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異世界恋愛 ──十六王国物語──

囚われ姫のレイズドベッド

作者: 三條 凛花

 

 恋をしていた。

 それに気がついたのは、手紙が途絶えたあとだった。



 神殿の広い庭園に寝転んで、空を見上げる。西の空に日が沈んでいくところだ。


 小高い丘の上にあるこの庭園からは、遠い港町まで見渡せる。その水平線にじゅっと溶けるように太陽が落ちていく時刻。


 薔薇色の空に、同じ色の、綿菓子のような雲が流れていく。



「はしたないわ」


 降ってきた声は、咎めるようでいて優しい。ルゥラは渋々体を起こす。


 真っ白で飾り気のないワンピースを叩くようにして砂を落とせば、彼女は眉を寄せてこちらを見た。




 けれども、ルゥラはまだもう少し眺めていたかったのだ。

 はじめてあの人に会った時に見たのと似ている、どこまでも広がる夕空を。


 ルゥラは今日も祈る。自由の対価として、見知らぬ誰かのために。







 ルゥラの心に色をつけたのは、天の邪鬼な妖精が運んでくる手紙だった。


「いつか、あなたを迎えに行きます」


 顔も声も知らぬ彼は、少し角張った、しかしながらお手本のように美しい文字でそう綴ってくれていた。


 それを見たとき、ルゥラは華やぐ心に気づいた。自分にも感情の起伏があったのかと驚く。

 けれども一方では、なにか底知れぬ不安もにじり寄ってきて、息苦しさを覚えた。


「ーーこれは素敵で、……そして哀しいことだわ」


 それは確かな予感だった。








「いい? この状態は真っ当じゃないのよ」


 ポルカは、──妖精ポーチュラカミラは、ほろほろと崩れる口溶けのクッキーを両手に持ち、それをりすのようにもぐもぐと頬張りながら人差し指を立てた。


「あなたは罪人なの?」

「違うわ」


「ここから出ることはできるの?」

「ーーいいえ。母さまが、この塔からは決して降りてはいけないと……」


「誰かを呼ぶことは?」

「それもできないわ。でも、母さまが毎日必ず来てくれるから、それを待っていればいいのよ」


 私の答えに、彼女は呆れたように眉を潜め、大きくて長いため息をつく。


「ふつうの人間はね、こういう狭いところに閉じ込められて暮らすことはないの。

 もう一度言うわ。あんたはね、実の母親に虐げられているのよ」





 物心ついた時から、ルゥラはこの部屋に一人だった。


 ポルカはルゥラが虐げられているというのだが、衣食住に困ったことは無い。


 ルゥラが読んだ書物のなかに、継母に虐げられる少女の話があったが、その子はぼろぼろの服を着て残飯を漁り、すきま風の吹く部屋で寝起きして、使用人のようにこき使われていた。


 この部屋の中には氷箱と火箱が設置されており、運ばれてくる食事はそこで適温にすることができる。


 クローゼットには着心地の良いドレスがたくさん詰まっている。


 室内もルゥラの好みに合わせた装飾がされており、娘らしい内装だ。




 誰かに会うことはできないが、母は毎日必ず来てくれる。


 時間は日によってまちまちで、日中の滞在は短く、たいてい、ひどく機嫌が悪い。それはもう、別の人間ではないかと思うほどに。

 


 けれども真夜中にくるときは優しくルゥラを抱きしめてくれて、新しい書物に、温かい夜食を持ってきてくれる。


 膝の上にルゥラを乗せて、本を読み聞かせてくれたり、共に勉強してくれたり、クラファルヴィアを教えてくれたりする。

 クラファルヴィアというのは、白と黒の二色の鍵盤でできた楽器のことだ。


 


