第九話「誰にも見えない空気の冒険その2」
所長さんは『スノーフレークオブシディアンの狼』と名乗る探偵と
協力し合って猫に立ち向かうと決断してくれました。私も愁眉を開く
思いでございます。心強い味方が現れたのは所長さんをはじめとして
葉ちゃまの肩の荷も軽くなるに違いありません。極めて良い兆候です。
それにしても昨日から葉ちゃまの周りには白文鳥ささめゆき、猫に鹿、
白猫に狼などといった動物(?)たちが集まり出したのが不可思議です。
慮ることも言葉で表すことも出来ない縁が葉ちゃまと繋がったような
気がして安堵というより奇妙な胸騒ぎを覚えます。私は透明な空気に
なったので遺体はもう遺灰になって墓に納められたはずなのに何だか
可笑しいですね。未だに人間の五感六感で物事を判断してしまいます。
所長さんは探偵さんを青空喫茶にいるはずの葉ちゃまとハヤカワ君に
紹介するため、西の市場へ急ぐこととなりました。私は念じるだけで
即座に瞬間移動できても普通の人は歩いて移動するのが基本ですよね。
遠い昔と違って馬に乗って駆け抜けるのも難しくなった現代ですから
二人は足早に移動するより仕様がありません。繰り返し申しますけど
この世に存在している全ての生き物は「時」に支配されているのです。
時から解放されるには私のように死ぬか「死ねないバケモノ」にでも
ならないといけないのでしょうね。何しろ数百年も生き続けていると
鹿君が言ってましたし、俄かに信じられなくても不条理な不老不死の
存在が…いる…ようなのです。俗世は目を凝らしたら様々な姿をした
不思議なことに満ち溢れていたなんて死んでから気づいても遅いのに
今頃になって驚くことばかり体感しています。私が体感という言葉を
使うのも滑稽でしたね。誰の目にも見えない空気になった私ですから
証明できる話です。私以外の誰にも伝えられないのが凄く歯痒いです。
人通りの多い街道を歩く二人は行き交う人々の視線を集めていました。
どちらも揃って長身の美男子ですから男女問わず見惚れてしまうのも
無理ありませんね。きっと好意や憧憬、羨望、嫉妬など様々な感情を
二人は受け止めているのでしょう。ただ道を歩くだけで多くの人々の
感情を揺さぶる存在がいるものなのです。六根の「意」を引き寄せる
美丈夫二人の意は現在どういったものに支配されているのでしょうね?
一方の葉ちゃまは今頃退屈してるんじゃないかしら? 前職は一人で
荷車を牽いて出張作業に励んでいましたが、今朝から就いたばかりの
新たな仕事は青空市場から動かずに三人の少女たちを猫から警護する
基本的に葉ちゃまの優れた腕力や体力を容易く使えない監視のお仕事。
午前中は喜んで食べていた半月焼きも食べ飽きて何も口にしたくない
でしょうし、飲み干すと注がれる冷茶も飲み飽きてしまったでしょう。
御手洗いは向かいにある広場の公衆便所まで行かないといけませんし
三人の少女たちから目を離せないのでハヤカワ君と交代で行かないと
ならないのが厄介ですね。生きているからこその自然現象も死んだら
無縁になってしまうものですが、だからといって葉ちゃまにこっちの
世界へ来いだなんて言えるはずがございません。思いの世界は誰もが
十分に生き抜いてから辿り着くべきですよ。透明な空気は生きている
者たちの心の中に住む存在です。葉ちゃまには余計な悔いを残さずに
存分に俗世を楽しんでほしい。生老病苦を存分に味わうことも生きて
いるからこそです。私は…老いて…べつに病んではいませんでしたが
何故なのか気づいた時には死んでいたんですよね。私が死んだ原因が
解らなくて困っています。どなたか大葉玲耶の謎を解いてくれる人が
いないものでしょうか? いけない、自分のことより他人のことです。
あら、気づいたら西の市場の露店通り。青空喫茶に近づいていました。
流石は足早な美丈夫二人です。私が自分の考えや謎に耽っている間に
辿り着いてしまうのですから格好良い! しつこく何度でも言いたく
なってしまいます。お婆ちゃんの憧れの君は何をするのも優秀ですね。
「斑点模様の黒曜石がうちに何の用? 猫を追ってるんじゃないの?」
…?!…
