第一章 人間の終わり 02
「この十年で出来た発明的な医療技術って、死ぬ日の予測が可能になっただけ、ってなんか皮肉。あと九日で、結婚十年だったのにね」
理恵は病院のベッドに腰掛けて、オレンジ色の日差しを浴びながら呟いた。
彼女は今日死ぬ。僕と同じ三十六歳だった。この溌剌とした体のどこに、死が存在するというのだろう。艶やかな黒髪は光を受けて輝き、肌や瞳も潤っており、話す言葉にも衰弱めいたところは一つもない。
それなのに、彼女は今日死ぬ。
「結婚十周年の記念。スイートテンダイアモンドでしょ。買うよ」
「お金あるの?」
「うーん、硯を売る。実は貴重な清代の一面持ってるんだよ」
「あんな石くれお金になるの?」
「なるよ。そんなこと言ったら、ダイヤだって石くれ」
達也はロマンがないね、などと呟いて、理恵は横になると唐突に眠った。その顔に耳を寄せる。彼女の息を感じ、胸をなで下ろす。眠っているだけだ。一月ほど前から、彼女は突然眠るようになった。自宅で死ぬと言っていたが、自転車に乗っていて、突然眠り、頭を縫う怪我をして、そのまま入院した。
起きている時間はだんだん短くなっていた。今日中に彼女は死ぬ。
急に腹が減ってきた。そういえば、朝から何も食べていなかった。ちょっと出るね、と寝顔にことわる。遅めの昼食を買いに駅前の商業施設に向かう。繁華街やアミューズメントパーク、むかし人が多く集まっていた場所に行くと、この一、二年で明らかに人が少なくなったのが分かる。
すえの露もとの雫や世の中の後れ先立つためしなるやんっ!
商業施設では天井のスピーカーから、古い和歌をサビに用いた、最近流行っているロックが賑やかに流れていた。
いつもの癖で値引き品やコスパの高そうな弁当に伸びてしまった手を、ぐっと引き戻す。もうそんな必要はない。値札を見ないで食べたいものを選ぶ。自動支払機に表示される金額を無視してモバイルに入ったワクチンパスポートをかざす。金額の数字は、ありがとうございました、という文字に変わった。
余命1年以内の人は在来線の利用と日用品が全て無料になるというサービスを政府は半年前に導入した。僕はつい先週、余命一年を切ったので、まだこのサービスに慣れていない。公園で弁当を食べて病院に帰る。
「達也」
男の声だった。理恵の病室に戻る廊下で、後ろから名前を呼ばれた。
「まさか、海津?」
振り返ると、数年会っていない親友の顔があった。海津は笑った。懐かしい笑顔だった。
「おう。そのまさか」
「五年ぶり、くらいか」
海津は髪が肩に掛かるほど伸びていた。高校の時からいつもオシャレに決めていた記憶なのに、安物のジーパンにネルシャツ姿。声をかけられなければ気がつかなかっただろう。
海津は缶コーヒーを奢ってくれると言うが、僕はワクチンパスポートが使えるから、と断った。逆に奢ってやろうとして、連続して二つは使えないことを知った。
夕陽の射す中庭のベンチに腰掛けた。昼間は過ごしやすい秋の涼しさが、日が傾くと肌寒さに変わる。ホットコーヒーの缶を手で包む。
「なんでここにいるんだよ。どっか具合悪いのか?」
「バカ。理恵の見舞いだよ。たまたまここに同期が務めてて、ほんと偶然に知った」
海津も理恵のことが好きだった。海津と僕と理恵は同じ高校で、よく三人で遊んでいた。海津は留学してしまったが、日本に帰ってきてからはたまに会っていた。僕と理恵の結婚式ではもちろん友人代表を務めてもらった。
親友だった。五年前の、あの事件が起きるまでは。事件以来、海津とは音信普通になっていた。