第一章 狩人達の夜(3)
水瓶のなかは水に満たされていた。闇色の水に満たされていた。
肩まで浸かり、「絶対にでちゃダメよ」と、姉にきつく言われた少年は、その暗闇のなかで息をひそめて、じっと春水の冷たさに堪えていた。
まだ、水遊びには早すぎる季節だ。
井戸から汲み上げて結構な時間のたつ水瓶のなか、ガタガタという震えが昏い水面に波紋を立てて、チャプチャプという音に変わってしまいそうだった。
暗かった。いつもの夜より暗かった。
明り取りの窓から差し込む月の明かりさえ、その水瓶の蓋は奪い去り、内側を満たしているものが水であるのか闇であるのかすら判別がつかないほどに、そのなかは暗く、そして孤独に満ちていた。
姉の声が聞こえる。
悲鳴、拒絶、嘲笑、罵倒、なにかが拳で殴られる音。
姉の声が、止まった。姉の、泣き喚く声が始まった。
それから彼が生まれる前からずっとそこにある机の音がした。みんなで食事をするときに囲む木の机だ。みんなで食事をするときによくする机の音だ。
四つの足が不揃いなのか、それとも置かれた地面の方が平らではないのか、よく傾いた。
よく傾いては音を鳴らして、スープ皿を傾ける。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、と、音がする。
その音は、食事のときにもよく机が鳴らしていた音だ。
悲鳴だったはずの姉の声が、すすり泣く声に変わっていた。
なにがそんなに悲しいのか、まだ年齢が両手にも足りない彼にはわからなかった。
いや、わかった。
お父さんが酷い目にあったから泣いているんだ。
お母さんが酷い目にあったから泣いているんだ。
それが、水瓶のなかで少年が考え付いた真実だった。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、と、音がする。
その音がだんだん早くなっていく、その音がどんどん大きくなっていく。
お姉ちゃんは何が苦しいのか、「う゛ーう゛ー」と、苦しそうな声ばかり上げている。
耳を塞ごうかと思った。
だけど、それでチャポンと音がして、見つかってしまうかもしれない。
水瓶の蓋を通して、お姉ちゃんの苦しそうな声が聞こえる。足の悪い木の机が、ガタンゴトンと揺れる音が聞こえる。
なんども、なんども、大きく、もっと大きく!
音が、止まった。
それから、お姉ちゃんは、大きな声を出して泣き始めた。
「良かったよ、お前」なんて、なにが良いのかもわからない男の満足そうな声が聞こえた。
お姉ちゃんは何が悲しいのか、泣いてばかりだった。
「おい、まだ遊んでたのか?」
やがて別の男の声がした。
「あ、すいません。いま、片付けます」
ガツンガツンとなにかと何かと何かがぶつかる音がした。
片一方は木で、片一方はもう少し硬そうな何かの音だ。
「金目のものは?」
「ははっ、あったらこんなことしてないですよ」
「そりゃそうか」
男たちはなんだか、とても面白そうに笑っていた。
なのに、お姉ちゃんの笑い声だけは聞こえなかった。苦しそうな声も、もう。
「ちゃんと全員始末したか?」
「あ、残ってますよ、そこの水瓶に小さいのが一匹」
「おいおい、ちゃんと仕事しろよ?」
見つかっていた。
そのことがわかってしまうと、水瓶がチャポチャポと震えだす。
「ちょっと手伝ってください、この机を、ね?」
「あぁ、なるほどな。ははっ、面白い」
ズルズルと何かが引きずられる音が近づいてきた。
どんどんと、近づいてきた。それは、どんどんと近づいてきた。
蓋が開けられてしまう、見つかってしまうと、歯がガチガチと震えて踊る。
でも、その蓋は開けられなかった。
それどころか、男たちは話しながら家の外へと出ていってしまった。
どういうわけ、なのだろう。
少年が恐る恐る、水瓶の蓋に手を当ててゆっくりと持ちあげると――持ちあがらなかった。
ガツッと何かにぶつかる音がして、水瓶の木の蓋は持ちあがらなかった。
少年には見えていなかった。水瓶のなかだったから。
水瓶の上には彼が生まれるよりも前からこの家に住んでいた足の悪い木の机と、彼を隠した姉の身体が覆いかぶさり、彼を守ってくれていた。ちゃんと守ってくれていた。しっかりと覆いかぶさって少年を守ってくれていた。
やがてすべての家々から悲鳴と命が消える頃、代わりと言ってはなんだが、火が灯された。
それは一軒一軒を、すべての家を焚火にした、豪華な火祭りの夜だ。
けれど、少年は水のなか。
けれど、少年はお湯のなか。
けれど、少年は煮立ったお湯のなか。
ズルリ、と、肌が剥けた。でも、その頃には目も白濁として肌の下が何色かも見えなかった。




