の奥にはまだ、熱の残り火のような感覚がうっすらと燻っていた。あれが幻だったとは、とても思えない。何かが、確かに俺の中で始まってしまった――そんな気がしてならなかった。
俺は頭を抱えて悩んだ。あの出来事は夢だったのか? それとも……現実だったのか?
必死に思い出そうとしても、痛みと声の断片しか浮かんでこない。確かに何かがあったはずなのに、霧がかかったように曖昧で――まるで意図的に思い出せないようにされているかのようだった。
「……わからない。けど、何か……変わった気がする」
胸の奥にはまだ、微かに残る熱の名残。それだけが、あれが現実だったという証のように思えた。
混乱と違和感を抱えながら、俺はそのまま教会を後にし、自宅へと帰った。
この出来事が、俺・宵とあの方との最初の出会いだったことを、この時の俺はまだ深く知らない――。
* * *
――時を同じくして。
上空、雲一つない夜空のさらに向こう。ひとりの男が静かに下界を眺めていた。
その男こそ、先程 宵に力を授けた者――人ではない、何か強大な存在だった。
彼は鋭い瞳で地上を見つめながら、口元に薄く笑みを浮かべる。
「あの器なら……きっと我の期待に応えてくれることだろう」
その声には確信と、どこか愉悦が混じっていた。まるで、長い間待ち望んでいた遊びがようやく始まったかのように。
「さぁ……これから我を、存分に楽しませてくれよ――宵」
その言葉を最後に、男の姿は夜の闇に溶け込むようにして、静かに消えていった。