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契約の薔薇と、騎士の手

作者: 猫又ノ猫助
掲載日:2025/01/31

 華やかな宮殿の一角、ローゼリア・エヴァンジェルは緊張に固く口を結び、静かに王の言葉を待っていた。


「ローゼリア・エヴァンジェル。お前を、第一王子アルヴィンの婚約者として迎え入れる」


 威厳に満ちた王の声が、豪奢な大広間に響き渡る。周囲には格式高い貴族たちが並び、彼女をじっと観察していた。その視線は冷ややかで、時に値踏みするようなものすらある。


 大理石の床に膝をつき、視線を下げたままのローゼリアは、胸の奥に広がる重い感覚を押し殺していた。金糸を織り込んだ美しいドレスが肌に馴染まず、身体がこわばる。


 彼女は王族との婚約を望んでいたわけではなかった。


 自らの意志ではなく、辺境の小領主の娘としての義務――それだけのために、ここへ来た。


(……これは名誉ではなく、鎖だわ)


 心の中で呟くものの、表情には決して出さない。王命に背くことは許されず、ましてや婚約の儀を拒めば、家族に累が及ぶ。それだけは避けなければならなかった。


 その日、彼女の従者であるエリオットが控えの間でそっと囁いた。


「お嬢様、お顔がこわばっております。ですが、どうかご安心くださいませ。殿下は冷徹と評されておりますが、噂だけがすべてではありません」


「……噂だけ、ね」


「それに、たとえこの婚約が形式的なものであったとしても、お嬢様が堂々としておられれば、それだけで価値のあるものとなりましょう」


 エリオットの穏やかな言葉に、ローゼリアはほんの少しだけ緊張を和らげた。


 そして、婚約の儀当日。大広間には、光を反射して輝く美しいシャンデリアが吊るされ、無数の蝋燭の灯りが煌めいていた。黄金の刺繍が施された赤い絨毯が敷かれ、宮廷楽団の演奏が静かに流れている。


 ローゼリアは、純白のドレスを纏い、中央でじっと待っていた。


 深呼吸をしても、緊張は収まらない。指先は冷たく、心臓は鼓動を早めるばかり。


(……どんな人なの? 本当に冷たい人なの?)


 扉の向こうにいるはずの王子の姿を想像しようとするが、うまく思い描けない。


「お嬢様、すべては始まってしまえば、流れるように進んでいくものです。今はただ、一歩を踏み出すことを考えて」


 傍にいたエリオットが、そっと彼女の背中を押した。


 そのとき――


 重厚な扉が開く音がした。


 ゆっくりと、そして堂々とした足取りで、一人の男性が現れる。


 銀色の髪が滑らかに揺れ、鋭い青の瞳が大広間を見渡す。彼の纏う礼服は端正で、軍人としての威厳をも感じさせるものだった。


(……これが、アルヴィン王子)


 その姿を見た瞬間、ローゼリアは息を呑んだ。


 冷たい、と言われている彼の瞳は、確かに鋭く、何もかも見透かすような気配を持っていた。しかし、それ以上に感じたのは、圧倒的な存在感だった。


「ローゼリア・エヴァンジェルだな?」


 低く響く声に、ローゼリアは思わず背筋を伸ばす。


「……はい、殿下」


 彼の言葉に応じながら、視線を上げる。彼はローゼリアをじっと見つめ、次の瞬間、ふっと微かに笑った。


「そんなに緊張しなくていい」


「え……?」


 思わず驚きの声が漏れる。


「俺は政略結婚など望んでいない。君もそうだろう?」


 突然の言葉に、ローゼリアは驚いて王子を見上げた。


 彼の顔には、冷たさよりも穏やかな静けさがあった。その視線には威圧感はなく、むしろ彼女の心情を見透かすような柔らかさがあった。


「これは形式上の婚約だ。しばらく俺のそばにいてくれればいい。それだけだ」


 静かな声でそう告げると、アルヴィンはそっと彼女の手を取った。その指先は温かく、心の奥深くまで届くようだった。


「お嬢様……」


 すぐそばにいたエリオットが、安心したように呟く。


 これまで感じていた恐れや緊張が、少しずつほどけていく。


(この人は、本当に氷のような人なのかしら……?)


 そう思う頃には、心の奥で少しだけ、婚約に対する不安が和らいでいた。


「……ありがとうございます、殿下」


 自然と口をついて出た言葉に、アルヴィンは小さく頷いた。


 緊張に満ちた幕開けだったが、その手の温もりに、ローゼリアは確かに救われていた――。

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