序章 灰白色の城塞都市、ノイスカステル 4
冒険者ギルドの中には、石や木の香りを押し退けて、旅の香りが満ちていた。
長い旅路を感じさせる匂い。言ってしまえば、土や草に旅路の汚れ疲れた人の香りで、あまり良いとはいえない香りであったが、他人のことをとやかく言える身の上でもない。
さきの食堂では食べ物の匂いに隠されていたが、自分たちの体臭もそれなりになっているのだろう。自分の匂いには鼻が慣れてしまって嗅ぎ分けがつかないため、自分のそれではなく、カールはリーベレッテの匂いを嗅いでみようとして刺され、ひねられ、えぐられた。
どうやら、淑女に対して行なってはならない行為の一つであったらしい。
二時間のときを待った。自身を日時計にする必要もなく、ノイスカステルの街では、時の流れを告げる教会の鐘が鳴り響く。カランカランという綺麗な音が、過ぎ去った時の長さを教えてくれた。
山間の名も無き村で時を報せるものと言えば、鍋釜を叩いて飯の出来を告げる懐かしき音だけであった。そんなことだから、わざわざ教会の鐘に対してもマイトの腹の虫が勘違いをして挨拶をした。
「マイト、さっき食べたばかりでしょ?」
「俺の腹はな、礼儀正しいんだよ」
納得の答えであった。
きっと、戦場に出て剣と剣が打ち鳴らされるたびに、マイトの代わりに腹の虫が挨拶を交わしてくれるのだろう。便利で不便な腹の虫だ。二時間前に食べたことを忘れてしまう。自分たちはそういう年頃であることをカールは思い出した。自分はそうでもないのだが、食べても食べても足りない年頃らしい。故郷の兄達が口々にそう告げて、存在しないお代わりに飢えていた。
行列を抜けるとそこは冒険者ギルド。内部は冒険者のギルドとは思えないほどに整然としたものであった。マイトの中の冒険者ギルドとは剣や槍が所狭しと飾られて、リーベレッテの中の冒険者ギルドとは血に飢えた野獣の巣窟であった。
実態は、ただのお店。それも高級感溢れる造りに気持ちが圧倒され、三人揃って入るべき建物を間違えたのではないかと疑いもした。
この行列が冒険者訓練学校へ申し込みをするための行列とは限らないことに、今更ながらカールは気が付いた。これで、見当違いの行列では目も当てられない。
高級感溢れる長机の受付には、高級取りらしい美しい受付嬢。彼女たちが十人ほど等間隔に横並び、それぞれの受付の前には立て札があった。
総合案内、相談受付、依頼申請受付、依頼受諾受付、それから自分たちが並んでいる冒険者登録受付である。そして、これは用意周到な可憐なる罠であった。空いている受付があるからと、花に引き寄せられた蝶のように、列から飛び立つと帰ってはこられない。
「申しわけ御座いませんが、冒険者登録の受付はあちらの窓口になります」
また、最後尾からである。
受付嬢の笑顔と、振り返った志願者の悲壮な顔の対比はいっそ芸術的であった。
どうやら、自分たちは既に試されているらしい。カールは思い至った。
「なぁ、カール? なんで、あんなに受付の人がいるのに、冒険者登録の人は一人だけなんだ? 全員とは言わねぇが、半分くらいは受付をしてくれても良いんじゃねぇのか?」
「たぶんね、試されてるんだよ。僕たちが、ちゃんと行列に並んで、ちゃんと待つことの出来る礼儀正しい田舎者かどうか。モス爺だって割り込みしたり、ズルしたりする悪い子には飴棒を売らなかったでしょ?」
旅の一月半。冬も含めれば半年近く口にすることの無かった、懐かしい飴棒の味を思い出したのか、マイトが腹の虫の泣き声で応えた。頷いても応えた。二時間という待ち時間の長さは初めてであったが、列は列、乱してはいけないものだ。それくらいは三人共に心得ていた。
「でも、全然っ! 進まないのはなんでなのかなっ?」
「それはたぶん、マイトみたいな人達のせいだと思う」
「何でもかんでも俺のせいにするなよ。俺が世界の不幸の元凶みてぇじゃねぇか、へへっ」
「……何で喜び気味なのさ? ところでマイトは、もちろん文字の読み書きが出来ないよね?」
「お前なぁ、俺を誰だと思ってるんだ? 元は次期村長のマイトオストさまだぞ? 読み書きが出来る訳なんてねぇじゃねぇか」
「マイトは本当に旅に出て良かったね。確か、弟さんは読み書きできる賢い子だったもんね」
口にしながら、行列の進まない元凶をカールはアゴで示した。
それは、自分たちの行列の先頭。つまり、マイトオストのように当たり前に文字の読み書きが出来ない田舎者であった。通常、文字の読み書きを教わるにはギルムが掛かるものだ。だから、ギルムの無い家庭の子は読み書きに数の扱いは出来ないものだった。
カールの場合は、街から巡回に来てくださる神官のテイラーが聖書の朗読会の合間に、読み書きを求める子供たちへ無償で教えてくれた。なのにマイトが読み書きが出来ないのは、単純に熱意の差である。勉強嫌いは大人も子供も変わらない。
簡単だと思っていた冒険者ギルドへの登録。
