序章 灰白色の城塞都市、ノイスカステル 5
日が昇る方、東の方角には光の女神を祀る白き神殿が建てられていた。
月が沈む方、西の方角には闇の女神を祀る黒き神殿が建てられていると聞いた。
夕日の影になりつつある中でも、白い色を失うことのない神殿。その対極となる黒き神殿にカールは想いを馳せた。闇夜にたたずむ黒き神殿。むしろ、それはいっそ困るのではないのだろうか。宵闇に紛れて、信徒たちが辿り着けない姿を想像した。
リーベレッテが神官としての洗礼を受けるため、光の女神ルミナスを祀る神殿までカールは付き添い、それからしばらく暇を持て余していた。不信仰な自分が神殿の中に立ち入って、なかの人々に迷惑を掛けるのもなんだと思い、カールは外でブラブラと時間を潰していた。ギルムの寄進を迫られても困る、という本音もあった。
冒険者ギルド程ではないが、春の神殿もまた書き入れ時で忙しいそうだ。
冬の間に手書きされた聖書の山をどうにかする季節なのだ。他にすべきことも少なくなるために、聖書はせっせと冬の間に綴られるものらしい。
「せっかくですから。ギルムを寄進されていきませんか?」
「旅人がそのギルムを譲ることは、命を削ることに等しいでしょう?」
「命を他者に譲る。それこそが真の信仰というものではないでしょうか?」
「稼ぎに稼げるようになってから、より多くを助ける。これぞ真の信仰ではないでしょうか?」
この少年、やる。この女性神官、やる。
互いに互いを認め合った、そんな瞬間であった。
神官になるだけならば、何処の街の神殿でも行えることであった。ただし、その街の神殿に勤めることになる。さらに冒険者を付け加えることによって、ようやく自由の身になれるのだ。
魔物退治の最前線に立つ人々の命を支えることも、また一つの信仰の形らしい。
ちなみにマイトオストは、どうせ合格するには時間が掛るだろうと放っておかれた。リーベレッテが洗礼を終えるまでに合格出来ていなければ、キツイお仕置きが待っているらしい。「この俺を誰だと思ってるんだ?」という質問には、「マイトオスト」と二人でキッチリ答えた。
神殿の鐘が鳴る音を、もう二度も耳にした。さすがに合格して、こちらに向かって来ているものだと思いたいが、相手は親友のマイトオストである。一抹の不安を抱えながら、カールは二人を待ち、退屈しのぎに付き合ってくれている彼女との会話を弾ませた。
「どうです? 聖書の一冊でも、ノイスカステルの聖書は、他の街の聖書とは一味違って、字がとても綺麗で、お高く売れ……こほん、お高くお譲りすることができますよ?」
女神様の残された、数多くの聖句や神託を集めた聖書。それらを購入することはできない。神の言葉を売る、そんな不信仰は許されない。だが、なんにでも抜け道はある。多額の寄進をした敬虔なる信徒に、その聖なる綴りを譲ることは許されるものだった。
「いま、冒険者を目指す仲間が洗礼を受けているところなんです。彼女が徳のある神官になった暁には大量に購入……大量に譲っていただくことにします」
聖書自身に貴賤はなくとも、売り手には貴賤がある。出来ることならば、徳の高そうな神官さまから譲っていただきたい、というのも人情である。それから、字が綺麗で読みやすければ、なお助かる。
以前、判で押した、そんな聖書が出回ったことがあった。そして、一斉に燃えつきた。
その時の神託は、とてもルミナス様らしいお言葉で、『心が籠ってない』だったそうだ。以来、聖書は手書きに限ると定められている。一文字一文字を丁寧に書き記すことこそが、信仰の現れらしい。
ちなみに誤字脱字した場合も燃える。
聖書を書き記す神官たちの信仰心が試されていた。
「女神、ルミナス様はいつでも人の世を見守ってくださっているのです」
「それで、新しい版からは聖句が一つ増えたんですね?」
「はい、敬虔なる信徒たちは、新しい聖書を買い求め……譲り受けるために神殿を訪れました」
結局は、二重に売れてボロ儲けだったようである。
ルミナスさまも、その神殿もしっかりとしていらっしゃる。
カールの相手をしてくれている神官のセシリアが切々と語った。
冬の残り物の黒パンに、干され過ぎた干し肉、萎れすぎた野菜を煮て過ごす、憐れな子供たちの日常。それは、涙無しには語れぬ話であった。
もちろん、カールの涙である。
