性と死の螺旋の中で
押し入れに別れた妻の死体が入ってた。
目が眩むほど暑い夏の日のことだ。
風鈴の音が響いたと思えば、風が吹いて俺の汗を拭う。
元妻の死体には打撲痕も切り傷も扼痕も、まして出血すら見られない。だと言うのに押し入れを開いた時に物が落ちるように垂れ下がったその腕を見れば死んでることがわかる。
スーパーの冷凍庫に並ぶササミのパックと同じ、人間の形をした水風船のように見えた。美人な顔は蒼白に染まり、その目は白く濁り始めていた。記憶の中にいる彼女の唇は真っ赤なルージュで浸されていると言うのに、死に満たされた彼女の唇はカサカサで紫染みている。
開ききった白い瞳孔がずっと息を吸えないまま固まってる俺のことを捉えて離さない。
何故、何故俺の押し入れに元妻が入ってる?
一雫、汗が夏を伝う。
無音の心臓がありありと瞼に影を作る。
心臓が勢いよく跳ね上がる。
俺は外に出た。
警察に届け出てるのが当たり前のことのはずなのに、俺と元妻の関係が関係だ。真っ先に俺が疑われてしまう。関係のアレコレを聞けばきっと容疑者として拘置所に置かれてしまうのではないか。
しかしながら、一番の懸念はもしかしたら俺が殺してしまったのかもしれないということだ。昨日は飲んでないよな。
それでも判別がつかないほど狂乱と陽炎が渦巻いて記憶を溶かしている。
元々酒癖が悪い方だった。元妻との喧嘩だって、酒が入ってる時が大半だった。
でも、まさか。
昨日は酒を一滴も飲んでない。元妻がうちに来た記憶だってない。
一体全体どうなってるって言うんだ。
炎のような暑さがTシャツ一枚だけ着た俺を刺して焼くように苛む。凛々と咲く朝顔の涼しさが陽炎で歪んでしまうほど、夏に頭がくらくらする。
天から神の目がこの部屋を覗き込んで俺に試練を与えてるようで、俺は猜疑心に突き動かされる。妻との出会いと別れの記憶が酒のように回った。
水を差すように嫌な記憶も迫り上がってくる。
十代の頃から尽きることない性欲を持て余してた俺は妻と関係を持ってからも、他の女性と関係を結ぶことが多かった。争いがたい肉欲は自慰だけで収まることがなく、出会い系アプリで出会った女とひたすらに遊んだ。いつかはバレることだった。妻は証拠を突きつけて、キャリーバック片手に映画のワンシーンのように涙と共に出ていった。
未練がないといえば嘘になる。俺の不誠実さと不甲斐なさが招いた事だがいつかやり直したいと意地汚くも思ってた。
それなのに、それなのに!
綿飴のような入道雲を仰ぎながら、苦虫を噛み潰したのを取り繕うような笑みがこぼれた。通りすがりの婆さんが気味悪がって足速に俺の横を通り抜けた。
と、とりあえずだ。死体をどうするかを考えるために頭をリセットする必要があるよな。酒とタバコを買いに行こう。
財布なんて持ち合わせてないくせに俺は自分にそう言い聞かせて商店街をウロウロと亡霊のように彷徨った。
早く早く、脈動するのは心臓か。乾いた喉か。焼け付く苦味を求めて彷徨う。
子連れの楽しげな会話も、小学生の集団の声も煩わしくてイラつく。小石を蹴り飛ばしてイライラをおさめようとした。
つま先に弾かれた小石は変化球のように右反りにカーブを描いて1人の女性の足にぶつかる。
「あ……」
まずい、と思った。良い年した大人がさっきバカにした子供のような遊びをして、しかもそれで相手にぶつけたなんて。
恥ずかしさと己の馬鹿さ加減に嫌気がさした。これも全て夏の暑さのせいだ……
だが、暑さに澱む脳が一瞬で凍りつく。
「あんた……」
レモネードの中で傾く氷のように涼しげな声。太陽の光を浴びて朝露のように輝いて、白いトップスの下に豊満なバストを隠し持ってる彼女。
まさか、どうして。
俺が殺した、いや、隠した元妻がそこに生きて立ってたのだ。
「お前、生きて……!?」
「何よ、幽霊でも見たみたいな顔して。お久しぶりね」
幽霊ならばどれほどよかったか。アレはどう見ても重さのある屍だった。だが、その屍になったはずの張本人がここにこうして、ハイヒールなんて履いて元気そうに闊歩している。どう言うことだ? 全部俺の夢だったのか?
