第一章 狩人達の夜(2)
狩人達は知っていた。
夜に明かりを見つめすぎると、目が悪くなってしまう。
そのままの意味ではなく、暖を取るための焚火や火鉢を見つめていると、夜の黒色はいっそうに濃く、深くなるものなのだ。
夜だというのに月や星を見ないことで、ノワール様が機嫌を損ねられるのかもしれない。
そんな罰当たり者からは夜闇のなかでも見られる、わずかな目さえも奪ってしまうのだ。
とはいえ、女神ルミナス様とは違い、女神ノワール様は寛容な方だった。
直接に面罵すれば、それは機嫌を損ねられるが、それでも人を罰したりなどはしない。あまりに度が過ぎて、妹を苦しめる馬鹿な奴等は姉であるルミナス様が先に成敗してしまう。聖典の文字の間違いや、恣意的に歪められた教義を口にすることにさえ文句を言われない。
端的に言えば優しすぎるのだ。
だからなのか、少しばかり後ろ暗いところを持つ人々にノワール様は慕われていた。
人の世で、極悪非道にして生きる価値無しと指をさされる人間にすら、ノワール様は救いの手を差し伸べる。ルミナス様もそれは同じところがあるのだけれど、正々堂々と悪人顔をしていなければ機嫌を損ねられてしまう。
光の道を歩んでいればこそ堂々と生きられるもので、後ろ暗いところを持つ人々は、それほどに心が強いわけでもなかった。
だから、どういう訳か、女神ノワール様は商人などに慕われていた。
そういうわけで、女神ルミナス様の神殿は常に金勘定に苦しむのだ。
皮肉なものだ、本当に皮肉なものだと狩人の彼は思った。
仲間の神聖魔法≪夜闇の纏い≫は女神ノワール様の恩寵だ。これを纏えば夜闇のなかでは目立たなくなる。昼間であれば目立ち放題だ。
キリリと弓の弦が引き絞られた。
矢尻の指さす方向では、見張らない見張りの彼が舟をこいでいる。
ピーヒョロロロロロロ……ロ。
夜には鳴かないはずの春告げの鳥が鳴いた。
矢は、夜を裂いた。
ひとつの櫓には三つの矢、ひとつの櫓にはひとりの人、ならば目は二つなのだから矢は三本で十分だった。
まず感じたのは熱。
背中や肩に突き刺さるような熱さを感じて、鉄鍋の火鉢から爆ぜた薪が飛び散ったのかと、ずいぶん寝惚けたことを考えた。それから、その熱さがあまりに長々と続くものだから、ようやくにおかしいと感じ、それから、身体に力が入らないことに気がついた。
気付こうが気付くまいが、赤い血は彼の身体をあっさりと見限って外へと流れゆく。
ドサリ、という人の倒れる音は、三十数戸の家と畑を抱える村の家々にまでは届かない。
もしも見張りがちゃんと見張っていたなら――まぁ、同じ結果だっただろう。
闇に紛れる専門職が、さらに闇を纏って近づいたのだから。
他の櫓も同様だった。
弓矢で狙いにくい見張り櫓は、≪夜闇の纏い≫に≪静かの夜音≫を重ね着した狩人が、人狩りの狩人が、こっそりと近づき、その首を冷たい刃でスルリとなぞりあげた。噴き出す鮮血が火鉢をジュッと黒く焦がす。
これで終わりだ。
色々な意味で終わりだった。
目を失ってまだ戦える達人は少ない。まったく居ないという訳でもないのが、世界の広さを感じさせる。だが、少なくとも、もうこの村は目と耳を失ったのだ。
村を一つの生き物とするなら、もう終わりだ。
狩人たちの仕事も終わったようなものだった。
狩りの手順は変わらない。
相手がゴブリンでも、魔物でも、人間でも、不意を突くことはものごとを有利に進める。
木の扉を叩く音がした。
「おう、俺だ、夜遅くだがすまねぇ、ちょっと開けてくれよ?」
誰だこんな夜分に、明日は明日で早いって言うのに、ただでさえ昼間も眠りが囁きかけてくる季節だってのに迷惑だな、と、扉を開けた父は、そんな心配をする必要も無くなった。
