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序章-2

 ……チチチ、と小鳥のさえずりが聞こえる。

 柔らかく、少しひんやりとした感触が背中にあった。瞼越しに感じる光は、ライブハウスの薄暗い照明でも、安アパートの蛍光灯でもない、もっと自然で、温かいもののような気がした。

(……あれ……? 俺は……たしか……)

 意識がゆっくりと浮上してくる。最後に覚えているのは、楽屋の床に倒れたことだ。病院に運ばれたのだろうか? だとしたら、治療費は……いや、それよりも借金取りは……?

 混乱した思考のまま、重い瞼をゆっくりと持ち上げる。

 最初に飛び込んできたのは、視界いっぱいの「緑」だった。

「……は?」

 思わず、間抜けな声が出た。

 そこは病院の白い天井ではなく、鬱蒼と茂る木々の葉が重なり合ってできた、天然の天蓋だった。木漏れ日がキラキラと降り注ぎ、頬を撫でる風は、都会の排気ガスとは無縁の、澄んだ草と土の匂いを運んでくる。

(……どこだ、ここ……?)

 慌てて体を起こす。服装は倒れた時と同じ、くたびれたTシャツとジーンズ姿だ。しかし、周囲の風景は、彼が知る日本のどんな場所とも似ていなかった。見たこともないような巨大なシダ植物、鮮やかな色彩の花々、そして天を突くようにそびえ立つ巨木。まるで、ファンタジー映画のセットに迷い込んだかのようだ。

 呆然と周囲を見渡すジョージの耳に、さらさらという小川のせせらぎが届いた。音のする方へ、ふらつく足取りで近づいてみる。数メートル歩くと、視界が開け、水晶のように透き通った水が流れる小川があった。

 水面に自分の顔を映してみる。そこには、数日前の自分よりも幾分か健康的……いや、むしろ以前よりも少し若返ったような気さえする、見慣れた自分の顔があった。だが、その顔は明らかに困惑と不安に彩られている。

「……夢、か……? それとも、あのまま死んで、天国……いや、地獄か……?」

 混乱しながら、小川の水で顔を洗う。ひんやりとした水の感触が、これが現実であることを嫌でも突きつけてくる。

「とりあえず……人がいる場所を探さないと……」

 どの方角へ行けばいいのかも分からない。だが、じっとしていても状況は変わらないだろう。ジョージは、比較的なだらかで、獣道のようなものがうっすらと続いている方向へ、覚束ない足取りで歩き始めた。

 森は深く、静かだった。時折聞こえる鳥の声や虫の音以外は、自分の足音と呼吸音しか聞こえない。どれくらい歩いただろうか。太陽の位置から察するに、まだ昼過ぎくらいのようだが、疲労と空腹、そして何より先の見えない不安が、彼の精神を蝕んでいく。

(本当に、どうなってるんだ……? 拉致されたのか? いや、それにしては……)

 考えれば考えるほど、訳が分からない。そんな思考に沈みかけていた、その時。

 ピロン♪

「!?」

 まるで、ゲームの効果音のような軽やかな電子音が、頭の中に響いた。

 驚いて立ち止まると、目の前に、半透明なウィンドウのようなものが、ふわりと現れたのだ。

「な、なんだこれ!?」

 そこには、白い文字でこう書かれていた。

【ステータス】

名前: カンザキ・ジョージ (神崎 譲二)

種族: ヒューマン(異世界人)

称号: 迷い人、元プロデューサー

【スキル】 絶対プロデュース Lv.1 - アイテム鑑定(簡易) - 人材鑑定(アイドル適性限定・簡易) - モチベーション分析(簡易) - 最適レッスン提案(基礎・確率発動)

「……はぁぁぁぁ!?」

 ジョージは素っ頓狂な声を上げた。なんだこれは。ゲームか? VRか? いや、それにしてはリアルすぎる。森の匂いも、風の感触も、足元の土の柔らかさも、全てが本物だ。

「スキル……? 絶対プロデュース……?」

 わけがわからない。だが、書かれている内容は、奇しくも彼が最も執着し、そして挫折した「アイドルプロデュース」に関連するものだった。しかもご丁寧に「元プロデューサー」という称号付きだ。

「異世界人……ってことは、やっぱりここは……」

 いわゆる、異世界転生、というやつなのだろうか。ラノベや漫画でよく見るアレだ。だとしたら、あまりにも唐突すぎる。トラックに轢かれたわけでも、神様に会ったわけでもない。ただ、過労と絶望でぶっ倒れただけだ。

 ウィンドウは、ジョージが意識を集中すると現れ、そうでない時は消えるようだった。何度か試しているうちに、彼は確信する。これは夢や幻覚ではない、この世界の「現実」なのだ、と。

「……だとしても、だ」

 スキルがあろうがなかろうが、現状は変わらない。ここはどこかも分からない森の中。食料も水もない。元の世界に帰る方法も不明。そして、何より一文無しだ。

「結局、どこにいても詰んでるのか、俺は……」

 自嘲気味に呟き、再び歩き出す。だが、先ほどとは少しだけ気持ちが違っていた。訳の分からない状況ではあるが、「スキル」という、ほんの僅かな、しかし明確な「何か」を手に入れた。それが、心の奥底で消えかけていた火種を、微かに揺り動かしたのかもしれない。

