第二章 教官の試練場 1
前後に長い扇の形の四角形。幅は簡素な椅子が十は余裕で並び、その背は人の丈の二倍ほどの石材と木材の合わせ技。これが冒険者訓練学校の教室である。
前方には教員が立つための台が置かれ、その上に立てば教室の全てを見渡すことが出来る。そして、教室の全ての生徒から見つめられることになる。
消耗品である明りに回すような予算はケチられ、目の頼りになるのは女神ルミナスの恩寵たる日の光のみ。こんな教室が十以上はあり、千人以上を収容可能な学校であった。これほどまでに巨大なのは、ひとえにノイスカステルの西側を征する国軍との意地の張り合いの結果である。
あちらはあちらで、新しく雇用された義勇兵用の巨大な訓練施設を抱えていた。
そんな巨大な訓練学校の一角もまた大きなもので、百人以上の人間が一ヵ所に集まればヒソヒソ話すら巨大な音の波として教壇の上に響き渡る。こちらの声がよく伝わるように、あちらの声がよく聞こえるように、壁にはわずかな傾斜を持たせ、さらには反響板を用いたギルドの技術が惜しみなく使われていた。
訓練教官のヴァイスメイヤーが静寂を促すため、教官らしく大きく一つ咳ばらいをすると、「先生、お風邪ですか? 季節の変わり目にはお体に気を付けませんとね。うちの田舎では風邪には暖かい蜂蜜水にレモンの皮の搾り汁でしたが、先生の故郷の方でも同じでしょうか? ほんと、お身体には気を付けてくださいまし」と体調を心配される始末ときたものだ。
明り取りの天窓に向かって、訓練教官ヴァイスメイヤーは祈った。熱心どころか無縁に近い信仰心の持ち主であったが、この時ばかりは女神に祈りを捧げてしまった。
目の前に広がるのは冒険者未満の地方育ちの若者たち。
言ってはなんだが、未だもみ殻も取れない田舎者たちが百人とちょっと。
さてこの田舎者達を脱穀して、冒険者未満を新米冒険者に生まれ変わらせることが自分の今回の依頼なのだと、ヴァイスメイヤーは冒険者として新たなる冒険のステージに立っていた。
そこは、教壇の上である。
「みなさん、静粛に! 静粛にしてください!!」
その声一つで教室中に動揺の波紋が広がり、静粛とは真逆の喧噪が場を満たす。
これは一体どうしたことかとヴァイスメイヤーは考えるも、思い当たる節がない。
そして、百人を代表するように一本の手が高々と挙げられた。
「はい、そこのキミ、何か質問かな?」
「先生! すいやせん! 静粛って何ですけの!? もしかすっと、それはあんまりヨロシクない言葉で御座いましたけの? わしら、何か悪いことしましたけの?」
今度こそ本当に女神に祈った。そして、ギルドマスターを呪った。
ヴァイスメイヤーの冒険者としての階級を示す徽章の素材は金である。これは八段階ある冒険者の階級のなかでは五段階目。冒険者全体の一割に満たない、かなりの高位冒険者である。
冒険者となったのは十年ほど前になる。たった十年で高位というのもおかしな話だが、冒険者の世界とはそういうものであった。石工が石材を相手に十年間悪戦苦闘しても死にはしない。喰いっぱぐれはある。冒険者が魔物を相手に十年間悪戦苦闘すれば、十の内の九は死ぬ。
それゆえの高位であったが、ここに一つの壁があった。
金から一つ上、白金ことプラチナに徽章の素材を変えるためには特別な試験が必要だった。
ある日、ノイスカステルでギルムに任せて遊びほうけていると、ノイスカステルのギルドマスターから呼び出しがかかった。
『ヴァイスメイヤーくん、二十八歳、ランクはゴールド。君のような逸材を、我がギルドはなぜ見落としていたのだろう。済まなかった。ギルド側の怠慢だ。キミは本来もっと高いランクにあるべき傑物なのに……。そこでなんだが、金から白金にランクを昇格させるための特別な依頼、つまりは試験があるのだけれど受けてみないかね? これは、キミのような優秀な人材のために用意されたような依頼なんだ! 私も歳で目が曇ってきたのかもしれないな。キミのような冒険者をいつまでも金のランクに置いておくなんて……頼む、是非とも受けてくれ! 依頼内容は明かせない、一応は試験だからね。キミは冒険者として、この冒険に挑んでみる気はないかね!? ヴァイスメイヤーくんっ!!』
せめて、酒は抜いておくべきだったと後悔した。想像するに、自分が酒に酔っぱらったところを見計らって呼び出されたのだろう。相手はギルドマスターだ。相手は冒険者ギルドのギルドマスターだ。
煽て挙げられ、教壇の上に立たされた今、目の前に広がるのは混沌の渦である。
「………静粛という言葉の意味は、静かにという意味です。みなさん、静かにしてください」
百人からのピタッと私語が止まっての静寂。それは心臓に悪い。
田舎者たちは月に一度は神官さまの説教を聞くため、こういった行事には慣れているのだ。
ジッとヴァイスメイヤーを見つめる顔は百以上、一人につき二つは目の持ち合わせがあるのだから、見つめる瞳は二百以上。これを剣で切り裂けと言われたなら、そういう類の魔物として切り裂けたかもしれない。
だが、目の前に居るのは人間の生徒たちだ。正気を失ってはいけない。
「よし、静かになったな。俺の名前はヴァイスメイヤーだ。ノルデン王国、冒険者訓練施設ノイスカステル校へようこそ。なにか俺に質問がある場合は、まず手を挙げてくれ」
さっそく百本近い手が挙がった。暗がりに立ち上る幽鬼の手を思わせた。
もはや、逃げ出したい気持ちでいっぱいのヴァイスメイヤーであった。
だが、退路には冒険者ギルドのギルドマスターが立ち塞がっている。
「そこのお前、どんな質問かな?」
「先生、ノルデン王国とはなんですけ? ここは、ノイスカステルじゃないんですけ?」
質問の意図を計りかねた。
だが、意図など無かった。
質問の意味の通り、彼等はノルデン王国というものを知らなかった。
畑を耕すときに国名が必要だろうか?