 その夜も、母はルゥラの元を訪れた。いつものように、魔石を使って防音魔法を施す。


 この国には魔力のある人間はほとんどいない。ごく少ない魔法使いに神官、そして聖女だけである。


 その代わり、彼らが作り出す様々な効果を付与された魔石が一般に普及している。




「譜読みが早くなったわね」


 母は、はじめて挑戦する曲をなんなく弾きこなしてみせたルゥラを見て、感心したようにうなずいた。


 楽譜を読むのは苦手だが、音それぞれに色を決めてみたら見やすくなった。そのときも母は「工夫したことがえらいわ」とほめてくれた。


 そうして練習を重ねるうちに、今では色をつけなくても、見ただけですぐに音を判断できるようになっていた。


「こんなところで不自由させてしまうけれど、あなたは外に出てはいけないの。ごめんね」


 そう言うと母はルゥラを抱きしめたのだった。







「いいことを思いついたわ」


 その日もお菓子を食べにやってきたポルカは、ぽんと手を打った。


「文通をしてみたらどうかしら?」

「ーー文通?」


 ルゥラが訝しげに尋ねると、ポルカはうなずく。


「手紙を交換することよ」

「……それは知っているわ。わたしが聞きたいのは、一体だれと、ということ。ポルカは文字を書けるの?」

「あたしとじゃないわ。ほかの人間とよ」


 ポルカは鼻高々といった感じで笑う。


「いいわ。ここにいても別に困らないし、それに、わたしにはポルカ以外に友だちなんていないもの。そもそも無理な話なのよ」


 ルゥラが言うと、ポルカは一瞬なぜか顔を赤くして、それからぶんぶんと頭を振った。


「ポルカ?」

「ーー大丈夫! あたしが占ってあげるわ」


 そう言うと彼女は、ポルカのために縫った小さなクッションから降りた。


「あたしの一番の得意分野は、占いなのよ。

 あんたを一番いい結果に導いてくれる、そんな友だちをあたしが探してあげる」


 ポルカは何かを包み込むように、両のてのひらを丸くふわりと構える。すると、その中に雲のような靄が生まれた。


 それはくるくると渦を巻いていく。やがて、靄の中に、夜空のような濃紺の光と、薄青の光が煌めいた。


 ポルカは何事かをぶつぶつとつぶやいていたが、「ーーわかったわ」と手を叩いた。


「ちょっと行ってくる」


 そう言うとポルカは身を翻して、窓から飛び出していく。


 ルゥラは慌てて立ち上がってその姿を目で追う。急降下して、それから地面すれすれのところでふわりと浮き上がるポルカを見て、ふと、ーー羨ましくなった。






 ポルカと出会ったのは、今から半月ほど前のこと。母がルゥラの十歳の誕生日を祝ってくれた三日後のことだった。


 窓枠に張った大きな蜘蛛の巣に、蝶がもがいているのに気がついたのだ。


 助けてやると、蝶は光に包まれて、人形のように小さな人の形に変わった。

 驚いているルゥラに彼女は、自分は遠い国からやってきた妖精で、お礼に願いを一つ叶えてくれるという。


「じゃあ、あなたがわたしのお友達になってくれる?」


 ルゥラが尋ねると、妖精はぱちぱちと目を瞬かせた。


「そんなことでいいの? あたしの力があれば、ここから抜け出すことだってかんたんなんだよ?」


 ルゥラは首を振る。


「でも、母さまが、わたしは外に出てはいけないと言うのだもの。外は危ないから」


 事実、もっと幼いころに一度だけ塔から降りたことがある。母がたまたま鍵を閉め忘れていたのだ。部屋の中にばかりいるのは退屈で、長い長い螺旋階段を昇り降りして遊んでいたら、いつの間にか外だった。


 ところが、そのときは、使用人の男の子たちに意地悪をされてとても怖い目にあったのだ。


 追いかけられたり、髪を引っ張られたり。中にはそれを制止してくれる子たちもいたけれど、母が危険だという意味がよくわかった。





 助けてからというもの、妖精ポーチュラカミラは、時折ふらりと窓辺に現れては、ルゥラの部屋で甘いお菓子をかじりながら、自分が外で見てきたことをぽつり、ぽつりと話してくれるようになった。