 さらに一時間ほど歩いただろうか。森の木々が途切れ、視界が開けてきた。道の先に、煙が立ち上っているのが見える。

「……人里か!」

 ジョージは最後の力を振り絞って走り出した。坂を駆け下りると、そこには、彼が想像していたような日本の田舎町とは全く違う光景が広がっていた。

 石畳の道、木組みと漆喰でできた素朴な家々、その間を歩く、まるで中世ヨーロッパのような服装の人々。荷馬車が行き交い、露店には見たこともないような果物や道具が並んでいる。そして、何より驚いたのは、人々の間に、獣の耳や尻尾を持つ者(獣人だろうか)や、背の高い尖った耳を持つエルフだろうかが、ごく自然に混じって歩いていることだった。

「……本当に、異世界なんだな……」

 圧倒的な光景に、ジョージは立ち尽くす。ここが、彼の新しい現実。辺境の町、トルン。そんな名前が、町の入り口に掲げられた古びた看板に書かれていた。

 町の活気に少し気圧されながらも、ジョージは情報収集を試みる。幸い、言葉は通じるようだった。人々は異邦人らしき彼を少し珍しそうに見るものの、敵意は感じられない。道行く人に尋ねたり、掲示板(木製で、羊皮紙のような紙が貼られている)を見たりするうちに、この世界の常識が少しずつ分かってきた。

 魔法は存在し、日常生活に溶け込んでいること。通貨は「リール」という単位であること。そして、今、このアークライト王国中が、数年に一度の祭典『星脈のセレナーデ』に沸いていること。

 特に、『星脈のセレナーデ』に関する情報は町の至る所に溢れていた。掲示板には、色鮮やかなインクで描かれたポスターが貼られ、そこには美しい少女たちのイラストと共に、高らかな謳い文句が記されている。

星詠(ほしよみ)の唄に導かれし乙女たちよ!』

『歌と魔法で奇跡を紡ぎ、新たな伝説となれ! 戦歌姫ヴァルキリーアイドル降臨!』

『優勝者には、富と名誉、そしてアークライト王国最高の栄誉を!』

『各地予選開催中! 次代の星となるは誰だ!?』

「戦歌姫……ヴァルキリーアイドル……」

 ポスターの文字を読み上げ、ジョージは乾いた笑いを漏らした。アイドル。それは、彼が全てを失う原因であり、同時に、彼の魂が焦がれてやまないものでもあった。こんな世界にまで来て、また「アイドル」という言葉を目にするとは、何の因果か。

 ポスターに描かれた少女たちのイラストは、どれも魅力的だった。剣を持った凛々しい少女、竪琴を奏でる神秘的な少女、魔法の杖を構える可憐な少女。この世界の「アイドル」は、ただ歌って踊るだけではないらしい。魔法や、あるいは戦闘能力すらも求められるのかもしれない。

 人々がオーディションの話題で盛り上がっている様子からも、このイベントが単なる余興ではなく、国にとって非常に重要な意味を持っていることが窺える。優勝すれば、人生が変わるほどの栄誉が得られるのだろう。

(……だが、今の俺には関係ない話だ)

 ジョージは再び現実に引き戻される。宿代はおろか、今日のパンを買う金もない。スキルは手に入れたが、それが何の役に立つのかも分からない。元の世界に帰る手がかりもない。

「結局、俺はここで、飢え死にするか、あるいは……」

 最悪の未来を想像し、背筋が寒くなる。異世界転生なんて、ちっとも良いものじゃない。希望なんて、どこにも……。

 そう思いかけた、その時だった。

 ピロン♪

 まただ。頭の中に響く電子音。そして、目の前に現れるスキルウィンドウ。だが、今回は表示が違った。ウィンドウの隅で、赤い【!】マークが点滅している。

【!】サブクエストが発生しました:『原石』を探せ!

「……サブクエスト……? 原石……?」

 意味が分からず首を傾げるジョージ。ウィンドウはさらに続く。

【内容】このトルン町のどこかに、磨けば光る『アイドル(戦歌姫)の原石』が存在する可能性があります。スキル【人材鑑定】を使い、その原石を見つけ出し、接触してください。

【報酬】当面の活動資金、プロデューサーとしての第一歩

「……アイドル、の、原石……」

 その言葉は、雷のように俺の心を打ち抜いた。活動資金。プロデューサーとしての第一歩。そして何より、「原石」を見つけ出すという、かつて俺が最も情熱を燃やした行為そのもの。

 燻っていた残り火に、風が吹き込まれたような感覚。

 失ったはずの何かが、心の奥底で再び熱を持ち始めるのを感じた。

(見つける……? 俺に、できるのか……? この、スキルで……?)

 不安はある。失敗した過去の記憶が蘇る。だが、それ以上に強い衝動が、俺を突き動かしていた。

「……やってみるしか、ないのか……?」

 失うものは、もう何もない。だったら、この異世界で、もう一度だけ夢を見てみてもいいのかもしれない。最高のアイドルを育てる、という、あの叶わなかった夢を。

 俺は、ゴクリと唾を飲み込んだ。そして、予選会場があるという方向へ、一歩を踏み出した。その足取りは、まだ重く、覚束なかったが、しかし、確かに前へと進んでいた。

 神崎譲二、二十六歳。異世界アークライト王国にて、彼の二度目のプロデューサー人生(仮)が、今、始まろうとしていた。その先に待つのが、輝かしいステージなのか、それとも再びの奈落なのか、まだ誰にも分からない。

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