恩人からの依頼
「やあ、高校入学おめでとう!」
「はい、その節はお世話になりました」
「気にしなくていいよ、こっちもボランティアでやっているわけじゃないからね。それに、君に責められる筋合いはあっても、感謝されるようなことじゃないよ」
優真が現在訪れているのは町中から少し離れた山の小道、その先に進むと見えてくる小さなログハウスだった。自分たちの暮らす湊渡市が一望できる高台に建つこのログハウスから見える景色を、優真は何よりも気に入っている。
そんなへんぴな場所で暮らす一人の女性、梅郷ゆかり。彼女とは亡くなった優真の兄、裕隆を通して知り合った。ゆかりは家族全てを失い天涯孤独の身となった優真のことを、誰よりも気にかけてくれる人の一人だ。そんなゆかりを、優真は実の姉のように慕っている。
「ゆかりさんは、何も悪くありませんよ。あれは、兄さんの自業自得です。」
「それでも、わたしはゆたかを止められなかった……」
今からおよそ2年前、あこがれだった兄、裕隆の死、それが全ての始まりだった。そして、頼まれていたはずなのに、妹の唯奈を守れなかった、死なせてしまった。さらに、父を死に追いやってしまったかもしれないという自責の念、自分はこのままのうのうと生きていてもいいのだろうかと、そんな思いを何度抱いたことだろうか。そんなときに優真を救ってくれたのが、ゆかりだった。
優真がゆかりと初めて会ったのは裕隆の葬式の席、裕隆の職場の同僚だったゆかりは裕隆の死に対して誰よりも責任を感じているようだった。優真の父に何度も何度も頭を下げていた姿がよく印象に残っている。
それから父が亡くなるまでの1年ほどの間は一切の交流もなく、次に出会ったのは父が死んですぐのこと、優真が自暴自棄に陥っていた頃のことだ。父の葬式を終えたところに突然現われたゆかり、彼女は優真を力強く抱きしめてきた。優しさを感じさせる人肌の温もり、それが優真に生を強く意識させ、なぜか涙が溢れてきたことは記憶に懐かしい。
そしてゆかりは優真の目を真っ直ぐ見ると、忘れられない一言をくれた。
――生きるのを、諦めないで――
その言葉で優真は自分が死にたいわけではないと、生きていることが後ろめたくて、辛くて、苦しくて、だから生から逃げようとしていたのだと、死を逃げ場所にしようとしていたのだと、そう気がつくことが出来たのだ。
ある意味では、命の恩人ともいえるかもしれない。
さらに、今回の高校入学に際しても不在の保護者に代わって手続きをしてくれたりと、こうして優真が普通の生活を送れているのもゆかりの存在があってこそで、いくら感謝してもし足りないだろう。
しかし、ゆかりがこうして優真を気にかけてくれることには裕隆の死に対する後ろめたさもあるからなのだろう。また業務上、裕隆の死に関して優真は詳細な事情を知らされてはいないこともあって、ゆかりは余計気に病んでいるのだが、少なくとも優真は裕隆の死に対して彼女を責めるつもりは毛頭なかった。どのような結果として裕隆が死に至ったのか優真は知り得ないが、亡くなる前日のことだけはよく覚えているから。
あの日の裕隆はいつもとどこか雰囲気が異なった、何だか気が立っているような、落ち着かないといったようなそんな感じだ。けれど、そのことを互いに口にすることはなく、寝床につく直前、最後となる言葉を交わした。
「次の仕事が終わったら、お前に会わせたい人がいるんだ」
「兄さんがそんな話をするなんて珍しいね。突然、どうしたの?」
「次の仕事がかなり大変みたいで、覚悟決めようと思ったんだ。悪いな」
「兄さん……」
「そんな心配そうな顔すんなよ。お前にとって俺は正義の味方なんだろ。唯奈のこと、頼んだぞ!」
裕隆は危険であることを理解していたはずだ。それでも己の意思で挑むことを決めたのだから、その死の責任は本人以外の誰にもない。昔から裕隆は変わらない、己の危険を顧みず、見ず知らずの誰かのために命をかけることの出来るバカなヤツ。そんな裕隆が、優真にとっては憧れた正義の味方だった。いつか自分もそんなふうになりたいと、心の底から思っていた。
だけど、今は少し違う。大切な家族の死を経験して、優真は己の命が自分だけのものではないのだということを意識するようになった。見ず知らずの誰かのために命をかける、そんなのは正しい行いなどではないと、本当に命をかけるなら誰よりも大切な人のため、だけど本当に大切な人のことを思うなら、自分自身の命を何よりも大切にするべきだと、優真はそう考えられる。だから、裕隆は愚かで、そしてバカなヤツだったと、何度でも言ってやる。
ゆかりはそっと目を伏せて、その表情は隠そうとしても隠しきれないほど悲しそうに見えた。そんなゆかりの左手にさっと目を向けると、その薬指には一筋の跡。