 ポルカの居た国はここからずっと遠く。木漏れ日の王国と呼ばれる国であるらしい。


「ーーいろいろとやらかしたの。だから追放されたのよ」

「そんなのひどいわ!」


 ルゥラが言うと、ポルカは力なく笑った。


「ううん、自分でも良くないことだったと思うわ。ーーいつか、話せるときが来たら話す」


 焼き菓子を食べ終えると、ポルカはふわりと飛び、窓から出て行った。


 不機嫌に苛立っていることもあるけれど、ルゥラはいつだって母の愛情に包まれていた。

 だから、この塔だけで暮らしていることに不満など持ったことがなかった。


 でも、自由に空を飛び回るポルカを見ていたら、ーーなんだか、自分も外に出てみたくなってしまった。






「ーーキール?」

「そう。キールっていう平民の男の子よ。あんたと文通してくれるって」


 ポルカは手紙をルゥラに持ってきてくれるようになった。


「ルゥラ嬢へ

 世話焼き妖精に君とやりとりする機会をもらえたことを嬉しく思っている。キール・ヒュープナーだ。

 どうか仲良くしてもらえると嬉しい」


 キールとのやりとりは尽きなかった。


 趣味のこと、学んだこと、その日感じたこと、花のことーー。


 この塔だけで過ごしているルゥラにとって、話の種となるような内容は限られていたが、手紙を書くようになってから、以前より一日のことが印象に残るようになった。





 キールは色々なことを手紙に書いてくれたが、とりわけ花のことに詳しかった。見つけた花のスケッチは、まるで植物図鑑のように精緻に描かれており、眺めているだけでも時間を忘れた。


 そして、時折花の種を手紙に添えてくれた。

 種はまるで宝石のようで、一粒ひとつぶ違う色や形をしていた。ルゥラは母に植木鉢をねだった。


「鳥が種を運んできたの」というと、母は特に疑うこともなく鉢や如雨露を用意してくれた。


「貴族令嬢のすることではないけれど……。そうね。確かに、花を育ててみるのは気分転換になるかもしれないわ」


 外の人間と関わることを嫌う母に嘘をついてしまったことが心苦しくて、手紙が届くときは、嬉しさと疚しさがないまぜになって苦しくなるのだった。







 キールとの文通をはじめて、数年が経った。部屋にはたくさんの花が溢れていた。


 ルゥラは気づいていないが、いつの間にか成人を迎えており、すっかり娘らしく美しくなっている。

 だが、その美しさは容姿だけがもたらすものではなかった。


「あんた、ーーなんだか変わったわね」


 ルゥラを見つめるポルカは、なんだか眩しそうだ。


 それまでは母に与えられるものをこなし、ただ流されるように日々を過ごしていたルゥラだったが、自分のやりたいことや、興味のあることについて考え、母に頼んで生活に取り入れるようになった。




