第八話「誰にも見えない空気の冒険その1」
現在の私は青空喫茶の奥にある厨房におります。自分の意志で
瞬間移動してみせたのです。単なる見えない空気だと思っていた
私にも使える特殊な能力があったなんて自分でも驚いていますが
こうなったら、とことん監視者として猫の行方を調査してみます。
…それにしても…
飲食店の厨房なんて生まれて…じゃなかった…死んでから初めて
見ましたけど、忙しなく働いてる店主さんがお気の毒になります。
私が生きていたなら厨房の洗い場に溜まってる大量の汚れた器を
洗うお手伝いをしたいのですが、よく考えてみると生きてた頃も
調理場は使用人の大久保さんに任せっきりでしたっけ。私が皿を
洗ったら一枚や二枚じゃ足りないくらい皿を割ってしまうかも…。
子供の頃から雑巾だって手にした憶えもない家事の未熟者でした。
生前の私は勉学に励んで良き家庭を築く妻になれと祖父に言われ、
そっくりそのまま家事の手伝いなど教わることもなく、毎日毎日
必死に勉強しておりました。そんな私が良き家庭を築く妻になど
なれるわけなんかないと気づいたのは三十路を過ぎた頃でしたし
幼い頃から使用人がいるのが普通の生活を送っておりましたから
私が婆やと呼んで長らく使用人を務めた梶さんが亡くなった日は
家中の灯りが全て消えたかのような衝撃を喰らったことを今でも
はっきりと覚えている次第です。そして、二十年後は葉ちゃまを
私と同じ気持ちにさせてしまいました。ここの店主さんみたいに
調理場で要領よくテキパキ動けたなら葉ちゃまのために美味しい
ご馳走を作ってあげられたでしょうに我ながら情けなくなります。
「白猫さん、五番卓注文、中華丼一つと点心の盛り合わせ一つ!」
「了解、五番卓、中華丼一つと点心盛り合わせ一つ! もうすぐ
七番卓の若布拉麺が出来上がる。お茶汲み済んだら持ってって!」
気づいたら鹿君がキビキビした足取りで冷茶入りの水差しを手に
客席のほうへ向かってました。たった二人でよく働けるものです。
ここに私なんかが居ても邪魔に…いえ、私は透明な空気でした…。
しかし、厨房に居ても猫に関する情報は得られそうにありません。
…!!…
そういえば今朝逢った所長さんが「猫を追う仕事に戻ります」と
言ってましたっけ。ということは、所長さんのところへ行ったら
猫に関する何らかの情報が得られるかもしれない。美形のタナベ
所長のところへ移動するとしましょう! 私の思いは必ず通じる!
…………………………。
…………………………。
…………………………。
え~と、ここはどこ?
知らない場所は緊張するけど所長さんと一緒なら怖くありません。
見たところ何処かの店舗らしき造りでしょうね。食料品店かしら?
あ、右隣りに美形の所長がいました。所長さんは横顔も完璧です。
所長さんが眺めているのは飲み物の商品棚でした。お昼の食事を
買いに来たのかもしれませんね。所長さん好みの品は何でしょう?