腹から鋭く平らな金属の薄板が飛び出していた。背からも。
胸は骨が入り組んでいて、どんなに尖った剣でも間違いがある。その点、腹ならば、中に詰まっているのは肉よりも柔らかな内臓くらいなもので、簡単に貫ける。それから、ぐるりと捻り上げると、ゴポリという音が、肺を無理やりに押し上げられて吐き出された音が漏れた。
不思議と、口から血は出ない。
肺や胃を貫いたならまだしも、腸や肝臓を金属板が貫いても、不思議と血は出ない。
息を吸おうと、息を吐こうと、そのどちらかをしようと口をパクパクさせるのだが、腹の内側へ土足で入りこんだ異物がそれを許さない。動こうとする横隔膜は抉られ裂かれ、わずかな身じろぎにも激痛を訴えた。
呼吸は押すことも引くこともできない小さな振動を繰り返し、手や足といったら今起きたことがまだ理解できておらず、ニヤニヤ笑いを浮かべる男の顔に見覚えはなく、もちろん、自分の腹に突き刺さった鋭い鋼にも見覚えは無かった。
こういうとき、考えることは誰でも同じらしい。
木綿で出来た薄い夜着を切り裂いて、ついでに腹まで切り裂いた、剣を引き抜けば助かる、
とでも考えてしまうのか、素手で掴み、どうにかしようと足掻くのだが、ニヤニヤ笑いの男の目からすると、違って見える。
優しく、「終わってるよ、お前」と教えてもやりたくなった。
必死になって――もう、かならず死ぬのだが――、剣の刃を掴もうとすると、ぬるりと滑った。彼自身の血が、血液が、赤い命の体液が、彼の期待を裏切った。ぬるりぬるりと手を滑らせては、引き抜こうとする彼の邪魔をする。
「あなた、どちらさんだったの?」
なんて、いまさらになって寝床から起き上がってきた妻が目にするものは、腹から下と、手を真っ赤に染めた夫の姿。その赤といっても、夜闇のなかでは黒にしか見えない赤。
剣ではなく男の方を、と、手を伸ばすと、剣はズルリと抜けた。
ニヤニヤ笑いの男が、血塗れの手を嫌がって、腹を蹴り、剣から農夫の身体を引き抜いた。そのまま後ろに倒れ込むと、土間のなかにパタリとも、ドサリとも、どちらとも聞こえるような音をたてて倒れた。もぞもぞと、芋虫のようにうごめくばかりだ。
闇を切り裂く悲鳴が響いた。
妻のものではない、隣家の誰かのものだった。
数秒か、数十秒早くに行なわれた凶行。どうやらニヤニヤ笑いの彼は一足遅かったらしい、三十数戸の家々が悲鳴の合唱を始めた。
運よく最初の襲撃を逃れた家からは、ゴブリンが出たのかと農夫の男が手に武器となりそうな長い農具を持って飛び出し、引き絞られた弓の射線に飛び出し、一本、二本、三本、四本と胸や腹から木の枝を生やして、地面の上をのた打ち回り、悲鳴の合唱団に参加した。
増える悲鳴に減る命。
恐怖の輪唱は増えたり減ったりを繰り返す。
女神ノワールの見守る中で、赤にも見えない黒い血の惨劇が繰り返される。
まだ年齢が指の片手と両手の間の弟を隠したのは、両手でも年齢が収まりきらない姉だった。父が刺され、そこは見てなかったけれど、家の内側に蹴り飛ばされたところは目にして、それから母が口をパクパクとさせ、なにかを言おうとしている間に悲鳴が始まった。
いくつも、いくつも、知っている人の声のはずなのに、知らない声。
そんな声が出せたのか、とも思うような声。
悲鳴のなかには怒声も混じっていた。
若い男の、あれは三つ隣の長男の、怒りの――、悲鳴。鳥が、弓で射られて、地面に落ちるまでに上げるような最後の細長い鳴き声。微かに聞き取れた言葉の意味は、「熱い」だった。
あとは、ただただ悲鳴が響きつづけて、それから、なぜだか止まった。
きっと、死んだのだ。殺されたのだ。
それを耳にした姉が実の母の悲鳴を耳にできたのは、ようやくその直後になってからだった




