第三章 帰郷への永い旅路 9
波。眼には見えないが、確かな大波が走り、戦場が一変した。
≪場を満たす恐怖≫、そのスキルが生み出す効果は、ただの恐怖。
だが、人間にとっての恐怖とは、身の内に潜む天敵である。
ある者はその場に立ち竦み、怯えあがり、地面に腰を落とした。
腐肉を纏ったゾンビを前にした、あの嫌悪感。十倍にも二十倍にも膨れ上がった恐怖の大波が、戦場の空気を満たす。鼻腔より肺腑に送られるのは、おぞましき何か。それが、自らの心臓に黒い斑点を生み出すのを感じていた。
一体の魔物が降り立った。ただそれだけのことなのに、マイトの足は震え、剣先がガタガタと揺れだした。そして何より、新たな魔物を前にしながら、戦うための意思が起きなかった。
「カール!! なんだこれは!? 何で俺の身体はガタガタと震えてるんだ!?」
「たぶん、≪場に満ちる恐怖≫。いま、マイトは恐怖させられてるんだよ。サンジュアルジャンに襲われた夜、僕らの身体は同じようになってたでしょ?」
「あれは……寒かったからだ!!」
場を対象にした希薄なスキルであったため、高い魔力を持つカールにとってはどうということもないスキルであった。だが、そうでない者達にとっては戦うことも、逃げることも許さない、致命的な一撃だったらしい。
「恐怖に気付けないって、ある意味すごいよ、マイト。じゃあ逃げよう? 肩を貸すから」
「……俺は、逃げねぇ。戦う」
「はい?」
カールは、自分の耳も恐怖でどうにかなったのか、あるいはマイトの頭が元々どうかなっているのか疑い首を傾げた。
レベルの差は59。それは戦って勝てる相手ではない。
そもそも、恐怖に満たされたこの地では戦いにもならない。
そして模範解答を示したというのに、マイトは退こうとしなかった。
「逃げるわけにはいかねぇ!! 俺がここで退いたらどうなる!?」
「命が助かって、冒険者になれる」
それを冒険者ギルドは求めている。
こんな状況下でも逃げおおせる、その機転こそが求められているのだとカールは推測した。
「ふざけんな!! 解って言ってんだろ!? 俺たちがここで退けば、他の奴等は皆殺しだ! 周りの連中を見てみろ! 逃げることすら出来そうにねぇ! だから、俺たちしか居ないんだ。なら、俺達がやるしかねぇだろ!?」
「僕たちが死ねば、リーベレッテは独りぼっちだよ? それでもここに残るの?」
「俺は……逃げねぇ。逃げられねぇ。アイツが動き始めれば大勢が殺される。一秒でも、皆が逃るための時間を稼ぐ。カール、お前がリーベレッテを連れて逃げてくれ……」
魔力には抵抗できないはずのマイトの体から、震えが消え去っていた。いまだに恐怖は残り続けている。だが、それを超える覚悟という名の心の叫びで拮抗し、超越した。
受け止めて、捻じ伏せる。それが、マイトが学んだことだ。恐怖が相手の得意とする場なら、それを力尽くで捻じ伏せる。それこそが、師匠から教わったことだ。これで、心の上では互角になった。
「……わかった、ここは僕が受け持つよ。マイトはリーベレッテを連れて逃げて? 気合だけじゃどうしようもない事だってあるんだから。マイトは魔法の一撃で死んじゃうでしょ? 相性が悪すぎるよ」
こうなったマイトを止められはしない。けれども、全てを見通してしまう≪天座主の瞳≫はマイトが僅かな時間すら稼げずに死に至ることを指し示していた。
たった一つの魔法で終わる。レベル60の魔法使いともなれば、相当な手練れだろう。
時を稼ぐというなら、その役割を果たせるのは自分しか居なかった。
他の誰かのために命を懸ける気は無いけれど、マイトとリーベレッテのためなら別だ。それなら胸を張り笑って死ねると、カールは表情に出していた。
「カール、お前って奴は…………自分一人で恰好付けるつもりだろ!? 腹黒のてめぇのことだ、どうせ何か隠してるんだろ!? さぁ吐け!! さっさと吐け!!」
「な、なにも隠してないよー? ホントだよー?」
たしかにカールには隠し玉があった。
調べた限り、この戦場にはエルダーワイトという怪物が現われることが稀にあることも理解していた。その為に予め用意された砦だった。だが、それも無駄に終わった。二重の水濠も役には立たないだろう。