 一番大きな変化は、料理をするようになったことだ。

 塔には料理のできる設備が整っていたが、いつも運ばれてくる食事を食べるだけだった。


 けれども、キールの手紙にある平民たちの食事に興味を持ち、母には食材を差し入れてもらうようになった。


 キールは、自分でも料理をするらしく、かんたんな食事の作り方を手紙の最後に書き付けてくれるようになった。


 料理をすることに対して、母はいい顔をしなかった。


 最後には結局折れてくれたけれど、その日も母は、昼間、不機嫌そうな顔でやってくると、乱暴に野菜や干し肉、パンといったものを置いて出て行った。


「ーーなによ、あの態度。あんたの姉妹たちは、みんな着飾って、外で自由に過ごしてるっていうのに」


 いつの間にか来ていたらしいポルカがぷりぷりと怒る。


「わたしには姉や妹がいるの?」


 ポルカは、しまったという顔をする。

 彼女は思ったことをすぐ口にしてしまうことがあり、それに悩んでいるらしかった。


「ごはん、食べていくでしょう?」


 ルゥラが聞くと、ポルカは黙って頷いた。


 ルゥラは、ふわふわした長い髪をリボンでひとつに束ねると、母と夜に縫ったエプロンをつけた。


 干し肉を細かく刻み、塩とミルクと一緒に卵に混ぜた。鍋を火石で熱し、バターを落として、オムレツをつくる。窓辺で育てた葉野菜を摘んで、洗い、オムレツに添えた。


 パンはこれまでと同じように料理人が作ってくれたらしいものだが、少し硬かった。


「どうしてこんなに硬いパンが出てくるのかしら」


 ポルカはパンが噛み切れないらしく、いらいらした顔で言った。


「そんな座り方をしたらお行儀が悪いわ」


 ルゥラが言うと、ポルカはつんと横を向く。


「妖精にはマナーなんて関係ないのよ。あんただって、ここに閉じ込められているのに丁寧にする意味なんかないじゃない」


 ポルカはまたもや、やってしまったという顔をした。オムレツを一気にかきこむと、そのまま窓から飛び出し、その日はもう戻ってこなかった。





「拝啓 キール様


 キールには、兄弟は居ますか? わたしは最近、自分に姉か妹がいることを知りました。ーーできれば会ってみたいなと思っています」


 それからしばらく、ポルカはやってこなかった。


 ある朝起きると窓辺に置いた手紙だけ消えていて、翌日はその返事が代わりに置かれていた。


 最後に会ったあのとき、ばつの悪そうな顔をしていたなとルゥラは思い起こす。ルゥラは怒ってもいなければ、傷ついてもいないのに。





「僕はあなたにも会ってみたい。ーーいつか、あなたを迎えにいかせてほしい」


 キールから届いた手紙の最後には、こんなふうに綴られていた。


 彼の書く文字は、線と線の感覚が均一で手本のように美しいが、少し角ばっている。伸ばすところはふわりと伸びやかでやわらかい。


 なんとなくだが、真面目で、それでいて優しい人柄を想像していた。



 ルゥラは、キールのことを何でも知っているような気になっていたが、そういえば、彼の髪はどんな色だろう。何色の瞳をしていて、どんな声で話すのだろう。


 いつかその扉を開けてやってきてくれるキールを想像し、ルゥラはかっと頬が熱くなるのを感じた。







 ルゥラが異母姉に会えたのは、その数日後のことであった。


 そして、キールとも思わぬ形で出会うこととなった。それが最初で最後になるとは知らずに。




「ルゥラ……!」


 それは夕方のことであった。

 母がやってくる時間でもないのに扉が開いて、ルゥラは驚いた。そこに立っていたのは、ミルクティー色の髪に金色の瞳をした、美しい女性だった。


「わたくしは、ゲルトルート・ブルグミュラー。あなたの姉よ」


 ゲルトルートと名乗ったその人は、ルゥラを抱きしめた。母と同じ香水がふわりと香る。


「おねえさま……?」


 ルゥラが顔を上げると、ゲルトルートは「ええ」と言い、頬を紅潮させ、瞳を潤ませた。それから周囲を気にするように見渡し、口元に指をあてる。


「早くここから出ましょう。あの人が来る前に」

「あの人?」

「ーーあなたのお母様よ。ここに居たらあなた、殺されてしまうわ」


 ルゥラは困惑した。


「お母様はそんなことなさらないと思うわ」