どうやら自分たちが食していた物は、今のノイスカステルで最底辺の食べ物だったらしい。
街の皆が薪で暖をとる。ついでにパンを焼く、肉を干す。凍らせる。すると、春先には大量の余り物が出回り、格安で仕入れられるものらしい。その仕入れ値を耳にすると、店長さんの男気溢れる無償奉仕ぶりが、ルミナス神殿のそれよりも上であることが分かった。男気の塩の分。
不信仰なカールが寄進するのなら、あの店に決まった。
「飢えた子供たちが、助けを待っています」
「飢えた子供とは、目の前の僕の事でしょうか?」
「そうかもしれません。職に飢えた子に、ルミナス様の加護があらんことを」
実に口の悪い神官さまであったが、その信仰心は本物であった。
旅人からギルムを奪う気など最初からなく、それどころか神殿の外でカールがたたずむ姿を見つけて、救済院を紹介するために近づいてきた神官のセシリアである。
こうして話し込んでいるのは、「僕たちはそれ程までには困っていません。どうぞ、他の方にその救いの手を差し伸べてください。退屈という飢えを満たしてくださる手伝いなら、是非お願いしたいところです。街にはとても不案内なもので。いま、故郷から一緒にやってきた仲間が洗礼の列に並んでいるところなんですよ」と、カールがお願いした結果であった。
女性神官のセシリアは、そんなカールにノイスカステルの街について説いて回った。
ノイスカステルにも闇はある。女神ノワールが生み出す神聖なそれではなく、人の心が生み出す醜悪な闇。とても、酷い話を聞いた。とても、醜い話を聞いた。だが、それも人の営みである以上は、人の法によってしか裁けず、その人の法すら裁かぬ闇が、この街にはあった。
その闇の手から遠ざけるのも神官の大事な務めであると、カールと二人話し込んでいたのだ。人の生み出す闇から遠ざけるのは神の務めではない。おなじ人である自身の務めであると。
口の方は少しばかり悪いけれど、心の方は少し以上に善い人であった。身体の方も少し以上に善い女性であったため、思春期の少年としては満足のいく会話に心が弾んだ。
神官だからと言って結婚してはいけないわけではないそうだ。ただ、夫の稼ぎを神殿の救済院に流してしまうものだから、その貰い手には常に困っているそうだ。確かに納得の理由である。
そんな彼女が支えとする聖書は分厚いものであったが、女神ルミナスの教えは簡単であった。
『生きよ、儚き命たち』
この一言に全てが集約される。
ただし、そういうわりにはルミナス様は、とても喧嘩っぱやい女神さまであった。
ノルデン王国は人の国であるが、それは人間が勝手に言い張っているだけであり、主張する領土のなかには闇の氏族であるオーグルやドヴェルグ、ベスティアも住んでいる。人の王が彼等に税を課すことは出来ないし、命令することも出来はしない。
国土と言っても人の勝手な主張でしかなかった。
昔々、そんな闇の氏族達に業を煮やしたとある国が、国威高揚のため女神ノワールを邪神呼ばわりし、その信仰に異端の烙印を押したところ、灼熱の烙印が国土を焼きつくした。
『信仰してもいいし、信仰しなくてもいい。ただし、喧嘩は買う。全力で。妹を泣かせた罪は重い』との神託を残されて以来、女神さまに喧嘩を売った国は存在しないそうだ。
喧嘩を売れば、物理的に存在しなくなる。
そんなこんなで女性神官セシリアとの会話を楽しんでいると、カールの耳を引くものがあった。物理的にだ。
「痛いよ、リーベレッテ!」
「神官として、女性に鼻の下を伸ばしたぶん、耳も伸ばしてあげようかなっ!」
洗礼を終え、自身のクラスを神官に改めたリーベレッテの目には、女性神官さまを口説こうとする、破廉恥漢のカールとして映ったらしい。
「あら、貴女がこの男の子の言ってた新しい神官かしら? 私はセシリア。後見人はカリオン司祭になるわ。もしも貴女の後見人もカリオン司祭になるなら、私達は姉妹の関係になるわね?」
セシリアは、解っていて口にしていた。
本日の洗礼を務める司祭は、カリオン司祭であった。
「わ、わたしは、リーベレッテです。姉妹で良いのかなっ? 姉妹ってなにかなっ? です」
「いまだ至らぬ妹を導く役目よ? さぁ、姉妹リーベレッテよ、信仰の証としてギルム……」
リーベレッテの逃げ足は速かった。クスクスと笑うセシリアに頭を下げて追い駆けるカール。