冷茶を入れた水差しを持った鹿君が黄金色の瞳の探偵さんに向かって
不躾な質問をしていました。斑点模様の黒曜石? ああ、そういえば
所長さんが戴いた名刺には「スノーフレークオブシディアンの狼」と
書いてあったらしいですものね。確かに斑点模様の黒曜石が和名かも。
鹿君と狼さんは知り合いみたいですね。仲は良くなさそうですけど…。
「やっぱり青空喫茶に来て正解だったか。狼なんて名乗るから茶店に
関係ある人物じゃないかと思っていたんだよ。猫についても詳しいし。
しかし、ここで仲間割れしないでもらいたいな。狼さんは我々と共に
猫四姉妹を追うことになったし、まずは私の部下に紹介させてほしい」
沈黙してる探偵の狼さんに代わって所長さんが鹿君に口を挟みました。
「はぁ、タナベ様がそう仰るなら…。ようやく店も暇になったし裏で
休憩してきます。白猫さんが接客してくれるから粗相のないようにな」
白猫さん以降の発言は探偵さんに向かってのようでした。人によって
態度を変えるところがまだまだ子供ですね。でも、先ほどまで厨房と
卓を行き来し忙しなく働いていたのでしょうから許してあげましょう。
「ルビーの鹿はいつもタナベさんにあんな態度を取るのでしょうか?」
葉ちゃま達が座ってる卓へ近づく途中で狼さんが不満げに呟きました。
「いやいや、いつもの鹿君は至って真面目で丁寧に接してくれますよ。
今日の彼は疲れてるようですね。まあ、気にせず座って休みましょう。
卓に突っ伏して昼寝しているハヤカワ君、こちらの方に席を譲って!」
呆れた口調で所長さんが鋭く言うと反射的に飛び上がったハヤカワ君。
慌てたよう急いで葉ちゃまの隣席に移りましたが、うちの葉ちゃまも
鼾をかいて突っ伏していました。仕事の初日からダラしないところを
所長さんに見せるなんて、お恥ずかしい。お婆ちゃんはガッカリです。
「警護対象者の三人は普段どおり刺繍や読書に耽って休んでいるから
キミたちを叱るつもりはない。ただちょっとオオバ君も起きてほしい。
こちらの方を二人にご紹介したいと思って…。おい、キミ、私の声が
聞こえないのか? ハヤカワ君、オオバ君の肩を叩いて起こしてくれ」
所長さんは少しだけ苛立ちを含んだ声でした。本当にもう葉ちゃま…。
「所長、こんなに肩や背中を叩いてるのに熟睡するにも程があります」
溜め息交じりの声でハヤカワ君が根負けしました。葉ちゃまを起こす
コツを教えたいけれど、私は透明な空気ですから何も伝えられません。
葉ちゃま、起きなさい。皆様方にご迷惑をかけているのよ。起きて…。
「お婆ちゃ~ん、この兄ちゃんに頭から水ぶっ掛けてやってもいい?」
…?!…
私の背後に立っていた四~五歳の男の子が…。この子、私が見えるの?
「無視しないで返事してよ。オレには見えてるし、考えも聞こえてる」
見えない空気であるはずの私と会話できる子供がいるなんて吃驚です。
『ええ、そのね、水をかけなくていいの。葉ちゃまは耳が敏感だから
耳を引っ張ったらすぐ起きると思うわ。坊や、試してみてちょうだい』
「了解! ちょっと耳を引っ張ってみる。あ、ホントに目を覚ました」
周りには不思議な光景に映っていることでしょう。所長さんや隣席の
ハヤカワ君が驚いた表情で菖蒲色の上下を着た男の子を見ていました。
「う~ん、なんか寝ちゃってたみたいだな。すいません、所長さん…。
あれれ、そちらの格好良い男性は? 物凄く綺麗な眼をしてますね!」
斜め向かいの椅子に腰かける狼さんを見た葉ちゃまの瞳が輝きました。
「アメジストの龍、おまえさんの御蔭で助かった。どうもありがとう」
狼さんが男の子にお礼の言葉を掛けました。どうやら男の子も彼らの
身内なのでしょう。宝石と獣…いえ、神のような存在を組み合わせた
呼び名で声を掛けたのですから…。龍君、葉ちゃまを起こしてくれて
本当にありがとうね。龍君がいなかったらまだ梃子摺っていたはずよ。
「お婆ちゃん、お礼なら聞こえたよ。オレがいる間ならみんなと会話
できるよ。目に視えない存在でも感知できるオレなら通訳してやれる」
龍君が可愛らしい笑顔を見せました。不可思議な存在はいるのですね。