仕事で何日も家を空けることも多かった裕隆だが、部屋を共同で使っていた優真は家族の中で比較的話をする機会が多かったといえる。だから、裕隆が大事そうに持って帰ってきたこと小箱があることを知っていたし、それが大切の人へのプレゼントだということも聞かされた。恥ずかしいからと、その中身を直接見せてはもらえなかったが、何が入っていたのかはなんとなく想像がつく。
優真たち家族の手前、葬式の最中でゆかりが涙を見せることはなかったけれど、きっと誰よりも悲しんでいたのは彼女だろう。
裕隆は端から見れば正義の味方といえる人間だったのだろうが、身ず知らずの誰かのためなどではなく、一番大切だった人のためにも命を大事にするべきだったのだ。
「それより、今日はいったいどんな用件ですか?」
特に理由もなくこの場所を訪れることも少なくない優真だが、今日はお礼を伝えることはもちろん、それ以外にもゆかりの元を訪ねた理由があった。その理由は裕隆の話をして喪に服すというようなことではなく、これ以上暗い雰囲気になることは優真も望まない。だから、話題を逸らすためにも話を進めることにした。
「ごめんね、わざわざ呼び出しておいてこんな空気にしちゃって。うん、そろそろ本題に入ろうか、電話でも伝えたとおり、実はゆうま君に頼み事があってさ、少し長い話になるんだけど聞いてくれるかな。もちろん、どうするかは話を聞いてから決めてもらえばいいし、強制ではないからね」
「ゆかりさんからの頼み事なんて初めてですし、お世話になってる分はしっかり協力するつもりですよ」
「もう、それは気にしなくていいって言ってるのに」
ゆかりは怒っているというよりもどこか呆れている様子で、肩をすくめてため息をつく。しかし、これは優真の性分みたいなもので、常に感謝を忘れないようにと幼い頃から父親に言い聞かせられてきた。それは兄の裕隆も一緒で、ゆかりからは似た者兄弟だとよくいわれる。
「ゆうま君ももう高校生、そろそろ知ってもいい頃だろうけど、この話をする前に一つだけ約束をして欲しい」
「どういうことですか?」
「うん、今回の頼み事はね、ゆたかのやっていた仕事と深い関わりがあるんだよ。いや、その延長といってもいいかもしれないね」
「兄さんの仕事……」
これまで詳細を知らされてこなかった裕隆の仕事とその結果の死、それが明かされるのかと思うと優真の胸は高鳴らずにいられない。
「約束とはいってもそんな大層なものじゃない。ただ、この頼み事を通して知ったことを許可なく外部に漏らさないこと、ただそれだけだよ」
「わかりました、内密にってことですね」
「その通り。あ、でも、別に悪いことをするわけじゃないよ」
「それは言われなくてもわかってますよ」
ゆかりが優真を悪行に関わらせるような人間でないことは知っている。そもそも、あの裕隆が命をかけてでも成し遂げようとしたことなのだ、他人を傷つけるようなことでないのは間違いないと、優真にはそれだけで信じられる。
「ひとつだけ、聞いてもいいですか?」
「うん、なんでも聞いてよ」
「どうして、僕なんですか?」
優真は自信に人より優れたところがあるなどと思ったことは一度としてない。裕隆のことをバカなヤツだったと思ってはいるけれど、それ以上に見ず知らずの誰かを救ってきた兄のことを優真は今でも尊敬している。そして、自分にはそんな兄の代わりが務まるとはとても思えなかった。優真はたかが一高校生に過ぎず、特別な力なんて持っていないはずだ、少なくとも優真自身が知る限りでは。
だから、わからなかった、どうしてゆかりは優真に裕隆の後を託そうとしているのか、自分にそんな資格があるのか。
「君を見ているとね、ゆたかのことを思い出すんだ。もちろん、兄弟だから容姿が似ているのもあるんだけどね、彼ならきっとやってくれるって、なぜだかそんな確信めいた雰囲気があるような、そんな気がする。だからさ、君と再会した一年前からこうするつもりだったんだよ。これじゃあ、理由にならないかな?」
「僕は、そんな大層な人間じゃありませんよ。兄さんと比べたら、なんてことない。ゆかりさんがそう思うのは、僕に兄さんの面影を重ねているからです」
「そんなこと言うと、わたしでも怒るよ!」
目を伏せて答える優真の顔を両手で掴み、ゆかりは己の瞳に優真の視線を向けさせる。
「わたしはゆうま君とゆたかを比べたことなんて一度もない。ゆうま君はゆうま君で、ゆたかはゆたかだ。君にゆたかと同じ事が出来るなんて望んじゃいないよ、君が君のやり方でなら成し遂げられるって、ただそう信じているだけ」
「ゆかりさん……」
「お願いだから、自分を卑下しないで。君が君の価値を信じてあげられなかったら、いったい誰がその価値を信じてくれるっていうの」
本当に、優真はゆかりから教えられてばかりだ。