「ーーそれならどうして、こんなところにずっと閉じ込められているの?」


 ゲルトルートの目は真剣だった。

 ルゥラは答えられなかった。そしてそのまま、幼いころ以来となる外へと、引きずられるように出て行ったのだった。




 空が広い。ーー初めに感じたことだった。これまでずっと暮らしてきた塔は思っていたよりも低くて、その向こうに夕暮れの薔薇色の空が広がっている。


 ゲルトルートはしっとりした柔らかく、冷たい手で、ルゥラの手を強く握っている。そして、早足で塔の裏手へと向かっていた。


 緊張と不安とで、ルゥラの胸は早鐘のように鳴っていた。




「ーー早く、こちらへ。城の裏のこの森を抜ければ、隣の領地に行けるわ」


 ゲルトルートはそう言うと、少しずつ闇の落ちてきている森を指差した。

 そして、やや乱暴にルゥラの背を押す。


「ゲルトルートさん……」

「あらいやだ。姉妹なのだから、姉さまって呼んでくれていいのよ」





 ゲルトルートは頬に手を当てて、少し困ったように微笑むと、首を傾げた。


 森の奥からざあっと風が吹いてきて、ルゥラの桃色の髪をふわりと宙に散らした。ルゥラは、指先からしんと冷えていくのを感じた。


「ーーこの森を抜けても、隣の領地へはいけません」

「え?」

「この国の地図は、何度も見たことがあります」


 ゲルトルートは、取り繕っていた姉の仮面を、一瞬で消した。光のない瞳がこちらを見据えている。


「ーーふうん。それを誰から教わったの?」


 ルゥラは答えなかった。キールからの手紙で、この国の地図が便箋代わりに使われていたことがあったのだ。


 地図にはたくさんの書き込みがあった。


 ルゥラの住むこの城の場所に、しるしが付けられていたし、広い庭のどこにどんな花が植わっているのかが事細かに書かれていた。


 城下町の部分にはおいしい店の書き込みがあったり、景色が美しいという泉も付け足されていた。


 そうして、いつか一緒に行こうと添えられていたのだ。





 そのときだった。


「ゲルトルートお嬢様!」


 姉の名を呼ぶ声がした。城のほうから駆けてきたのは、ルゥラと同じ年ごろの少年だ。


 ゲルトルートはちっと短く舌打ちをしたかと思うと、ふたたび仮面をかぶった。無害そうで儚げな美女の仮面を。


「ーーキール」


 ルゥラはひゅっと息を飲んだ。

 それは、このような場で、絶対に聞きたくない名前であった。


「お嬢様、このようなところで何を?」


 キールと呼ばれた少年は、ルゥラとゲルトルートの間に立った。まるで、ルゥラを庇うかのように。


「庭師の息子風情に話すことではないわ。ーーああ、ちょうどいい。おまえ、その女を森に捨てておいで。泥棒なのよ、その女は」


「ーー泥棒?」


「ええ。わたくしの大事なものを盗っていたことがわかったの。そうじゃなければ見逃してやったのだけれどね」


 ゲルトルートは、そう言いながらも、右手をこっそりと後ろへ回していた。ルゥラは、その手にきらめくものに気がついて、身を硬くする。


 キールはぎりりとくちびるを噛んで、ルゥラを守るように前に出た。


 夢を見ているような現実感のなさだった。ルゥラは、夜の闇のように美しい濃紺の髪の毛に目をやっていた。思っていたよりも低く、涼やかな声だった。


 ーーこんな出会い方はしたくなかった。



 ゲルトルートの右手が前に向けられる。

 あの人の手にきらりと光っていた鈍色の石。あれは攻撃用の魔石。もうすぐ土魔法が放たれるだろう。


 ルゥラは、自分を守るように立つキールを突き飛ばそうと動き出したが、ーー薔薇のように赤い美しい髪が、ふわりと目の前に広がった。





「ーーだから言ったじゃない。あなたは外に出たらいけないって」


 母は荒い息をしながらも、目を細めて、悪戯っ子を諭すような調子でそう言った。


 美しく弧を描く赤い唇からは、血が一筋垂れている。豊かな胸元には、まるで花びらのように血が散っていた。


 キールは、ルゥラの日に当たっていない大理石のように真っ白な腕に触れたまま、きゅっと口を引き結んでいた。


「あ……お義母さま、いやあああああ……!」


 狂ったように叫びだしたのはゲルトルートであった。


 彼女はルゥラやキールを押しのけるようにして母にすがりついた。そして、その胸に顔を埋めてぼろぼろと涙を落とした。


