序章 灰白色の城塞都市、ノイスカステル 6
もはや、女神ルミナスさまの恩寵である太陽の光もどこへいったのやら。
どっぷりと日が暮れた後、ようやくにしてギルドが勧めてくれた安宿に部屋を借りることが出来た。リーベレッテが十の指を使った、神官らしい説教で、マイトを引き剥がしたおかげである。
訓練生向きの安宿の一つや二つ、ギルドは把握しているだろうと思いきや、ギルドは十や二十を把握しており、訓練学校にほど近く、予算の折り合いもつきそうな素泊まりの簡易宿所を勧められた。
一人一泊100ギルム。他の街と比較してすら安いことにカールは驚いた。
併設された食堂は、味はともかくとして量が多くマイトを大いに喜ばせた。
清潔な敷き布がピンと張られた寝台は、リーベレッテのお気に入りである。
どれもこれも冒険者ギルドが直接運営しているからこその価格、量、そして質であった。共同の水道とトイレも付いた新米冒険者や訓練生を応援するための宿であり、関係者以外は御断りの宿なのであった。
なぜ、この季節に空室があるのかとカールは訝しんだのだが、その答えは簡単に出てしまった。
冒険者ギルドは、尋ねない者には何も答えない。自力で宿を探すというなら、それも一つの冒険である。カールは他者よりも少しだけ上手に立ち回った。これは、その御褒美である。
すこし穿った見方をするならば、これもまた試験の一部であった。
尋ねる者、調べる者、努力を惜しまぬ者には暖かい説明で応える。
尋ねぬ者、調べぬ者、努力を怠った者には冷たい眼差しで応える。
さらに悪い口調で表現するならば、使えそうな人間のみを優遇する。それが、冒険者ギルドの指針であるらしい。
冒険者は遊びではなく仕事である。そして冒険者ギルドもまた商売である。ギルムという冷たい血が流れる場所に、暖かく優しい感情を求めることは諦めた方が良い。
同情とは、血を垂れ流すに等しい行為であった。
神殿に寄進することが、命を削る行為であった。
雪解けの春を迎えて数えの十五、ノルデン王国では成人とされる歳であったが、世の中について何も知らない子供であることに、心胆が冷えた。
父や母に守られていた家族の温もりは既に遠い過去。一つ間違えば奈落の底に落ちてしまう、そんな身の上になったのだと、カールは再度自覚した。
より上手に振る舞わなければ、より巧みに生きなければ、より……人を出し抜かなければ。
もうここは、灰白色の石壁に囲まれた、城塞都市ノイスカステルだった。
山間の名も無き村の家族は遠い彼方。親戚と呼べる親戚も、知人と呼べる知人も居ない。
そうして、女性神官セシリアの真意をようやく知ることになった。「どうにもならなくなったら、この神殿へいらっしゃい」と、言葉の外で優しく告げてくれていたのだ。
少しくらいギルムを寄進しておくべきだったかと思いながら、そうすれば、きっと彼女は困った顔をしたことだろうと、カールは思いなおした。
そんな心優しい彼女と、目の前の神官さまを、どうしても見比べてしまう。
宿屋の神殿では、「無理やり買わされた聖書」を片手に、新米神官リーベレッテさまが聖書の朗読会を開いていた。
聖書を持たない神官さまと言うのもどうかと思ったが、聖書を読めない神官さまは、もっとどうかとカールは思った。
聖書の記述には古めかしい言葉遣いが多いため、ちょっとばかり読み書きが出来る程度では手強い難物なのである。
「第一章、第一節。光明の女神ルミナスと暗黒の女神ノワールが天上で戯れていました。ルミナスとノワールの双子の姉妹が仲良く踊り始めると……大きなお父さんの時計が動きました?」
「大いなる日々が始まりました」
「…………大いなる日々が始まりました。屋根の上で回転する姉妹はやがて目覚めと眠り、その間に子供の姉妹が始まります?」
「大いなる日々が始まりました。天上のロンドを踊る姉妹。やがてそれは昼と夜の時を、その間には朝と夕なる時が生まれます。春、夏、秋、冬。四つの季節の巡りと共に、誕生と死が生まれたのでした。春は目覚めと誕生を、夏は行動と成長を、秋は結実と老いを、冬は眠りと死を育みました。そんな大いなる日々のなか、姉妹の手がほどけてしまったのです。第一章、第二節……痛いっ!!」
信徒が神官さまに説教してはならないものらしい。
神官さまに聖書の角で叩かれ、ブスッとした顔でむくれられた。
「信徒カールよ、わたしがこの聖書をいくらだして買わされたと思うのかなっ?」
「確か神官割引が利くから一万ギルムが八千ギルム。そんなに小さな本なのに、この宿に八十日も泊まれるなんて凄いよね。さらにはこれを田舎の方に運んで、熱心な信者に譲るときには三万ギルムは堅い商売……もとい堅い信仰だって言うんだから不思議だよね?」
「信徒カールよ、人は聖書を食べて生きられないのよ? 山羊じゃないのよ?」
「神官リーベ、それは聖書に書かれてるどの聖句よりも確かな真理だと思うよ」
「え? あの小汚い本、そんなにするのか?」
