出会い
--なぜ、人は死を選ぶのだろうか--
目の前に広がるのはどこまでも広がる濃紺の海原、眼下にそびえ立つ岩肌の下では絶えることなく荒波がたたきつけられる。この岬から身を投げ出せば、きっと生きて帰ることはないだろうと、死を身近に感じさせるこの景色を見るたびに、上杉優真はそんなことを考えてしまう。
ここは地元で有名な自殺の名所であり、「死神の住処」なんて呼ばれていたりする。小耳に挟んだ噂によると、この場所には死神が現われるそうで、出会ってしまった者は自ら身を投げてしまうらしい。もちろん、そんなのは単なる迷信で、自殺の名所として知られるこの場所に人が近づかないようにするために考えられたのではないか。
それでも、この場所で命を絶つ者が後を絶たないというのだから、噂はあまり意味を成していないのだろう。
かくいう優真の父もこの場所で亡くなっている、ちょうど1年前のこの日に。
聞かされた話では崖を囲うように張り巡らされた転落防止の柵が老朽化によって壊れたことが原因の不運な事故死だったということだが、本当に事故死だったのだろうかと、今でも疑問を抱いている。なぜなら、父が自ら死を選んだ可能性があることを、優真だけは知っているから……
「…………」
そんなこの場所には滅多に人が訪れることはないのだが、今日は違った。
断崖絶壁がそびえる岬の先端部、転落防止の柵に左手をついて右手は潮の香りを乗せて吹きつける海風になびく髪を押さえる1人の少女、年齢は優真とそれほど変わらなさそうだ。特徴的なのは少女の髪、首が隠れる程度に伸びたそれは絹麻のような光沢をもつ白金の髪で、光の当たり方しだいでは淡く輝き宝石のようにも見える。
柵から崖の縁までの距離は1mもなく、少女が一歩でも前に踏み出せばあらゆるものを呑み込んでいってしまいそうな濃紺の荒波の中に、その姿を消してしまうことは間違いない。
このような場所へとやって来る理由など限られており、普段であればすぐにでも声を掛けて止めなければいけない、そんなことはわかりきっているはずなのに、少女のもつどこか神秘的な雰囲気、声をあげることによってその雰囲気が霧散してしまうのではないかと思うと、躊躇われる。
それに、横から見た少女の容姿は本当に同じ人間なのだろうかと疑いたくなるほど整っており、まるで空から降りてきた天使のようなその少女は、たとえその場から前に一歩踏み出したとしても濃紺の海へと落ちることはなく、そのまま群青の空へと昇っていくのではと、そんなありもしないことさえ考えてしまう。
じっと見つめ続ける優真に、少女はまるで気づかない。
一瞬も逸らすことのないその視線の先に広がるのは濃紺の海原と僅かに雲の浮かぶ群青の空、少女の瞳にはいったい何が映っているのだろうか。その景色を前にして、少女は何を思っているのだろうか。それはきっと、少女にしか知りえないことだ。
そんな少女の姿はまるで映画のワンシーンを切り取ったかのようで、時間を忘れて見ていられた。
いったいどれほどの時間が経っただろうか、ようやく少女がその視線を移したかと思ったらこちらへ振り返り、琥珀色のその瞳と目が合ってしまう。
優真の視線に気づいて振り向いたのだろうか、それにしては少女の顔に浮かぶ驚きの表情は真に迫るものだ。いつまでも海や空を眺めているわけにもいくまい、たまたま視線を向けた先に優真がいたというだけの可能性もある。
「……やぁ」
2人以外他には誰もいない状況とはいえ、不審者だと認知されてしまうことは非常に好ましくない。
こちらに害意がないことを精一杯伝えようと、シャボン玉を手に取るかのようにできる限り優しく声を掛けた、息をのむほどに端麗な少女、彼女が放つ神秘的な雰囲気の中にどこか憂いを感じられたから。少しでも雑に扱えば、いとも容易く割れてしまいそうだ。
「……どうも」
驚きから復帰した少女は表情を整え、少し遅れて声を返してくる。
少女は微笑むでもなく、変わらないその表情はどこか他人行儀な様子。優真と少女は知り合いというわけでもなく初対面の間柄で、何もおかしくはないそれがごく自然な反応だろう。ただ、どこかほっとしているようにも見えるのは気のせいだろうか。
その端整な顔立ちを考えれば知らない男から声を掛けられることには慣れており、あしらい方もよく心得ているかもしれない。その割に警戒心を抱いているようには見えず、なんというか箱入りの令嬢のような、そんな印象も抱かせる。
けれど、2人の間にそれ以上の言葉はなく、気づけば少女は僕の横をすり抜けて、岬から去って行くその後ろ姿だけが僕の視界には残された。そしてその背中も次第に遠ざかっていき、やがてその姿は見えなくなる。
「よかった、のかな?」
どうやら、少女がこの場所から身を投げ出してしまうという最悪の事態は回避できたらしい。元から死ぬつもりなんてなかったのかもしれないし、表情には出さなかったが死ぬのが怖くなって諦めたのかもしれない。それとも、優真が存在したために今この場で行動に移すことを躊躇っただけなのだろうか。
だとすれば、彼女は再び……
少女の容姿や特徴的な髪が一切関係ないといえば嘘になるかもしれないが、どこか儚げな雰囲気を纏う少女のことを、どうにも忘れられそうにない。
--彼女は何を思いながら、ここに立っていたんだろう--
これが優真と、まだ名も知らない死神との、初めての出会いだった。