 先ほどまでの人形めいた表情はどこにも見えず、ただ狼狽し、泣き叫ぶ一人の女がそこには居た。




 ルゥラにはその光景が霞がかった夢のように映った。


 恐怖と後悔と、悲しさと不信感と……そういった感情がごちゃまぜになって、うるうると目頭を熱くし、視界が曇っていたからだ。


「おかあさま……」


 ルゥラは一歩ずつ母に近づく。


 昼間に訪れたときはいつも不機嫌そうでルゥラを蔑むように見ていた新緑の瞳から、だんだん光が失われていく。


 真夜中にルゥラを抱きしめてくれた手が、冷えて固くなっていく。


 言いようのない不安と悲しさに襲われたそのとき、ーールゥラの中で何かが爆ぜた。

 森は真っ白な光に包まれた。







 恋をしていた。

 それに気がついたのは、はじめて会ったあの人を失った後だった。ルゥラは今日も祈る。自由の対価として。見知らぬ誰かのために。




 魔石の国・ビジュリトスには、聖女がいる。

 聖女には癒やしの力があるとされ、見つけ次第、神殿が保護することになっていた。


 その力を魔石に込めたものが人々に配られる。それは、貧しい者たちの治療に使われる、大切な力であった。



 あるとき、田舎の小さな領地の森で爆発的な光が確認された。それこそが、聖女覚醒の証であった。


 聖女ルゥラ・ブルグミュラーは領主の娘だ。

 ブルグミュラー男爵は、政治面での手腕を評価される一方、人格面で問題のある人物であった。


 とりわけ人々が眉をひそめていたのは、その好色さである。


 正妻との間に一男・一女を、三人もの妾との間に、それぞれ一人ずつ娘がいた。ルゥラは妾の一人であるバルバラの子どもだった。



 幼いころから実の母バルバラによって塔に幽閉されていたが、十七のときに聖女として覚醒し、神殿に保護された。


 それから五年が経つ今も、ほかの聖女の存在は確認されておらず、ルゥラは日々、結界を張るために祈りを捧げている。



 代々の聖女たちにとっては窮屈だと不満がられていた神殿での暮らしだが、しかし、塔にずっと幽閉されていたルゥラにはひどく自由に思えた。


 神殿内であれば、どこにだって自分の足で行けるのだ。








 神殿に保護されてから一年ほどは、キールとの文通は続いていた。


 庭師の息子であるキール・ヒュープナーに神殿から届けるという、正規の文通であった。


 というのも、ポルカはどこかに姿を消してしまっていたからだ。


 あの気まずい午後が彼女にあった最後になってしまった。結局、彼女が妖精の森を追放された理由も聞けずじまいだ。


 しかしながら、彼からの返事は、あるときから途絶えた。失ってみて、はじめてキールへの気持ちに気がつく。





「ルゥラ」


 母は、ルゥラの世話係としてそばにいる。

 神殿は渋ったが、ルゥラが強く頼み込んで、ともにここへやって来たのだ。


「ーーあなた、恋をしていたのね」


 差し戻された手紙が十通目を超えたとき、さめざめと涙を流すルゥラに、母が言った。


 手紙をもらうたびに華やいでいた感情の正体。もう会えないであろうこれからを思うと、きりきりと心が締め付けられるような苦しさの理由。

 母の言葉ですとんと納得した。ルゥラはキールに恋をしていたのだ、と。



 子どものころのように抱きしめられたのは久しぶりだった。

 母は、ぽつりぽつりと、自分の話をはじめた。


 子爵家の令嬢であったこと。身分違いの恋をして、結果的に醜聞となり、まともな結婚が望めなくなったこと。

 流されるように男爵の妾になったこと。


「ねえ、母さま。わたしを塔に入れていたのは、守るためだったのではないの?」


 ルゥラが尋ねると、母は困ったように眉を下げ、そしてうつむいた。


 まだキールからの手紙が届いていた頃、彼も事件のあとに聞いたのだという、屋敷の内情を教えてくれたのだった。




 正妻の娘でありながらも、母親に虐げられていたゲルトルートは、優しく接してくれた唯一の人間である母に、異常に執着を見せたこと。


 母の懐妊がわかると、ひどい嫉妬をし、癇癪を起こしていたこと。


 赤子のころに、何度もルゥラが殺されそうになっていたことーー。




「昼間、わざとわたしに辛く当たっていたのは、ゲルトルートに見せるためだったのでしょう?