…………………………。
…………………………。
…………………………。
無言が続くと不安になってしまいます。葉ちゃまみたいにいつも
当たり前のように独り言ちる人も色眼鏡で見られがちなものです。
沈黙は金なり、雄弁は銀なり。どちらにしても損はいたしません。
所長さんは腕を伸ばし、製薬会社の商品である滋養飲料の小瓶を
一本取りました。お昼は飲料一本で済ますつもりなのでしょうね。
所長さんは見た感じ痩身と言いたい体型ですし、美形がガツガツ
勢いよく食べ物に喰いついてる場面なんて見たいとは思いません。
少食で済ませるところが美丈夫たる所以なのです。自分を弁えて
いるところが憎らしいほど格好良い! お婆ちゃん泣かせの御方。
会計を済ませ外へ出ると午後の陽射しが真正面から当たりました。
日傘を被りたくなるような天気ですから、そっと前髪を下ろして
所長さんは陽射しを遮っていました。少し伸ばした無精な髪形も
乙女心を掴むものです。つくづく見ていて飽きない魅力的な御方。
商店の前で滋養飲料の小瓶を開け、一息で飲み干すところもまた
格好良いじゃありませんか。出入口の右脇に設置されたゴミ箱へ
空瓶を無造作に放り込む姿も絵になります。ここは港町の市場の
通りですね。港に近いので洒落たお店がたくさんあって若者には
人気のある商店街です。三十路に見える所長さんも西の市場より
港町の市場に立つほうが似合ってますよ。少なくとも同じ年頃の
青空喫茶の店主さんよりも垢抜けて見えますもの。こんな美形と
並んで歩けるなんて死んで良かったと思いたくなってしまいます。
お婆ちゃん一人で楽しんでて気恥ずかしいですが、私は…空気…。
現実世界には既に居ない存在です。こんな纏わり付きも遠慮なく
出来るのですから亡者万歳と言いたいですね。あら、いけません。
所長さんは猫を追って、港町の市場まで来ているはずなのですし
私もしばらく黙って追従したほうがいいでしょう。懐から時計を
取り出し、暫し眺めた所長さんは頭を掻いて再び歩き出しました。
…?!…
通りの向こう側から近づいてくる男性が所長さんに会釈しました。
見知らぬ人物なのでしょうか? 所長さんは戸惑いながらも足を
停めました。所長さんに近づく彼は何者でしょうか? まさか猫?
近づいてくる男性は特徴のある美男子でした。後ろに流した黒髪、
黄金色に煌めく瞳が異国人のようで不思議と惹きつけられる感じ。
というか、その人は女性より男性にモテそうな印象なんですよね。
同性愛とかじゃなく、男が男に惚れるように憧れられそうな手合。
うちの葉ちゃまと同じくらいの体躯で運動神経も優れてそうです。
「路上で呼び止めて失礼しました。あなたはタナベ探偵事務所の
所長さんですよね? 私はそちらと同じく探偵を生業としている
こういった者です。宜しければ少々お時間を拝借できませんか?」
懐から黒い名刺入れを出し、白い名刺を所長さんへ手渡しました。
「スノーフレークオブシディアンの狼? 失礼でしょうが珍妙な
お名前を名乗っていらっしゃいますね。私に用があるんでしたら
そこの喫茶室へ入りましょう。ちょうど喉が渇いていましたから」
名刺を一瞥した所長さんは先ほど滋養飲料の小瓶を飲んだばかり
なのに、喉が渇いてると言って近くの喫茶室へ男性を誘いました。
スノーフレーク何とかの狼って? 何だか猫四姉妹に青空喫茶の
鹿君や店主の白猫さんを思わせる名前ですね。お仲間でしょうか?
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
「つまり狼さんは私に猫を追うのをやめろと言いたいわけですね。
しかし、我々は任務を放棄するつもりはありません。一筋縄では
いかない手合であることは西の市にある青空喫茶の店員たちから
散々警告を受けていますし、私だって覚悟を決めて警護の職務に
当たっているのですよ。ご忠告は承りましたけど、三人の少女の
大事な命が狙われているのを黙って見過ごすわけにはいきません。
我々は全力で猫に立ち向かう所存です。命と引き換えにしてでも」
前髪を掻き上げた所長さんが強い口調で狼さんに言い返しました。
重い空気が周囲に漂います。透明な空気である私を巻き込むのは
やめてほしいんですけど、喫茶室の茶色い卓に向かい合う二人は
猫へ立ち向かうことを諫める狼さんと猫への対決姿勢を崩さない
所長さんが沈黙し、お互いの意見をぶつけあっているようでした。
…………………………。
…………………………。
…………………………。
「それでは、私をあなたの任務に加えていただきたい。私自身も
今回の騒ぎを起こした猫四姉妹を許せずに追っている最中ですし、
少なくとも私はあなたより猫の手口を心得ております。この度の
猫の遊びを阻止するために協力して事に当たるといたしましょう」
狼と名乗る黄金色の瞳が印象的な探偵さんが猫を追う所長さんに
協力を申し出ました。彼なら心強い味方となってくれそうですが
所長さんは狼さんにどう答えるつもりでしょう? 気になります。
猫の遊びを阻止しないことには猫から予告状を受け取った三人の
少女たちの命が危ないのです。所長さん、何としてでもここは…。