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少女のトラウマ

家事の腕はそれなりなんて言っていたが、こと料理の腕前に関してだけをいえば麻那のそれは非常に卓越したものだった。突然の引っ越しで疲れているだろうからと、夕食の準備を買って出てくれた麻那が用意したのはカレーライス。ただし、市販のカレールーから作ったわけではなく、完全に一から、数種類のスパイスを加えたり、小麦粉を炒めたりと、優真だったら絶対にそこまで手間をかけないだろう本格的な。

 少し気になったので途中から調理する様子を窺っていたのだが、麻那は慣れた手つきで付け合わせのスープやサラダも同時に調理する余裕があるほど。一朝一夕で身に着けられるものではないだろう、一人暮らしは2年程と語っていたが、それ以上の年季が感じられた。

 

 夕食を食べ始めると麻那は少し自信なさげな様子で、

「お味はどうでしょうか。口に合いましたか?」

 などと尋ねてきたが、優真はただただ夢中になって食べてしまい、首肯を返すだけの余裕しかなかったほどだ。店に出しても十分に通用するほどのおいしさで、一人暮らしの中で料理の大変さを身をもって知っている優真だから、これだけの味を作れるようになるためには相当苦労しただろうことは容易に察せられた。


 そんな夕食のせめてものお返しにと優真は後片付けを引き受け、ついでにお風呂のお湯も沸かしておく。一人暮らしで食後の片付けなどを普段から行なっていた優真の慣れた様子に大丈夫だと判断したのだろう、少しの間様子を覗ってから麻那は一度自分の部屋へと戻っている。


 優真が夕食の後片付けを終えたちょうどその時、お風呂が沸き上がったことを音声が流れて教えてくれた。とはいえ、何も言わずに先に入るわけにはいかない。麻那の優真に対する警戒心はあまりにもなさすぎて、周りの男どもが放っておかないだろうその美貌もあって心配にもなるが、麻那だって年頃の少女だ。男子である優真の入った風呂に入るのと、自分の入った後の風呂に優真が入るのとどちらの方が好ましくないのか、そういったことはしっかりと把握しておくべきだろう。もしどちらも好ましくないのなら、お風呂のお湯を張り直すのだってぶさかではない。

 というわけで、優真は部屋へ戻った麻那に声を掛けようと台所を出たところで、タイミングよく麻那がリビングへと戻ってくる。


「優真さん、後片付けありがとうございます」

「いや、こちらこそ、カレーすごくおいしかったよ。毎日食べたいくらいに」

「えっ! あの、それは……」


 麻那は驚いた様子であたふたとし、まるで熟した果実のように顔を真っ赤に染めていく。

 いったいどうしたのだろうと、麻那の態度を優真は不思議に感じていたが、己のセリフを振り返りようやく気づく。「君のご飯を毎日食べたい」なんて、昔はよく使われていたプロポーズの言葉ではないかと。


「ごめん、他意はないよ。純粋のそのままの意味で」

「そ、そうだよね。そういう意味で言ったわけじゃないよね。お互いのこともまだよく知らないんだし」


 お互いに慌てすぎて、麻那は素の口調に戻ってしまっているのに、優真はそのことに気づかない。優真の顔も麻那に負けず劣らず深紅に染まっていることだろう。


「でも、さすがに毎日カレーは飽きると思いますよ」

「いや、毎日でもたべられるよ。元々、何日も食べ続けられるくらいにカレーが好きなんだ」

「意外です、けっこう子どもっぽいところもあるんですね」

「日本人なら、大人でもカレー好きな人はそれなりにいると思うけどな」


 互いにさっきのことはさっさと忘れてしまおうと思っているために、何事もなかったかのように会話を続けるが、両者の顔は未だ僅かに朱が差していた。


「そういえば、お風呂が沸いたんだけど先がいい、それとも後の方がいい?」


 都合よく話題を変えてしまう口実があったことは幸いか、また蒸し返す羽目になるのを避けるためにもとりあえず麻那の料理については置いておいて、本来話そうと思っていた方へと話を持っていく。


「……お風呂、ですか」


 さきほどの話を蒸し返すことになるのは麻那とて本意ではないはず。しかし、優真が機転を利かせたつもりだった話題の展開に対し、麻那の返答には間があった。その態度はまるで後ろめたいような、何か隠していることがあるようにも見受けられる。