「久しぶりって……お、お前俺の家に居なかったか?」
「なにそれ居るわけないでしょ。今日はたまたま仕事で近くにきたから、顔くらいは見せに行こうか悩んでたけど。もしかして、虫の知らせってやつかしら」
コイツはうちに来てないのか? それじゃあ、俺が見た『アレ』は本当になんだったんだ。一気に背筋が凍え、汗が冷えていく。夏のはずなのに1人だけ氷水の中に沈められたかのようだった。
脳裏に刻まれた彼女の唇に記憶の目が奪われていた。押し入れで乾涸びた紫色。しかし、太陽の下で見る彼女の唇はやっぱり美しい赤色。二つは重ならない。
フラッシュが点滅するように死体の彼女と生きてる彼女が交差する。脳みそに杭を打たれたように頭が痛くなってきた。海に身を任せるように全身から力が抜けてふらつく。深くため息をついて俺はこう思った。
やっぱりアレは、夢だったんだよ。
そうだ、そうに違いない。
寒さは残るがすーっと俺の肩にかかってた錘が無くなっていく気がした。
「それなら……立ち話はなんだし、久々にうちに来ないか?」
「馬鹿じゃないの? なんであたしが不倫男の家に舞い戻らないといけないのよ」
「それでも、顔を出す気ではいてくれたんだろ? 最近一人で食事するの寂しくってさ」
「もう……レストランでいいじゃないのよ」
「財布家に忘れてきちまって」
「何しに商店街に出てきたの?」
お前から逃げてきたんだよ。
なんて、口が裂けても言えるわけがなくて適当にはぐらかしながら家に戻った。蝉時雨が不安に降り注ぐ。
甘い恋が戻ってきた気がした。俺の口の中にレモンのような味が炭酸のように弾ける。それが心地よくて、舌なめずりをした。
「この家も変わらないわね。あの時に閉じ込められてるみたい」
彼女は二つ椅子のついたテーブルの周りをゆっくりと踊るように巡って、机の上に出しっぱなしにされていたひしゃげたアルミ缶を指で弾いた。俺は冷蔵庫に入ってた食材を見比べて料理の準備を始めようとしていた。
偶然な出会いではあるが、もし事前に知っていたらもっといいものを買っておいたのに、と後悔が俺の頭を横切ったが、長ネギを切る包丁のリズムはドラムのように一定だ。
既に不安は夏空と共にかき消えたように思えた。
「あら、押し入れが少し開いてる」
そんな元妻の声とみしりと音を立てる音に心臓が飛び出そうになった。
プツリ。
指先に包丁が当たって、血が流れる。
「あ、あぁ〜! 指切れちまったあ! ちょ、ちょっと向こうから絆創膏取ってきてくれねーか!?」
炭酸のように俺の中の不安が溢れ出た。確認しなくてはならない。現実としてあり得ないことだ、こうして元妻が部屋にいるのを感じているのなら確認する必要はないはずだ、しかし――確認しなくてはならない。
本当に押し入れのアレは夢だったんだよな?
「大袈裟なのよ。ていうか、絆創膏のある棚は自分で行ったほうが早いでしょ」
そう言いながら彼女の目は押し入れから離れない。まるで何かに吸い込まれているようだ。ちょうどシンクで渦を巻きながら落ちていく流水のように。血も一緒にその渦に啜られる。
俺の中の焦りが洗濯機のように回転速度を上げて唸り始める。
「押し入れに触るな!」
「何よ、またあたしに隠し事? まさか、押し入れに女がいるんじゃないの?」
「ち、違う! とにかく押し入れから離れるんだ」
「あたしに指図しないで。ふふっ、せっかく来たんだもの。一つくらい暴いてやるわ」
彼女はわずかに空いた隙間にそのネイルで塗装された手を掛けると勢いよく開けてしまった。俺の説得らしからぬ言葉は空を切り、代わりに雷のような焦燥が俺の身を劈いた。
最早その押し入れは今までの物置じゃない。異常と恐怖と懐疑で出来たいわば超えてはならない向こう側の世界。
俺は何もないことを、全てが夢であったことを祈りながら奥歯を噛んで、元妻を見続けた。
彼女は硬直して動かない。けれど、だんだんわなわなと震え出し叫び声を発した。
「し、死体……! 死体だわ! きゃゃぁぁぁああ!!」
硬直していたはずの彼女が腰を抜かして、倒れ込む。押入れの中身が俺の眼の中に飛び込んできた。あぁ、やはり嘘じゃなかった。
やはりそこには彼女の、元妻の死体が横たわっていたのだ。しかし、その目は濁っておらず、今度はちゃんと黒目がこちらを睨みつけている。まるで恨みがましいように。
生きてる方の元妻も俺を怯えながらも、睨みつけている。
二つの視線が俺のことを弾劾するように貫いた。
「ご、誤解だって!」
「こんなの、あんたがやった以外ありえないじゃない! 包丁を置きなさいよ、このヒト殺しぃ!」
俺じゃない! 俺じゃない!
とんでもない剣幕で弾劾されてもそれは冤罪だ。俺は殺してない! だって、お前は生きてるじゃないか!