考えてみれば、それは一つの契約であった。
約束と言うものは、契約と言うものは、お互いが共に納得してこその決まり事である。
あとになってから言った言わないの押し問答にならない為に、ギルドは契約を書面にしたためる。もちろん、その書面とは文字が使われたものである。さらに、日常の会話には出てこない、少しばかり難しい言葉が使われた商契約であった。
つまり、田舎者にとって、その紙切れの上の文字は、何かの模様にしか見えない。
そこで、受付のおねーさんが、田舎者を冒険者に変える魔法の呪文を唱え始める。
「特記が無い場合、冒険者ギルドは依頼達成のために発生する諸経費を負担しません。また、冒険者ギルドは冒険者の身体、生命、財産の安全に関する一切に責任を負いません。冒険者がその国における法律を犯した場合、その責任の一切は冒険者が負うものとします……」
契約書をいちいち全文読み上げていた。おねーさんの喉が心配である。
さらには、「な、なぁ、カール? あの、受付のおねーさんは何て言ってるんだ?」と口頭で読み上げられても理解できない始末であった。これでは行列が進まないわけである。
ここ、ノルデン王国の識字率は決して高いとは言えない。むしろ、胸を張って低いと誇れる。
大行列の行軍速度がカールの認識を後押ししてくれていた。読み上げの次は質問だ。受付のおねーさんの出す複雑怪奇な難問を一問解けて、ようやく冒険者訓練学校の門が開かれるのだ。
約束と言うものは、契約と言うものは、お互いが共に納得してこその決まり事である。
冒険者ギルド側だけが一方的に把握していても駄目なのだ。
受付のおねーさんは、田舎者にも理解が出来るように何度も何度も言葉を咀嚼して、優しい言葉で教えてくれるのだが、それでもなかなか理解までには及ばない。きっとあのおねーさんは、契約書を咀嚼する山羊のセリアンに違いない。
「つまり、冒険者になるための試験は既に始まっているんだよ。リーベレッテは文字の読み書きは大丈夫?」
「……じ、自信無いかもっ! でも、頑張るっ!」
「マイト……ここでお別れだね」
「不吉なこと言うなよ! お、俺だってやれば出来る! テイラーさまも言ってただろ?」
「結局、やらなかったツケだよ。まさか、子供の頃に逃げたツケがこんな所で出るなんて」
「お、おい、やめろ。俺を不安にさせるんじゃねぇ! 俺は戦士だ! どんな戦いにでも勝利してみせる! 俺は、やれば出来る子。俺は、やれば出来る子。俺は、やれば出来る子……」
そんなことを口にしている暇があるのなら、今、聞こえてくる咀嚼に咀嚼を重ねた山羊のおねーさんの契約魔法に耳を傾けていれば良いのにと思いつつ、口にはしないカールであった。
そして、行列の先頭に立つ彼の忍耐力がついに切れた。
「小難しい説教はもう沢山だ! いいから俺を登録させやがれ!」
こうして全てが水泡に消えた。憤った彼は冒険者ギルドの外に消えた。受付のおねーさんの努力が無に帰した。それは、とてもとても悲しい結末であった。
カールが口にしなかった部分も多々あった。
冒険者ギルドも一つの商売であり、たった一枚の紙切れすら理解できない人間はお呼びではないのだ。それは、マイトが思い描いていた、弱者の味方の冒険者像を壊す冷たい世界。いつだって、ギルムが絡むと人の心は氷のように冷たくなる。
なにも意地悪をして、旅の途中に暖気の魔法を使わなかったわけではない。あの魔法は空気を滞留させるため、風上の香りが解らなくなってしまうのだ。風の香りに血臭や獣臭が混じったなら、即座に身を隠さなければならなかった。
五感の一つを潰してしまう魔法。少数の旅には不向きな魔法であった。
リーベレッテだけに使うことも出来た。ただし、それを良しとする彼女ではないことをカールは知っていた。
長机の受付と、受付嬢。依頼書が貼りつけられた掲示板。あとは彩りに警備の人。それで目に見える限りの冒険者ギルドはお終いであった。暴力を売り物にしているとは思えないほどの簡素さに、驚きすらした。
マイトが想像したような、剣や槍が所狭しと立ち並ぶ武具店と、いったいどちらが物騒なのか解らないほどだ。ときおり冒険者たちが訪れ、掲示板の前で一時悩み、依頼書を受付に持ち込むのみ。
そんな彼等の姿は血に飢えた野獣とは縁遠く、そこらの荒くれものよりも礼儀正しく振る舞い去っていた。なかには、暴力を売り物にしているとは思えない人すら混じっていた。鞘に収まった剣は柄しか見せない。柄すら隠せばもはや剣にも見えない。
そんな彼等とは縁遠い、むしろ血に飢えた野獣の田舎者達が受付のおねーさんを困らせていた。肉は喰えても紙は喰えないらしい。好き嫌いは良くない。
「しかし、本当に我慢強いよね。受付のお姉さん。志願者が諦めない限りは、ずっと付き合ってくれるんだから」
「……でも、死んだ魚みたいな目をしてるぜ?」
「ちょっと、可哀想かも……頑張るっ!」
冒険者ギルド側も新人研修の一環として、この荒行を新米受付嬢に行わせていた。
