共同生活の始まり
『ハイエンパス』、他者と感情を共有することの出来る特異な少女たちの総称。
彼女たちは相互性特異共感症候群(Mutuality AbNormal Empathy Syndrome)、通称MANESと呼ばれる精神疾患を患ったことにより特定の感情に対してのみ他者と共有してしまうようになったという。この精神疾患が特異とされる所以、それは他者の感情を己のものとして感じてしまう一般的な共感とは違い、彼女たちがその特定の感情を抱けばそれが周りの人間を共感させてしまうという点にある。
また、この精神疾患は現在のところ湊渡市周辺でしか確認されていないらしく、その危険性ゆえに悪用を防ぐため公にはその存在さえ知られていない。
「特別待遇で奮発したとは聞いてたけど」
優真が見上げているのは湊渡市で最も高いとされる建築物、高層マンション『湊渡スカイタワー』、その高さはおおよそ100メートルを超えているというのだから驚きだ。
どうして優真がこのような場所に立っているのかといえば、ゆかりから頼まれたハイエンパスの少女、桜恵麻那、彼女を救うにあたってはまず仲を深める必要がありそれには一緒に生活を送るのが一番だということで、その生活場所として提供されたのがこのマンションだったから。しかも、最上階である30階の一室というのだから、いくら何でも特別待遇が過ぎるのではないかと、最初はいつもの冗談だと思って聞いていたのだが、嘘ではなかった。
「ゆかりさんって何者なんだよ」
身柄保護の目的で桜恵麻那以外の他のハイエンパスの少女たちもその大半はこの高層マンションで暮らしているという話なので、ゆかり個人というよりも所属している組織の力によるものなのだろうけれど。
優真はゆかりがまともに仕事をしている姿を見たことはなく、会えばいつものログハウスで世間話なんかを交わすばかり、いったいどのような組織なのかは見当もつかない。そんなゆかりが本当にこんなすごい組織の一員であるとはとても信じられない思いだった。
マンション入り口の自動ドアをくぐり、優真はゆかりから渡されていた鍵を使ってエントランスを通り抜ける。
「本当に、これからここで生活するんだな」
渡された鍵でちゃんとマンションに入れることを確認し、優真にはようやく実感がわいてくる。
目指すのはマンションの最上階、階段なんかで登っていたらいつになるかわからない。優真はエレベータに乗り込んで「30」と書かれたボタンを軽く押す。ボタンが淡い光を放つとエレベーターの扉は閉まり、軽い衝撃を合図に動き始めるが浮遊感などは一切感じられない、かなり質がいいのが窺えた。
さすがに高層マンションの最上階、辿り着くまでには少々時間がかかる。エレベーターの中で優真はこれからの生活について考えていた。
「そもそも、年頃の男女が一緒に生活って、大丈夫なのか」
何よりも不安を感じているのはその一点だ。ゆかりの優真に対する信頼の証ともいえるのかもしれないが、もし何か問題が起きたらどうするつもりなのだろうか。もちろん、その信頼を裏切るわけにもいかないし、優真にはそんな気などこれっぽちもないけれど。
一つ屋根の下、正確にはここはマンションなので同じ部屋というべきか、それに何か意味があるのだろうか、そんなことも考えてしまう。
もし、件の少女、桜恵麻那が嫌がるようであればどうにかしてもらえるように掛け合うつもりだが、ハイエンパスの保護を目的としているらしいゆかりたちがそもそも彼女たちが嫌がるようなことをするとは思えないので、この件はすでに了承済みなのかもしれない。
チンッ、という音でエレベータが目的の階に到着したことを知らせる。
ゆっくりと開いていく扉から廊下に足を踏み出した優真は、目の前に広がった景色に圧倒された。湊渡市で最も高いというのは伊達ではない、窓の外には湊渡市全体が見渡せるのはもちろん、その先には海が広がっており、水平線の先まで見渡せそうだ。あのログハウスとはまだ違った風情のある、それに勝るとも劣らない絶景だった。
本当にこれからこんな場所で暮らしていくのかと、これまで築30年を超えるアパートで生活してきた優真の場違い感がとんでもない。