 少なくとも、麻那が掃除のできない人間で風呂場が目も当てられないような状態である、なんてことはない。優真だって、お風呂に湯を張る前にちゃんと一度確認しているのだから。むしろ、まるで新品同然のような清潔さを保っていたほど。


「ごめん、何かまずいこと聞いた?」

「いえ、そんなことないです。優真さんのご厚意はありがたいです。むしろ、申し訳ないというか、何というか……」


 他人には話したくない何かしらの事情があるのだろうか。だとすれば、それをあぶり出すことは優真の望むことではない。麻那との信頼関係を気づいていく必要があるとはいえ、最初からあまり踏み込みすぎるのもよくないはずだ。


「言いたくないことなら、無理に言わなくても」

「だ、大丈夫です。これから一緒に生活していくんですから、いつまでも黙っているわけにもいきません。少し、恥ずかしいけど」

「恥ずかしいっていうのは、いったい--」

「あの、優真さん、わたしがお風呂に入っている間、扉のすぐ外にいてくれないでしょうか?」

「うん?」


 


 どうしてこんなことになったのだろうか。

 現在、優真はなぜか脱衣所の扉に背中をつけて体育座りの状態で待機している。そして、中の風呂場から聞こえてくるのはシャワーから流れる水の音、麻那が現在進行形で入浴中なのだ。優真とて健全な年頃の男子で、麻那はとびきりの美少女なわけで、扉の奥の光景を全く想像しないわけでもない。これまでもその節はあったが、麻那の優真に対する警戒心のあまりのなさに今後の生活に不安さえ覚える。

 とはいえ、今のこの状況については何かしらの理由もあるのだろう。いくら警戒心が薄くとも、この状況に恥じらいを覚える程度には一般的な感性を持っているのだから。


 しばらくすると麻那の存在を何よりも優真に意識させていたシャワーの音が止み、少しばかりの静寂を置いて、決して大きな声ではないけれど、透き通るように扉を超えた麻那の不安げな声が優真の耳へと届く。


「あの、ちゃんとそこにいますか?」

「うん、言われたとおり、扉のすぐ側に待機してるよ!」

「そう、みたいですね」


 返ってきた麻那の声音からは不安げな様子が薄れてはいたが、それでも多少こわばって聞こえる。


「ねえ、もしかして、水が苦手なの?」


 優真はなんとなく、予想はしていた。

 まず、この家での家事当番を決める際に洗濯を嫌煙したこと。とはいえ、洗濯自体は水に濡れるような作業ではないし、この時点では何の確信も持ってはいなかった。だが、そのうえで風呂を苦手としているような態度を見せられれば、水周りに関する何か特別な事情があることを察することは難しくもないだろう。


「そうですね、水が、というよりも、水に浸かることが、怖いです……」


 消え入りそうな麻那のつぶやきの後にはただただ無音の時間が流れていく。シャワーの音は止んでいるけれど、麻那が風呂に浸かった音も聞こえてこない。このままでは体が冷えてしまうのではないか、優真はどうすれば麻那を安心させられるだろうかと考える。


「小さい頃、洗濯機の中に入ってしまい出られなくなったことがあるんです。それで、母はわたしに気づかず作動させてしまい、段々と迫ってくる暗い水面と服にしみる水の冷たさ、その恐怖が今でも忘れられません」

「それは、怖かったよね」

「はい。そのせいで、わたしは洗濯機そのものも苦手ですし、水に浸かることも怖いんです。お湯であれば多少はましですが、いつもはシャワーだけで済ませてしまいます」

「それじゃあ、今日はどうして?」

「せっかく優真さんが準備してくれたので。それに、お風呂が嫌いなわけじゃないですよ。わたしだって、女の子ですから」


 麻那は別に嘘をついているわけではないのだろうが、優真が罪悪感を感じないようにと配慮してくれているのだろうことは間違いない。


「知らなかったとはいえ、無理させたみたいでごめん」

「気にしないでください。臆病なわたしが悪いんです。それに、優真さんが側にいてくれるおかげで安心できます」


 その言葉とほぼ同時に、麻那がお風呂に浸かったであろうちゃぽんという水音が鳴り響く。それはたいして大きな音ではなかったはずなのに、なぜだか優真には不思議なほど響き渡ったように感じられた。