 真夜中に来てくれた母さまが、本当の母さまの姿だったのね」


 ルゥラが言うと、母は口をきゅっと結んで、ぽろぽろと涙をこぼし、首を振った。


「ーー守っていただなんて、とても言えないわ。私はただ、あなたを手放したくなかっただけ。


 本当に守るつもりなら、……あなたのうなじに聖女の印を見つけたときに、神殿に申告すればよかったのだから。


 私にとっては、あなただけが唯一の家族だった。失いたくなくて、あなたに不自由をさせてきたのよ」


 ルゥラは、肩を震わせている母を抱きしめた。


 子どものころ、おばけが怖いと眠れずにいたら、いつも優しく抱きしめてくれた母が、こんなにも華奢で小さかったことを今頃になって知る。


 確かに自由はなかったけれど、ーーあの塔は、愛情の檻だったのだとルゥラは思った。


 歪な関係だったが、母の愛を得られていたルゥラは、実は幸せだったのではないかと思う。


 ゲルトルートはあの後、もともと不仲だった実母によって、ブルグミュラー家を追い出されたと聞く。美しくたおやかなあの人が、平民の暮らしなどできるのだろうか。





 それからもルゥラは祈りを捧げて過ごした。


 時折、平民街に赴くことがあった。そのたびに胸が甘く痛んだ。


 まさか同じ敷地内に住んでいたとは思わなかったキール。


 彼は、今もブルグミュラーの屋敷で働いているのだろうか。父親と同じように庭師をしているのかもしれない。いや、それとも、独立してこの街にいるのだろうか。


 つい、きょろきょろとあたりを見渡してしまう。キールに会いたい。でも、会いたくない。


 自分以外の人と結婚していたら……。そう思うと胸がちりちりと痛み、ルゥラは目を伏せた。



「あれは?」

「──ああ、今流行りの劇ですよ」


 人だかりに目をやりながら聞くと、護衛の騎士が答えた。


「なんでも、冬大陸の国で起こった魔女騒動をモチーフにしたものだそうですよ。彼の国では誰もが当たり前に魔法を使えるのだとか」


 舞台の上では、主役の女性が、王子を庇って倒れるシーンが演じられていた。


「フルール! いやあぁぁぁ……」


 泣き叫ぶその声に聞き覚えがあり、ぱっと舞台に目を戻す。遠くてよく見えないけれど、その人はミルクティー色の髪をしていた。








「ルゥラ様」


 神殿に戻り、着替えを済ませると、神官が扉をノックする音が響いた。


「本日から、新しい護衛騎士がつきます。次は神殿孤児院への慰問ですが、彼が付き添いますのでご挨拶に」


 神官に促され入ってきたのは、背の高い青年だった。夜空のような深い濃紺の髪に、薄青のたれ目がちな瞳。すっと通った鼻筋に固く結ばれたくちびる。


「キール・リュトヴィッツと申します。あなたを、お迎えに参りました」


 その人は、震える声で言った。


「ーー聖女の護衛騎士は、上位貴族しかなれないはずじゃ……」


 神官が立ち去ったあと、ルゥラは思わず口に出していた。

 どこからかふわりと蝶が入ってくる。


「言っとくけど、あたしはちょっと手を貸しただけだからね」


 懐かしい声にはっとする。

 蝶は人型に変わり、キールの肩に降りると足を組み、得意げな顔をして座ったのだった。






 聖女ルゥラ・ブルグミュラーは、十年近く聖女としての務めを果たした。

 その後、護衛騎士と結ばれ、小さな領地を賜り、誠実に慎ましく暮らしたという。












お読みいただき、ありがとうございました!


国は違うものの、同じ世界観の異世界恋愛をいろいろ書いています。



更新情報はTwitter(@Rinca_366)にてお知らせしていきます。

本業が実用書作家なので、Twitterは小説よりも時間術・ノート術・家事術の投稿が多めです。


また、活動報告では作中のふんわり設定やレシピを書いています。



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