そんな絶景に目を奪われていたために、優真はエレベーターから少し離れた位置に立つ1人の少女に気づかなかった。
「あなたが、上杉優真さん?」
声を掛けられて初めて、その存在を優真は認識する。
背中の半分あたりまで伸びた濡羽を思わせる黒い髪と、人間離れしているのではないかと思わせるほどに整った容姿、だけどどこかで見た覚えのある1人の少女がそこには立っていた。
「そうだけど、君が桜恵麻那さんでいいのかな?」
少女はこくりと頷くと、薄らと笑顔を浮かべて返事をする。
「はい、わたしが桜恵麻那です。よろしくお願いします」
だけど、どこかその笑顔は儚げで、ハイエンパスと呼ばれる特異な少女、その姿は繊細で簡単に折れてしまいそうな、そんな普通の女の子だった。
麻那に案内されて、優真は湊渡スカイタワー最上階の一室にお邪魔する。これからはここで生活することになるので、お邪魔するといのは少し違うのかもしれないが、初めて訪れる優真にとってはそんな気分だった。
「ほんと、ちゃっかりしてるよなー」
「どういうことですか?」
「いや、こっちの話」
麻那が優真を最初に連れてきたのはこれから優真の自室となる1部屋。このマンションの最上階には計4つの部屋があり、間取りは基本的にどれも同じの3LDK、麻那と優真がそれぞれ自分専用の部屋を持ってもあまりある。そういう意味では、男女での共同生活というハードルも多少は下がるというものだ。
そして、優真の部屋とされたこの部屋には、なぜかこれまで優真が生活していたアパートの私物が綺麗に整頓されて運び込まれていた。
優真がゆかりからの頼み事を引き受けることを決め、その後多少話を聞いたり一緒に昼食を取ったりはしたけれど、ここに来るまで要した時間は3時間もない。その僅かな時間でこのような芸当が出来るとは到底考えられず、引っ越しはこっちでやっておくとは言っていたけれど、優真が引き受けることを見越し、ゆかりの元へ向かうために優真が家を出てすぐ準備に取りかかっていたらしい。もし断ったりしたらどうするつもりだったのか。
「では、荷物を置いたらリビングに来てもらえますか。これからの生活について、いろいろと話もありますので」
「うん、すぐに行くよ」
麻那は先に部屋を出て行き、優真だけが残される。
荷物とは言っても、ゆかりのところへ行くだけのつもりだったのでナップザック一つだけ、大したものではない。それを机の脇に掛けて、念のために大事なものだけはちゃんとあるかを確認しておく。もちろん、盗まれたなどと思っているわけではなく、万が一落としたりしていないかと考えてだ。
特に問題がないことを確認して、優真は麻那の後を追うようにリビングへと向かう。
「これ、よかったらどうぞ」
リビングに入った優真に麻那は飲み物の注がれたグラスを差し出してきた。中身はきれいな黄緑色で少しばかり刺激的な香りが漂う、優真は飲んだことがないけれどミントティーというやつだろう。口にしてみると、スッとした刺激の中に僅かな砂糖の甘みがあり、非常に飲みやすく出来ている。
「気に入りましたか、実はわたしが育てたものなんですが」
「これを、君が……」
よく部屋中を見渡してみると、所々に植物が置かれている。その数はおおよそで30ほどあるだろうか、ちょうどきれいな花を咲かせているものもあり、部屋をとても鮮やかに彩っていた。麻那の整った容姿はまるで天使のようで、ここがどこかの楽園かのように思わせられてしまう。ちょうど、下界を見下ろせるような立地であることも相まって。
「あ、もし邪魔なようであれば言ってください、わたしの部屋にもまだ空きはありますので」
「いや、このままで大丈夫だよ。正直、僕はこういうの気が利かないから、やってもらえると助かる」
「そう言ってもらえると、こちらこそ助かります。単なるわたしの趣味みたいなものなので」
麻那からもらったミントティーを飲みほして、そろそろ本題に入る。
「それで、これからの生活についての話だけど」
「はい、とりあえずどこに何があるのかをお教えしておきますね。まず、台所はこちらで……」
