第七話「誰にも見えない空気だからこそ…」
散々お菓子を食べ、お腹に昼食を摂る余裕のない葉ちゃま達は
冷茶を口にしながら警護対象者である三人の少女の卓をチラチラ
観察したり、昼になって昼の食事を摂りに来たお客たちの増えた
周囲を見張っていました。この雑然とした卓に座っているお客の
中に『猫』が紛れてないとも限りません。何しろ『猫四姉妹』が
それぞれどのような容貌なのかも警護に当たる人員たちは誰一人
として解らないのです。姉妹というからには女性だと思いますが
『死ねないバケモノ』と呼ばれる存在なのですから特殊な能力を
使って我々を容易に惑わすかもしれませんし、用心するに越した
ことはないでしょうね。目に見えない存在は…いる…。現に私が
そうなのですから、神々や魑魅魍魎が縦横無尽に跋扈していても
おかしくないと思うのです。死んでから信じるようになりました。
「改めて我々の警護対象者たちを確認しましょう。あちらの卓の
牡丹色の服を着て最初に青空喫茶を訪れた少女がユウ・ネネさん、
先ほど店に来た二人のうち青い服を着た長い髪の少女がウザキ・
チヒロさん、それから最後の常磐色の服を着たまとめ髪の少女が
マツウラ・マミさん、以上三名となります。オオバ君、あなたに
忘れないでほしいことは、猫に狙われている少女はあちらの卓に
座っている三名なんです。ネネさん一人だけじゃありませんから
しっかり三人に監視の目を向けてくださいね。一人でも猫に誘拐
されたら、我々の敗北です。依頼者たちに「慰謝料を払え」とは
言われなかったとしても我々は大きな罪を背負うことになります。
くどいでしょうが、口を酸っぱくしてでも先輩として忠告します。
所長も同意見のはず。所長から言われたと思って聞いてください」
真面目な表情でハヤカワ君は葉ちゃまに伝えました。葉ちゃまが
ネネさんに心を奪われたことを知ってて言ったに違いありません。
お婆ちゃんは透明な空気と言える存在になってしまったとはいえ
葉ちゃまの心を操るなんて芸当は出来ませんし、灯ったばかりの
恋の炎を消し去るなんて…非情な真似も出来そうにありません…。
あちらの卓に腰かけている少女たちは可憐で新鮮な草花同様です。
その美しい花を散らそうと狙っている猫四姉妹と呼ばれる存在を
何としてでも阻止しなければなりません。死んだらお仕舞いです。
「お待たせいたしました。ご注文の白粥と当店特製定食と煮麺を
お持ちしました。お熱いのでお気を付けてお召し上がりください」
奥の厨房から現れたのは冴えない小男なんて言ったら失礼ですね。
どことなく中性的な印象を懐かせる風貌で…ちょっとだけ小柄な
三十過ぎと思われる青空喫茶の店主さん。あらまぁ、店主さんを
見るネネさんの瞳が…若い頃はよく見えていたけれども死ぬ前は
すっかり老眼になってしまっていた私にも分かってしまうくらい
キラキラ煌めいてます…。葉ちゃまは卓に置かれた品書きを見て
全く気づいていないらしい様子が幸いです。一目惚れした相手に
想い人がいるなんて虚しいですものね。おそらく老若男女問わず
多くの人々が経験しているはずの失恋を葉ちゃまもするだけです。
そして…きっとネネさんも…。あの店主さんにだって既に家庭が
あるに違いありません。可愛い子供もいらっしゃることでしょう。
葉ちゃまは強い子ですからすぐ気を取り直して新しい恋の相手を
見つけるに違いありません。私は孫を静かに見守り続けるだけ…。
「あちらの卓で給仕をしている店主の呼び名が『白猫』さんです。
猫に白が付いてるだけですから紛らわしいですけど、彼は我々の
味方側で鹿君が言うには相当な手練れだそうですよ。オオバ君は
外見で分かる体躯の良さで大抵の者が強者と認識するでしょうが
人を外見で判断したら痛い目に遭いますよ。例えば至近距離から
撃たれるかもしれませんね。そういう者もいると心得てください。
ここに来ると冷茶を繰り返し飲むので小用が近くなって困ります。
暫しの間、僕は席を外させていただきますので監視を頼みますね」
ハヤカワ君は丁寧な口調で通りの向こうにある広場の御手洗いへ
行くようです。考えてみると、あの美形の所長さんが御手洗いへ
行くなんて想像できません。あの自分を弁えていらっしゃる方が
夢を壊すような行動を見せるとは思えません。あの所長さんなら
巧みに忍んで済ませることでしょう。『格好悪い』という言葉が
辞書には載っていない御方も存在するものです。不思議なことに。
それは兎も角として任務を怠るわけには参りません。葉ちゃまの
補佐である私も怪しい人物を注意深く観察しないといけませんね。
いくら『猫』とはいえ、本物の猫の姿で現れるはずありませんし
「数百年も生きている死ねないバケモノ」と鹿君が言ったのなら
ひょっとしたら幼い女の子にだって化けられるのかもしれません。
今も何処かで素知らぬ表情して少女たちの卓を見ている可能性も
無きにしも非ずです。私の知る限りでは葉ちゃまは強いのですし
必要とあらば…私も単独行動して…。あ、でも、猫を発見したと
しても、どのような手段を講じて情報を伝えたらいいのでしょう?
「半月焼きは凄く美味かったけど一度に三皿立て続けに食べたら
流石にちょっと飽きちゃうよなぁ。監視といってもネネさん達が
食事してる最中に猫が現れたら卑怯を通り越して格好悪いと思う。
猫の気持ちになって考えられたら先手が打てるかもしれないけど
色々と俺たちに教えてくれた鹿君は給仕の仕事で忙しそうだから
今聞き出すわけにもいかないもんな。猫なんて可愛らしいヤツが
敵になるとは夢にも思わなかった。今を生きてると様々な経験を
積んでいくもんなんだよ。それにしてもハヤカワ君、遅いなぁ…。
小便のつもりで便所へ行ったら大きな便もしたくなったのかな?
それは俺もよくあることだし、生き物なんだから仕方のない話だ」
通りを挟んだ広場のほうを見ている葉ちゃまは長々と独り言ちて
少々お下品なことまで考えが及んでいる模様です。お恥ずかしい。
あ、そうだ。子供の頃は降霊術といって文字盤の上を勝手に動く
小銭を幽霊が動かしてると信じて眺めていたっけ。でも、死んだ
私は…何も自分の意志で動かすことなど出来なかった…。夢にも
現れることは出来ない。現在でも時々葉ちゃまの夢の中には私が
現れることがあるようだけど、それはここに存在する「私」とは
違う葉ちゃまの心に生きる別の私…。化けることも脅かすことも
全く出来ない。思いの世界を彷徨う透明な空気。それでも空気に
だって何かが出来るはず…。空気の冒険が今ここで始まるなんて
面白いかもしれない。誰も見えない空気だから人の目を気にする
必要なんかないし、少しの間でも私の意志で葉ちゃまから離れて
他の景色を眺めてみてもいいのかもしれない。思い切って動こう!
…?!…
奥の厨房に行ってみたいと思ったら、本当に厨房の中に移動した。
厨房の中で店主さんが一人きり懸命に注文の料理を拵えているわ。
凄い。私は優秀な監視者だったのね。しばらく眺めてみましょう。