多数の候補地にはそれぞれエリアボスと呼ばれる場の主が存在し、細かな強さまでは解らなかったものの、それぞれが熟練の冒険者を呑み込んできた怪物たちであった。
それぞれに対応する魔法の準備はある。
だが、効果があるかまでは試してみなければ解らない。
そもそも魔法の構造式が正しいのか試す時間すら無かった。
魔法の使い手でないものには解らないが、組み立ての手順を一つ間違えれば魔法は使い手にこそ牙を剥く、精密すぎる危険物なのである。
数種の魔法の開発に四日という時間は、あまりにも短すぎる時間であった。
四日で金銀に彩られた宮殿を一人で複数造り上げろと迫られるようなものである。
カール自身、未成熟で無駄の多い魔法構造式が、自他共に牙を剥くことを把握できていた。
非効率すぎる構造式に、多大な精神力を注ぎ込み続けて、ようやく動くかもしれない不細工な魔法。その行使は一つの自殺行為である。
精神力の枯渇は、永遠の眠りに至るのだ。それに、ここは戦場だ。
精神力が摩耗した時点で、逃げることすらままならなくなるだろう。
「冗談はここまでだよ。マイトは早くリーベレッテを連れて逃げて。そして、守ってあげて」
自らの領土を恐怖で満たしたはずだというのに、ギャンギャンと騒ぎ立てる馬鹿二人。その姿はエルダーワイトの存在しない眼や耳にも目立ったのだろう。その汚れた白い指先が、二人の方に向けられていた。そして、王の命令に従った屍たちがカールとマイトを包み始める。
「おう、解ったぜ。じゃあな、いっちょやるとするか!!」
「僕の話を聞けよ!! この馬鹿!!」
「戦場にクワを持ち込む馬鹿には言われたくねぇぜ!! お前、戦いを舐めてるだろ!?」
「クワ持った農家舐めんな! 魔物と大地、どっちが強いと思ってんだ!?」
「お、おう!? 確かに地面はでけぇ。魔物よりもでけぇ。くそっ! 返す言葉がねぇぜ……」
妙な納得をしたマイトを置き去りに、カールは詠唱を始める。
リーベレッテが居なければ、マイトなどとは絶対にパーティなんて組んでいなかった。博愛主義もいい加減にしろと、怒鳴りつける暇すら惜しい。リーベレッテが大事だと口にしながら、簡単に見捨てられるこの男が許せなかった。カールは気の合わない親友を見捨て、自身の魔法に全てを賭けた。
もう、こうなればメイ達だけが頼りである。女の三人旅。メイとティーがリーベレッテを見捨てなければ、そんな未来もあることだろう。それだけがカールの希望だ。
「我は求めるもの。魔を求めるものなり。天にありて見守るもの。地に注ぎて育むもの。ありとあらゆる命の源泉にして、ありとあらゆる命の母なりしもの。いま一時、この地の天にありて我ら儚き命を見守りたまえ! 其は命いずる光の天主、≪光の女神≫!!」
夜が昼に、一瞬にして転じた。それは、ニルダの古戦場を見守っていたヴァイスメイヤーたちの目を眩ませるほどの光明。それは、天上の月に重なる日輪の輝き。ゴブリンを相手にしたあの夜の眩しいだけの光とは違う、本物の太陽の輝きであった。
夜の半分、戦いの中で学習したのは生徒たちだけではない。
カール自身も、アンデッドというものについて、一つ一つ試しながら学んでいたのだ。
簡単に言えば眼が無い。腐っている。なのに、なぜ人が見えるのか。
音で聞いているのか。石を投げて試してみたが、その様子も無い。
臭いでもなければ光でもなく、熱でもなかった。見えている世界が大きく違った。
そうして推論した結果が、アンデッドは、生命自身を見ているというものだった。
だからこそ、アンデッドは日中に出て来ることはが出来ない。
何しろ、昼という時間は、命の源泉たるルミナスの恩寵で満たされているのだから。
命あるものには活力を、命なきものにも活力を、生者に活力を与えることは薬だが、死者に活力を与えることは果たして薬になるだろうか。
答えは否。神々しき光に眼は失われ、負の生命力は、正しき命の力に蝕まれる。
いかなる大魚も、陸に上がれば口を開け閉めするだけの死んだ身である。
カールが師匠から教わったこと、それは、舞台を丸ごとひっくり返せであった。