麻那からトイレやお風呂の場所、洗濯機や掃除機などの家電の置き場所や使い方を一通り教わっていく。麻那に警戒した様子はなく、丁寧に一つ一つ説明をしてくれた。普通は見ず知らずの男子と二人きりなんて、嫌でも緊張する場面ではないかと思うのだが、そういった態度は全くといっていいほど感じられなかった。
「これで、基本的なところは全てですね。それから、簡単に生活のルールも決めておこうと思うのですが」
「そうだね、食事とか掃除とか洗濯とか、その辺のことはちゃんと決めておかないと」
特に洗濯やお風呂についてはしっかりと決めておかないと、男女での共同生活なんてトラブルがいつ起きたっておかしくない。
「はい。それで、上杉さんは火事の腕に自信は?」
「まあ、一通りは出来るかな。小さい頃母さんが亡くなったのもあって、それなりに家事はこなしてきたからさ」
ハッとした表情を浮かべ、麻那は優真に対して深く頭を上げる。
「すみません、配慮が足りなくて」
「いや、君が気にするようなことじゃないよ、知らなかったんだし。むしろ、僕の方が」
麻那は話の流れとして何もおかしなことは聞いていない。むしろ、優真が余計な一言を加えなければよかっただけの話だ。麻那は異常なほどに気に病んでいるように見受けられ、優真が思っている以上に繊細に扱わなければいけないかもしれない。
「ですが――」
「もう、この話はおしまいにしよう。これじゃあ、いつまで経っても決まらないよ」
「そう、ですね。はい」
「それで、桜恵さんは火事の腕前はどう?」
「わたしもそれなりには、ここでの1人暮らしもかれこれ2年にはなりますし」
「それなら、料理と掃除は交代制でいいかな。洗濯はそれぞれの方が――」
「いえ、洗濯はお願いしてもいいですか。その代わりに、掃除はわたしがやりますから」
「いや、でも……」
いくら頼まれても、さすがにそれはまずいのではないか。年頃の女子ならば同い年の男子には見られたくないようなものもあるだろうし。
そのことには麻那も遅れて気がついたのだろう、顔を熟れたかのように真っ赤に染めてあわあわとし始める。優真に対する警戒心があまりにも薄いので心配していたが、さすがに年頃の少女らしい羞恥心はちゃんと持ち合わせているようで、少し安心した。
「も、もちろん、下着なんかは自分で手洗いしますので」
「まあ、それなら」
そこまで言われたら、さすがに嫌とはいえない。何か特別な事情でもあるのだろう。だからといって、今この場で無理に聞き出すほど優真も野暮ではない。
「それじゃあ、これで決まりでいいですかね。それと、今日の夕ご飯はわたしが用意しますから、あなたはこちらに来たばかりで気疲れもあるでしょうし」
「それは、お言葉に甘えさせてもらおうかな。でも、その前に一つ」
「何でしょうか?」
「お互いの呼び方のことなんだけど、名前でもいいかな。ほら、これから一緒に生活するのに名字で呼び合うのもなんか他人行儀な気がするし」
もちろん、それは建前で、ゆかりからは麻那と仲良くなるように頼まれているのでお互いの距離を少しでも縮められたらというのが優真の意図だ。
天涯孤独の身となり一時は周りから距離を置いていたこともある優真だが、別にコミュ障というわけではない。その気になればそれなりにコミュニケーションは取れるし、数は少ないながら互いに冗談を言い合えるような友人だっている。
麻那の方は共同生活に不満があるようには感じられないが、どこか距離を取っているような様子で、ここは優真の方から積極的にいくべきだとも考えていた。
「それは、別に構いませんけど」
「それならよかった。じゃあ、これからよろしく、麻那」
麻那はきょとんとした様子でその場に立ち尽くす。
さすがに、いきなり呼び捨ては急ぎすぎだったのだろうか。
「もしかして、嫌だったか?」
「い、いえ、そういうわけでは。少し驚いただけで、以外とアグレッシブな方なんだなと」
「ああ、それよく言われるよ。大人しそうに見えるのに以外だって」
「そうなんですね。では、こちらこそよろしくお願いします、優真さん」
――こうして、僕と麻那の共同生活は始まった――