「万が一溺れたりしても、優真さんが助けてくれるでしょう?」

「それはもちろん!」

「はい、ですから、気にしないでください。いずれどこかでボロが出ていたんです、これからの生活のためにも、わたしのことを知ってもらうちょうどいい機会でした」


 洗濯の件でも何かあることは分かっていたし、一緒に生活をしていればいずれ明らかになっただろうというのは麻那の言う通りだ。しかし、無理をして苦手な風呂に浸かったり、このような恥ずかしい思いをする必要はあったのだろうか。それだけ優真のことを信用している、というにはまだ二人で過ごした時間は僅かで、どうにも違和感を感じてしまう。

 とはいえ、これだけ気を許してくれている相手に対して追求することは後ろめたい。


「そういえば、これまではどうしてきたの? 洗濯機使えないのは、不便だったんじゃない」

「それは、この建物に住んでいる友人に来てもらって。苦手克服も兼ねてお風呂なんかも、こうしてときどきは使っていました。このままではダメだって、わかってはいるんです」


 麻那の声からは申し訳なさそうな様子が感じ取られ、どうにか克服しようと努力していることは本当なのだろう。

 優真だって人のことはいえず、あの日のトラウマを未だに乗り越えられる自信がない。ゆかりには何度もそれは本当の優しさではないと、忠告されているのにもかかわらずだ。


「なるほど。それじゃあ、お風呂は今後もそれじゃダメかな。さすがに、何度もこの状況をむかえるのは、正直いたたまれない」

「ごめんなさい。ですが、ここはもうわたし一人の空間ではないですし、勝手にお招きするのは」

「うん、それは許可するから。それに友人を家に呼ぶのくらい、言ってくれればいくらでも構わないよ」

「わかりました、ありがとうございます」


 とりあえず、今後もこのような気まずい状態になることは避けられたといえるだろう。優真も年頃の男子としては少し残念な気持ちがないわけでもないが、このような状況になるたびに罪悪感を覚えるよりかは幾分もましだ。


 その後は他愛もない話を続けること10分ほど、麻那に不安を感じさせないためにもできる限り沈黙を作らないようにと優真はお風呂に入ってもいないのにかかわらず熱が出そうなほど頭を回転させ続けた。

 時間にすればわずか10分、経過した以上に長い時に感じらえたのは優真がふだんあまり長話をしないためか、それとも扉を挟んで向こう側に同じ年の少女が生まれたままの姿でいるという事実に緊張していたためなのか。


「お待たせしました。そろそろ出ますね」


 その言葉と同時にお風呂から水が溢れ流れ出す音が優真の耳に届く。

 一般的な男子と比べれば長くもなく短くもなくといった入浴時間だが、年頃の少女としては比較的短い入浴時間だろう。ふだんはシャワーで済ませることが多いと話していたし、入浴にあまり慣れてはいないのではないか。


 すでに麻那は風呂から上がったのだから、ここにいる意味はもうないのではないか、優真がそのことに気づいたときには扉の向こうから衣擦れの音が僅かに漏れ聞こえてきて、言い出すタイミングを完全に逃してしまう。

 だからといって、いくら警戒心が薄くとも羞恥心はちゃんと持っている麻那があられもないような姿で扉の向こうから出てくるということないはずだ。優真はできる限り煩悩を払おうと、無心を意識して扉の前で待機する。


 しばらくして衣擦れの音が止むと、カラカラと扉がレールを転がる音とともに座り込んでいた優真に影がかかる。その影を作り出しているだろう方へと優真はゆっくりと視線を動かし、その目に映り込んだのは黒い影とは対照的な、白銀の御髪。さきほどまで風呂に入っていたからだろう、水に濡れてしっとりした様子のそれは、優雅に舞う白鳥の羽を思わせる。まだ乾かしていないのは、優真を待たせているため後回しにしたためだろうか。


「その、髪は……」


 優真はその髪色に見覚えがあった。

 優真の父が亡くなったとされるあの海で出会った、まるで天使のような少女。見覚えがある顔だとは思っていたが、髪色ばかりが印象に残っていて気づけなかった。

 ついさっきまでは濡羽を思わせた麻那の髪が、今は白い輝きを放っている。

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