そんな若者たちの背中に向かって、「光の女神ルミナスよ、若き二人の未来に幸福なる道を……あら? これだと私が歳をとってるみたい? ……若き三人に幸福なる道を示したまえ」と、ここに存在しないマイトの分まで祈りを捧げてくださる神官のセシリアであった。
一方、その頃のマイトといえば……。
†
「……依頼を受理したのち、罰則無しで依頼放棄が許される条件は解りますか?」
「そいつは、男として許されねぇことだ」
「……はい?」
「一度は交わした約束だ、破ることは許されねぇよ。そこに困っている村人が居るならなおさらだ! 依頼を放り出して、その後はどうするんだよ? まさか、死ぬに任せるって訳じゃねぇだろう? 確かに、自分一人の力じゃ守り切れねぇってことも世の中には沢山あるさ……だがよ、そのための冒険者ギルドじゃねぇのか? 俺は、逃げねぇぜ? 俺は、男だからよ……」
未だに一問一答の試験の舞台で戦っていた。
模範回答なら目の前にある。契約の内容も理解している。
だが、マイトオストという男が応えてみせる回答には、不要な魂が込められていた。
「村人ってのはな、弱いんだよ。それは悲しいくらいにな……。だからこそ、俺は退かねぇ! 男は退けねぇんだ!! ……俺の考えは間違ってるのか? なぁ、受付のおねーさんよ?」
「あう、あう、あう……」
冒険者が駆けつけなければ、村人たちが皆殺しの憂き目にあってしまう。
そんな時、魔物の種類がどうの、災害がどうのなどと暢気にしていられようか?
災害が起きたというのなら、さらに多くの手助けが必要なはずだろう。
マイトオストという男が、その心意気を声を大にして謳い続けていた。
つまり、受付のおねーさんを、ずっと困らせ続けていた。
「し、し、質問を変えさせてくださいっ!!」
「おうよ、なんでも来やがれっ!! 俺は何にでも応えてみせる!!」
死んだ魚の目から、涙がポロリと零れていた……。
その涙は感涙か、はたまた、ただの涙か……。
「一つの案件に複数の冒険者やパーティが携わった場合、その報酬の分割方式は解りますか?」
「話し合いだ。それ以外に何がある?」
ようやくまともな解答に出会えて、合格の判を押してしまえと……。
「必要な奴に必要なだけ。故郷のお袋が困ってる奴が居れば多く、困ってねぇ奴はタダ働きになっちまうが……仕方ねぇよな。人間、ギルムが必要なときは必要なんだ。例えそいつが冒険中に活躍出来ていなかったとしても分けてやるべきだと俺は思うぜ? どうせ、ほとんどは贅沢に消えちまうギルムなんだ。たまには良いことに使ったって良いだろう?」
「あ……あの……? 事後協議については?」
「ギルドはな、ちゃんと口を挟め。世の中には口が達者な奴も居れば、暴力が達者な奴も居る。強くても口下手って奴は多いよな? 声が大きい人間も、声が小さい人間も居るんだ。ならよ、冷静に判断できる第三者ってのが必要なんじゃねぇのか? そこにギルドがある。そしてギルド職員が居る。ならよ、誰もが満足の得られる話し合いの場こそギルドは提供しなきゃならねぇだろ? そいつは事前だろうが事後だろうが同じことだ。むしろ事後こそが大切だろうな。実際にギルムの山を目の前にしちまうと、冷静じゃ居られなくなっちまう。悲しい事だけどよ、下手をすると血を見ちまう話し合いだぜ? そいつがギルドの願うところだってのかい? 違うだろ? 俺の言ってることは間違っているのかい? 間違っているなら、間違いだと言ってくれ……。受付のおねーさんよっ!?」
大間違いである。
人間とは、集中すれば時を忘れる生き物だ。
その時、未来を見据え、過去など振り返りもしない。
マイトもまた時間を惜しみなく使い、数時間に渡る熱弁を奮っていた。それはそれは大行列の先頭で。受付のおねーさんの瞳には、マイトの背後に立ち並ぶ殺意の塊たち、その黒い炎が陽炎のように揺れて見えていた。
残る二人の田舎者は、こんな惨状になっているとは露知らず。
カールとリーベレッテが冒険者ギルドに向かうまで不毛な熱弁は続いたのであった。
一目見て、他人のふりをした。だが、ギルド職員に捕まった。この馬鹿を何とかしろ。
こうしてマイトは冒険者ギルドそのものに勝利したのである。
城塞都市ノイスカステルにおける、最初の勝利者であったのかもしれない。
後日、事後協議を円滑に進めるための調停業務部門が実際に設立されたのだから。