自分だけが残ってしまったことを、今でも後悔していないわけではない。父や兄は優真なんかよりもよっぽど立派で、自分なんかよりも生きていくのがふさわしかったはずだと。だけど、優真が死んだところで彼らが帰ってくるわけでもなく、だから優真は生きていくことを選んだ。
――もし、兄さんの遣り残したことを自身の手でやり遂げられたなら、生きている意味があったと自分の価値を信じて、少しでも自分に優しくなれるだろうか――
「すみませんでした。やらせてください、兄さんの遣り残したこと、その続きを」
「本当に君は。前にも言ったよね、君の誰にでも優しいというのは美徳だけど、それは己を低く見ているから。ダメな自分はせめて誰かのためにならないといけない、それが君の根底にある考え方。でもね、それは本当の優しさじゃない」
「そう、でしたね」
「ゆうま君が自分にも優しくなれたなら、それは本当の意味で、きっと今よりもっと優しくなれる。大切な人の死を知っているゆうま君なら、だれより自分に優しくなれるはずなんだから。少なくともわたしは、そう信じているんだよ」
まるで実の母親でもあるかのように諭してくれるゆかりを見て、やはりこの人には敵わないなと、優真はそう思わされてしまう。
ゆかりは彼女なりに亡くなった裕隆の代わりとして、優真に姉のよう接してくれているのだろう。それはゆかりにとって償いのつもりかもしれないし、もしかするとどこかで本来あり得たはずの、今はもう決して実現しない、そんな光景を思い浮かべているのかもしれない。
こうしてそれを感じている優真からすれば、本当に裕隆なんかにはもったいない人だと思う。そして、そんな人に大切に思われていた兄を羨ましく思ってしまう。
「さて、ゆうま君にやってもらいたいことなんだけど、1人の女の子を救ってあげて欲しいんだ」
「それは、どういう意味でしょうか?」
救うとはいっても、物理的になのかそれとも精神的になのか、それによっても内容は大きく異なる。とはいえ、物理的に救うというのはどう考えても優真には荷が勝ちすぎているし、おそらくは後者の方になるのだろうが。
それにしても、1人の女の子を救うというのは、言葉だけを聞けばなかなかに大層なことに思われる。本当に自分に出来るのだろうかと、そんな不安が優真の心をよぎるが、ここで諦めていたらきっといつになっても変われない。出来る出来ないじゃなく、自分なりにやればいいんだと、優真は自身の心に言い聞かせた。
「端的に言うと、その子と仲良くなってあげて欲しい、ってことになるのかな。ゆうま君とは同い年だし、気が合うと思うんだ。あ、もちろん、恋愛的な意味ではなく、家族としてっていう意味でだから、気楽な気持ちで臨んでもらってかまわないよ。まあ、ゆうま君にはいずれ、本当に好きになった人を紹介してもらうつもりだからさ」
「それでも十分ハードル高い気がしますけど。ていうか、どうして恋人が出来たらゆかりさんに紹介しないといけないんですか」
「だって、他に紹介する相手なんていないでしょ?」
「それは、否定しませんけど」
天涯孤独の身となった優真にはゆかり以上に親密な付き合いをしている相手はいない。中学からの友人と多少の付き合いがあるくらいだ。
「ま、その話は置いておいて」
「先に言い出したのは、ゆかりさんですよね」
「君に救って欲しい子のことになるけど」
ある種のスキンシップみたいなものだとは思うのだけれど、ゆかりは都合の悪いことに関してまるでなかったかのように聞き流すことがままある。優真は別に嫌いに思ったことはないが、ゆかりにはそんな少し子どもっぽいところがあった。
――こういうとこ、本当に兄さんと気が合いそうだよな――
「あの子はね、とても優しいところがゆうま君とはよく似ている、そしてどこか危うげなところも。そしてわたしは、あの子の優しさに救われた。わたしにとっては恩人なんだよ」
「ゆかりさんの、恩人……」
「そう。覚えているかな、一年前の再開したあの日、わたしがゆうま君に掛けた言葉」
「ええ、一秒だって忘れたことはありません」
――生きることを、諦めないで――
その一言が、優真に生きる勇気をくれた。
「あの言葉はね、わたしがあの子からもらったものなんだ。ゆたかが死んで、どうにかなりそうだったわたしを、あの子が救ってくれたんだ。だからいま、わたしはこうして君の前にいられる」
「それじゃあ、僕にとっても恩人ってことになりますね」
「ちょっとはやる気出てきたかな?」
ゆかりにもそんな時期があったというのは、少し意外だった。優真からすればゆかりは兄と同じ尊敬できる人で、そんな弱さとは無縁だと思っていたから。だけど、彼女だって一人の人間で、優真と同じように大切な人を失えば悲しみだってするし、辛い気持ちにだってなる、そんなのは当たり前のことだ。
「あの子の名前は桜恵麻那。彼女は死を望む気持ちを他人と共有できる、ハイエンパスと呼ばれる少女の1人なんだ」