いつの版になるのかは解らないが、村長の家には信仰の証として小さな聖書が飾られていた。光の女神ルミナスの恩寵と農作物の出来はぴったりと重なるもので、下にも置けぬと上に置いた結果、誰の手も届かない聖なる書になった。本当に、棚の上に飾られていた。
「そういえば、マイトの家には小さな聖書があったんだっけ。あのね、神官さまが頑張って一文字一文字を丁寧に、間違えないよう魂を込めて書いてるから結構な値段になるんだよ。さすがに魔導書よりも安いけど、それでも文字数が多いし、紙もインクも沢山使ってるからね。ルミナスの神殿の中ではそれだけを専門の務めにしてる神官も居るんだって。リーベレッテが洗礼を受けている間に話を聞いたんだよ」
「そうなのか……俺は読めねぇからなぁ。まぁ、中の言葉がありがたいだけで、本自身はどうでもいいよな?」
そんな不信仰を神官リーベレッテさまがジロリと見咎めた。
「信徒マイトよ? わたしが八千ギルムのどうでもいい本を買わされたと言いたいのかなっ?」
「い、いや、そんなことはねぇぜ? 一文字一文字に神官さまの魂が宿ってるんだ。ありがたい本に違いねぇ。そうだろカール?」
「読めない人にとっては、暖炉の薪よりも価値のない本だと思うけどね? 痛いっ! ごめんなさい神官さま! その紙には種火の藁くらいの価値があると思います! 痛い痛いっ!! 聖なる本の角は痛いです!」
カールは本音を語ったのだが、どうも神官さまはお気に召されなかったらしい。
八千ギルムを支払った。ならば、どうしても八千ギルムの元を取らなければならない。
「信徒カールよ。どうして神官のわたしよりも……それ以前に、どうして聖書もなしに中身を暗唱できるのかなっ? わたし、なんだかとっても理不尽だと思うんだけどっ!」
「僕らの村に来てくれていた神官のテイラーさまが、月に一度は聖書を朗読してくれてたでしょ? たしか、マイトも聖書の中身を暗唱できたはずだよ? まだ覚えてる?」
カールの問いにマイトは頷いて、言葉で応えた。
「おう。第二節、姉妹の手がほどけると、その合間に小さな何かが生まれました。光でもなく闇でもない。闇でもなく光でもない。それが生命でした。か弱く儚いその命を、女神達は優しく見守り続けます。ヒューマン、エルフィン、セリアン。光に近い命たち。オーグル、ドヴェルグ、ベスティア。闇に近い命たち。あまたの命がそこには溢れ出しました。どうだ、あってるか?」
カールは村一番の神童として、マイトは村一番の悪童として、それぞれ街の神官のテイラーさまに目をかけられていた。
その結果として、小さな聖書の中身であれば嫌でも諳んじられるのであった。
『テイラーさま、テイラーさま。マイトはお菓子を食べられるとやる気が出るんです。聖句を正しく暗唱できたなら、お菓子を買えるだけのお小遣いをあげてみてはどうでしょう?』
『うーん、お菓子欲しさに聖句を覚えてもね。だけど、それがマイトのためになるのなら……』
『テイラーさま! 俺、頑張るよ! だから、ご褒美! ご褒美ないと、俺、頑張れないかも』
『うーん、仕方がないか。でも皆には内緒だよ? これは本当に特別だからね?』
そうやって優しく微笑んだ街の神官テイラーさまが村から帰ると、子供たちが正体を現す。
『マイト、ギルムは山分けだよ?』
『解ってるよ、まかせとけって。一節で5ギルムだから、全部だと……』
『1365ギルム。最後の1ギルムはオネダリを思いついた僕のものだよ?』
『相変わらずしっかりしてるぜ。村一番の悪党は俺じゃなくてお前だよな?』
『ううん、違うよ? 僕は村一番の良い子だよ? 神童だよ?』
カールこそが村一番の悪童であったのだが、それはマイトしか知らない秘密であった。
『わざと沢山間違えよう! そして、正しく唄えたならギルムが貰えるようにしよう!』
恐れ多くも神官様にギルムを寄進させたのは、カールとマイトくらいなものだろう。
このようにして、マイトは小さな聖書を丸々一冊、覚えきったのである。
お菓子とは、子供にとって女神よりも、なお偉大なる存在であった。
「あれ? もしかして、わたしがこの中で一番に聖書を読めていないのかなっ? それじゃあ、二人とも懲罰ねっ?」
「なんでそうなるの!?」「なんでだよっ!?」
そうやってあまりにうるさくしていると、隣部屋から壁を叩かれ静まり返る三人であった。
この宿の壁は薄い。田舎者ながら礼儀正しく謝罪して、今夜の朗読会は終了の運びとなった。
明日からは冒険者の訓練学校だ。三人揃って、少しばかり浮かれすぎていたのかもしれない。
少しだけドキドキと高揚していた。不安と期待が交じりあい、足元がフワフワとした気持ち。そんな自分の心に驚くカールがそこにはあった。他の二人も同じだろうかと顔色を伺えば、どうやら似たようなものらしい。
壁向こうの人達は、逆に不安に怯えているのかもしれなかった。
それじゃあ明日に備えて眠ろうか、ということで部屋を追い出された。
女性の着替えは殿方に見せるものではないそうだ。神官さまはいつも正しくていらっしゃる。