魚を網で追い込むとき国名が必要だろうか?
明日の天気を予想するのに国名が必要だろうか?
全てに対する答えは要らないであり、要らないものは、誰も持ち合わせて居なかった。
「えっと……あの……。お前たちの住んでた村や町にも名前はあっただろ?」
「そういえば近所の町には名前があったなぁ。俺の住んでた村にはなかったけども」
「お前んとこもか? オラんとこもそうだったぞ。町の南の村って言われてたなぁ」
「うちんとこは海の村だったぞ? 海沿いの村だったからなぁ」
「海ってなんだ?」「海ってなんだぁ?」
名前。……村に名前が無いことは、これといって珍しい事ではない。名前というのは双方が知っていてこそ話が通じるものだ。小さな村が好き好きに名前を名乗ったところで、心優しく憶えてくれる人は居ない。覚えることに意味が無いからだ。
小さな村の名前を口にしたところで、話の相手が困るだけだ。次に町から見た方角を述べてようやく話が通じる。それは二度手間だった。
町と呼ばれる程の規模になって、やっと話が通じるようになる。それも、よくて一つか二つ先の町までの話である。町の周囲に点在する村などは、近隣の町の名前と、そこからみた方角で呼ばれることが常であった。
カール達が生まれ育った山間の名も無き村の呼び名は、東の山の村である。
過去に村長や長老組が祭りと酒の勢いで名前を付けたものの、それは町までは伝わらず、酒が抜けると共に名前も抜けていったという逸話だけが残っている。そのため、実際は名前があるのかもしれない。だが、村人たちが揃ってその名を知らなかった。
「静粛に! 静粛に!! ……あのな? ノルデンというのは、この国の名前だ」
そして、静かに百本の手が挙がる。
「そこのお前、どんな質問かな?」
「先生、国ってなんですか?」
一瞬、意識が真っ白に飛んだ。国とはいったい何なのか、それは哲学的命題だ。
カールも一緒になって考えていた。国とは、大地か? 民草か? 王か? はたまた文化だろうか? 国が王であるとするならば、王が死ぬたびに国も一度死ぬ。民草もまた、川の水の流れのように日々変わりゆく、文化もまたしかり。では、国とは大地なのだろうか? しかし、どんな歴史書を紐解いても大地が自ら国名を名乗ったという事実はないはずだ。
国とは何か、それは、難問であった。
「ちょっと待ってくれ……。村や町を集めたものが領地で、領主さまが治めているものだ。その領地を集めたものが国だ。その国を治めているのがノルデン王だ。村人を集めたものが村。村や町を集めたものが領地。領地を集めたものが国だ。わかるか? 頼むから、わかってくれよ?」
「つまり……村の村長さんの村長さんが領主さま。領主さまの村長さんが王さま。村長さんの村長さんの村長さんが王さまっちゅうわけでしょうか? 先生」
「お、おぅ! そんな感じだな!!」
一件落着したように、ヴァイスメイヤーと村人たちが一同にホッと一息をついて、それから大切なことに気が付いた。
「村長さんの村長さんの村長さん。それはお偉い人も居たもんだ! したらこれは、ご挨拶に行かねばならんのではないのけ?」
「あぁ! それは大事なことだな!! 手土産は何が良いんかの? うちっとこで獲れた魚でもいっちょ持ってくか! あ~、でも、運んでる間に腐っちまうなぁ。干物ならなんとか……」
「行くなぁ!! 頼むから挨拶に行かないでくれぇ!!」
冒険者訓練学校の授業は、おおよそがこの調子で進む。
商家の生まれ、街の生まれのヴァイスメイヤーは生粋の田舎者を知らなかった。読み書きはもちろんのこと、数の扱いも怪しい。なにより彼を驚かせたのは、ステータスというものを知らないことであった。
ステータスとは眼を閉じると浮かんでくる文字。そう、文字情報なのだ。文字の読み書きが満足に出来なければ、目を瞑ると浮かんでくる|何か(,,)でしかなかった。彼等は、自分たちの状態すら満足に知らなかったのである。
ギルドマスターがこの依頼の直前に口ずさんだ一言。そして田舎者たちの現状が、ヴァイスメイヤーを恐怖の底に突きに落とす。
『あぁ、彼等だけどね、一週間後にはきっちりと実戦を経験させるから。訓練生のうちどれだけ生き残るかはキミの腕次第というわけだ。もちろん、実戦の内容は秘密だよ? これはキミに対する試験でもあるんだからね? 期待してるよ!! ヴァイスメイヤーくん!!』
この百人の田舎者のうち、自分は何人を殺すことになるのだろうか。
ヴァイスメイヤーは、心の底から神に祈りを捧げるのであった……。