契約の薔薇と、騎士の手
華やかな宮殿の一角、ローゼリア・エヴァンジェルは緊張に固く口を結び、静かに王の言葉を待っていた。
「ローゼリア・エヴァンジェル。お前を、第一王子アルヴィンの婚約者として迎え入れる」
威厳に満ちた王の声が、豪奢な大広間に響き渡る。周囲には格式高い貴族たちが並び、彼女をじっと観察していた。その視線は冷ややかで、時に値踏みするようなものすらある。
大理石の床に膝をつき、視線を下げたままのローゼリアは、胸の奥に広がる重い感覚を押し殺していた。金糸を織り込んだ美しいドレスが肌に馴染まず、身体がこわばる。
彼女は王族との婚約を望んでいたわけではなかった。
自らの意志ではなく、辺境の小領主の娘としての義務――それだけのために、ここへ来た。
(……これは名誉ではなく、鎖だわ)
心の中で呟くものの、表情には決して出さない。王命に背くことは許されず、ましてや婚約の儀を拒めば、家族に累が及ぶ。それだけは避けなければならなかった。
その日、彼女の従者であるエリオットが控えの間でそっと囁いた。
「お嬢様、お顔がこわばっております。ですが、どうかご安心くださいませ。殿下は冷徹と評されておりますが、噂だけがすべてではありません」
「……噂だけ、ね」
「それに、たとえこの婚約が形式的なものであったとしても、お嬢様が堂々としておられれば、それだけで価値のあるものとなりましょう」
エリオットの穏やかな言葉に、ローゼリアはほんの少しだけ緊張を和らげた。
そして、婚約の儀当日。大広間には、光を反射して輝く美しいシャンデリアが吊るされ、無数の蝋燭の灯りが煌めいていた。黄金の刺繍が施された赤い絨毯が敷かれ、宮廷楽団の演奏が静かに流れている。
ローゼリアは、純白のドレスを纏い、中央でじっと待っていた。
深呼吸をしても、緊張は収まらない。指先は冷たく、心臓は鼓動を早めるばかり。
(……どんな人なの? 本当に冷たい人なの?)
扉の向こうにいるはずの王子の姿を想像しようとするが、うまく思い描けない。
「お嬢様、すべては始まってしまえば、流れるように進んでいくものです。今はただ、一歩を踏み出すことを考えて」
傍にいたエリオットが、そっと彼女の背中を押した。
そのとき――
重厚な扉が開く音がした。
ゆっくりと、そして堂々とした足取りで、一人の男性が現れる。
銀色の髪が滑らかに揺れ、鋭い青の瞳が大広間を見渡す。彼の纏う礼服は端正で、軍人としての威厳をも感じさせるものだった。
(……これが、アルヴィン王子)
その姿を見た瞬間、ローゼリアは息を呑んだ。
冷たい、と言われている彼の瞳は、確かに鋭く、何もかも見透かすような気配を持っていた。しかし、それ以上に感じたのは、圧倒的な存在感だった。
「ローゼリア・エヴァンジェルだな?」
低く響く声に、ローゼリアは思わず背筋を伸ばす。
「……はい、殿下」
彼の言葉に応じながら、視線を上げる。彼はローゼリアをじっと見つめ、次の瞬間、ふっと微かに笑った。
「そんなに緊張しなくていい」
「え……?」
思わず驚きの声が漏れる。
「俺は政略結婚など望んでいない。君もそうだろう?」
突然の言葉に、ローゼリアは驚いて王子を見上げた。
彼の顔には、冷たさよりも穏やかな静けさがあった。その視線には威圧感はなく、むしろ彼女の心情を見透かすような柔らかさがあった。
「これは形式上の婚約だ。しばらく俺のそばにいてくれればいい。それだけだ」
静かな声でそう告げると、アルヴィンはそっと彼女の手を取った。その指先は温かく、心の奥深くまで届くようだった。
「お嬢様……」
すぐそばにいたエリオットが、安心したように呟く。
これまで感じていた恐れや緊張が、少しずつほどけていく。
(この人は、本当に氷のような人なのかしら……?)
そう思う頃には、心の奥で少しだけ、婚約に対する不安が和らいでいた。
「……ありがとうございます、殿下」
自然と口をついて出た言葉に、アルヴィンは小さく頷いた。
緊張に満ちた幕開けだったが、その手の温もりに、ローゼリアは確かに救われていた――。