どれだけ容姿が整っていても、この荒行に耐えられない受付嬢は要らないらしい。
……。
……。
……。
「カールグスタフ。15歳。男性。ヒューマン。文字の読み書きはできます」
「はい、ではこちらの書類に目を通していただけますか?」
「はい、通しました。いえ、もう何度となく耳にしてしまいました」
「では、質問です。依頼を受理したのち、罰則無しで依頼放棄が許される条件は解りますか?」
「はい、依頼内容と業務の実態が著しく異なっていた場合。または、災害や戦争、討伐対象以上の危険がその近隣に存在する場合になります。ゴブリンと聞いていたのにオーガだった。ドラゴンの巣の傍のゴブリン退治などがそれに当たりますね。あとは、冒険者ギルドと協議した上でギルドと冒険者の双方が合意に達した場合になります」
「はい、その通りになります。では、同意できましたらこちらにご署名ください」
「はい、署名しました」
「では、こちらがギルド側の控え、そちらが冒険者側の控えになります。契約書の方は無くさないようにお気をつけください。これにて冒険者としての登録は完了になります。引き続き、冒険者訓練学校の説明をこちらで受けられますか?」
「相談受付の方で訓練学校のことを含め、そちらで色々と相談したいと思うのですが、これは可能でしょうか?」
「はい、可能です。では、登録はこれにて完了となります。お疲れさまでした」
こうして訓練学校以外のことも色々と尋ねたいカールは、早々に戦線離脱したのである。
受付のおねーさんもニコニコの顔である。契約は常にこうありたい。
……。
……。
……。
「リ、リーベレッテです。15歳です。女です。ヒューマンです。文字の読み書きは……少しだけです」
「解かりました。では、こちらの書類に目を通していただき、不明な点があればご質問ください」
リーベレッテは一行につき三回ほど、解らない単語について質問した。
商契約の文面であるため、日常会話外の少しばかり難解な言葉が使われていた。
口頭での読み上げの際は、日常会話レベルまで噛み砕いた言葉が使われる。
それでも理解が及ばない場合は、何度も何度も咀嚼された言葉が使われる。
「はい、大体理解できたと思うかなっ! です!」
「では、質問させていただきます。一つの依頼案件に複数の冒険者やパーティが携わった場合、その報酬の分割方式は解りますか?」
「え? …………待って! ちょっと待って欲しいかなっ!」
「……………………………………………………………………………………」
この沈黙は、ギルド受付嬢に許されたほんの僅かな休憩時間である。
喉が、乾いていた。だが、水を口にすると、それだけ席を空ける回数が増える。
心が、乾いていた。だが、涙を目にすると、それだけでポキリと挫けそうになる。
冒険者志望、そして、冒険者ギルド受付嬢の忍耐力が、いま試されていた。
「あ、ここだ。代表者が一括して受け取り、それを事前、事後の冒険者同士の協議により分割すること。なお、この協議に関し、冒険者ギルドは一切の責任を負わないものとする。ただし、ギルド内において職員立ち合いのもと、事前協議の書面化、および分割を行なうことを推奨する……かなっ!?」
「……………………………………………………………………………………」
もう少しだけ、答えも、休憩も、足りなかった。
解答を促すように、乾いた瞳でチラチラと、当該部分にリーベレッテの視線を誘導する。
「じっ、事前協議がない場合は事後による冒険者同士の協議もありえるが、これについてギルドは一切関与しない。つまり、自分たちで決めろってことかなっ!?」
「補足しますと、多くは早い者勝ちということです。では、同意できましたらこちらにご署名ください」
「リーベレッテ……っと」
二枚の書類の間にギルドの割り印が押され、一枚がリーベレッテの手元に渡された。
「では、こちらがギルド側の控え、そちらが冒険者側の控えになります。契約書の方は無くさないようにお気をつけください。これにて冒険者としての登録は完了になります。引き続き、冒険者訓練学校の説明をこちらで受けられますか?」
「さっきカールが……じゃなかった、仲間がすでに説明を受けましたので大丈夫です!」
「そうですか。では、登録はこれにて完了となります。お疲れさまでした」
こうして、リーベレッテは冒険者行きの片道切符を手にいれた。
受付のおねーさんも、少しばかりの休憩が取れてホッとしていた。
……。
……。
……。
「俺の名前はマイト、マイトオストだ」
「……読み書きの方は、どれほど覚えがありますでしょうか?」
「おう、全く読めねぇぜ? もちろん書くのもな? 読めねぇのに書けるってことはねぇか! ……あ、俺、自分の名前書けねぇ、まじぃかな? 大丈夫か?」
「はい、署名ではく指印でも受け付けは可能となっております……」
死んだ魚の目とは、白く濁ったものである。