窓から差し込む夏の斜陽が突然雲に遮られて一筋たりとも届かなくなる。明るく暖色に染まっていた部屋が一気に静まり返り夜のように青くなった。そして、寒くなるようなか細い風鈴の音だけが水面を打つ。
「に、逃げなくっちゃだわ! あぁぁぁ!」
押し入れを突き放すように離れて、玄関に向かおうとする元妻。俺は包丁を置いて、その姿を静止して見てるしかなかった。
警察にちゃんと言えば捕まることはないんじゃないだろうか。だって、俺は殺してない。こうして妻も生きてるんだ、そうだ、そうだ!
そんな考えが頭をよぎって動く気にはならなかった。押し入れの死体が蠢いて、俺の方を指差してくるのだ。動くな、と言うように。
その細く枯れ木のように萎れた指で。
生きてる元妻はドタバタと暗い廊下に消えようと脚を藻搔かせた。しかし――
「きゃぁ!」
ゴンッ!
出て行こうとした彼女が何かにつまづいて思いっきり机の角に側頭部をぶつける。鈍い音が聞こえて、風鈴の音すら聞こえなくなる。今この部屋は夏よりも熱いじめじめした嫌な感じだけが占めて、それ以外の夏らしさが死に絶えた。俺を残して、全てが生暖かく俺を責めた。
さっき指で弾いたアルミ缶が床に転がってたせいで、それを彼女が誤って踏んでしまったようだった。
「お、おい。大丈夫か……?」
返事はしない。
暗い空間に段々と蝉の鳴き声が入り込み始める。生唾を飲んで、自分の嫌な予感が的中してないか確認しようとした。彼女の手首を持ち上げて、絶対そんなことしなければいいのに、脈を測ってしまった。
指先で確認できるはずの音がしないのだ。
「し、死んでる……」
急速に冷たくなる肉体。魂がヘリウムガスのように抜けてしまったように生きていた面影が消えていく。ただその視線は俺のことを捉え続けてる。
恨みがましいように。
紫色の唇。
白濁した目。
同じ家、同じ空間に同じ妻の死体が二つ出来上がってしまった。
「なんてこった……嘘だろ」
冷房の効いてない部屋だから茹だるような暑さだけが響き続けてる。刻んだ野菜を台所にぶちまけて、脱力して俺は椅子に座った。大きくため息をついて、ただ呆然と二つの死体を見ている。
疲れ切ってしまった。目の前のそれを不気味だ、と慄く体力もない。いや、一種の神秘性や美術品らしさまである。なんとなく、パブロ・ピカソの絵にでも閉じ込まれたような錯覚だった。
ピーンポーン
一滴の音が死に固まった部屋を打ち砕いた。まるで俺が罪をかぶせられるのを待ちわびていたかのように、重く握りつぶすような音だった。
こんな時に一体誰なんだ。
言い逃れられないこの状況での来客、いつもならこれほどの徒労感があっては居留守を使うが、俺はもう捕まってしまいたかった。
フラフラと二人の元妻の死体を残して俺は扉を開いた。
「お元気かしら? たまたま仕事が近くだから寄ってみたんだけど」
氷のように透き通るその声を聞けば、怠かった暑さも掻き消えて、身の毛がよだった。
死んだはずの、二回も死んでいるはずの元妻が平然とちょうど仕事が終わったくらいのくたびれた顔をして俺の目の前に現れたのだ。それでも、生き生きとした表情で。
「なっ…………」
「驚いた? 驚かせようと思ってきたのよ。今日くらいならあんたに会っても良いと思って」
元妻の言葉は俺に届いていなかった。耳から全て抜け落ちて、代わりに別のイメージが俺の頭蓋の中を渦巻いていた。
螺旋階段を下りている。限りのない無数の元妻との出会いと別れが生と死を軸に今俺の現実を侵食しながら渦巻いている。こんなのは下手な怪談話よりも奇妙だ。
だが、俺の中で既にその廻り続ける生と死と再会と離別の歯車的劇場は最早好都合ですらあった。口角が上がりそうになるのを笑顔でごまかして、少し考えてから今度はちゃんと返事を返す。
「驚いたな。ははっ、まさか君の方から会いに来てくれるなんて」
「えぇ、でしょうね。積もる話もあるし、どう? レストランでも」
彼女からの提案。断る理由がない。部屋の中にはもう二人死んでいるのだから、これ以上妻の死体であふれかえられても困る。きっと、彼女の死体が俺の目の前に現れ続ける怪奇現象は延々と続くのだろう。根拠としてはどこにもないのに、そんな嫌な予感が心臓を焼き潰すような烙印の如くあった。
けれど、彼女とやり直しを続けるのは俺にとって喜ばしいことだった。
「ちょっと待っててくれ、今着替える」
「部屋に誰かいるの?」
俺は振り返って答える。
「誰もいないよ」
扉を閉めて、俺はゴムをポッケに忍ばせた。
この怪奇の螺旋を恐れ多くも楽しむために。