2.お兄ちゃんへの嫉妬
とりあえず、香苗ちゃんに見送られながらお兄ちゃんと至くんのあとを追った。
行動は迅速に。香苗ちゃんからのありがたいアドバイスである。
二人が目と鼻の先に見え、やったと思いつつ、いざ話しかけようとすると、やはり恥ずかしさと気まずさが入り混じったような変な気分でなんとも話しかけにくい。
いつもならなんのお構いもなく、二人の間に割り込むのだが。
――なんでわざわざ割り込んでたのかなあ。
ふと自分の行動に疑問を持つ。
とぼとぼと後ろをついて歩いていると、二人の会話が聞こえてきた。
「なあなあ弾! 今度ゲーセン付き合えよ。伝説のゲームマスターが現れるらしいぞ!」
「マジか! おれはさあ、ゲーセンの王者になるのが夢だったんだよなー。コツ教えてくんないかなー」
「ワハハ、お前まだそんなこと思ってたのかよ!」
どうでもいい会話が繰り広げられている。
というかお兄ちゃんのそんな夢まったく聞いたことないし至くんには言ってるんだね仲良さそうでうらやましいなあ悔しいなあ。
そこでわたしは、はっとする。
そうだ。イライラしていたのだ。いつも仲良さそうな二人を見て。だから二人を見つけるとついつい割り込んでしまっていたのだ。
愕然としていると、不意にお兄ちゃんが「あれ?」と後ろを振り返ってこちらを見た。
視線が合う。
「なんだ、柚じゃないか!」
気の抜けた顔から一際明るい笑顔を浮かべた。決してカッコよくはないんだけど、笑うと太陽みたいに明るくて、わたしの心も晴れた気持ちにしてくれるのだ。
――やっぱり、お兄ちゃんが好きだっ。
「お兄ちゃん!」
嬉しくなって兄の胸へ飛び込もうとすると「そうはいくかあ!」と至くんがお兄ちゃんの腕を思い切り引っ張った。その勢いでお兄ちゃんは「どわあ!?」と叫びながら豪快にしりもちをついて転ぶ。
――チッ、至くんの存在を忘れてた。
「毎回のごとく俺が突き飛ばされてたからな。たまには柚っこにお返ししねえと」
「い、至。柚ではなくおれの尻への被害が甚大だぞ……」
痛そうにお尻をさするお兄ちゃんのことはさておき、わたしはしたり顔の至くんをキッと睨み付ける。
「昔はガリ勉男子で高校デビューしたかったのか茶髪にしたのに結局地味な顔立ちでモテもしない万年彼女なしの中途半端な存在に成り下がった男は器も小さいみたいね!」
「ズッキーン! 柚っこ、お前毒舌過ぎるぞ!」
「違うぞ、至! 柚はいつでも素直なだけだ!」
「それはそれで傷付くわい!」
お兄ちゃん、ナイスフォロー。
しかし至くんは明らかに不機嫌な様子だ。
「お前こそ、髪なんか伸ばしやがって女子気取ってんじゃねえよ!」
「いやいや正真正銘の女子だからね?」
確かに昔は髪を短くしていた。本当は伸ばしたかったんだけど、色素が薄く癖っけのある髪で、伸ばすと外人みたいと男の子にからかわれたことがトラウマになっていたのだ。
でもお兄ちゃんは『柚の髪はきれいだよ!』となんの迷いもなくまっすぐな瞳で言ってくれた。だから今は自信を持って髪を伸ばしているのだ。
ああ、改めてわたしはお兄ちゃんを中心に回っているのだなあと感慨深くなった。
「そうだぞ、柚の髪はきれいなんだから、伸ばさなくちゃもったいない!」
あったかくて大きな手がぽんと頭に置かれる。
「お兄ちゃん……」
お尻の痛みは引いたのか、お兄ちゃんはにっこりと笑ってわたしの隣に立っていた。
……あれ、やばい。わたし、もしかしてもしかしなくても顔が真っ赤じゃないだろうか!?
「お? ゆ、柚、大丈夫かっ? 顔が真っ赤――」
「いやー! 見ないでえ!」
どすっ!
「どほおう!?」
うわーん、恥ずかしくて思わず右手がお兄ちゃんのお腹にー!
「すげえ、ナイスアッパー!」
わたしは感心している至くんを射殺す気持ちで睨み付け、「ひぃ!」と怯える彼の襟首をがしりと掴んだ。
腹を抱えてうずくまるお兄ちゃんに引け目を感じつつも、迷うことなく置き去りにしようと覚悟を決め、猛ダッシュでその場を離れることにした。
「ちょ、まて、柚っこ……!」
首が苦しそうな至くんの言葉など耳に届かず。
彼を引き摺るようにして、わたしはとにかく走り出したのだった。
「し、死ぬかと思った……」
「すみませんでした」
本当に失神しそうになった至くんに平謝りのわたしである。
気付けば至くんの家の前に辿り着いていた。
お兄ちゃんから逃げたはいいが、他に行くところが思い付かなかったのだ。
「俺は帰る」
「待って、至くん! わたしを一人にする気!?」
「いや、お前んちすぐそこだろうが! 家帰れよ!」
「お兄ちゃんと会っちゃうでしょ!?」
至くんの言う通り、わたしの家はちょっと歩いたらすぐそこにある。雄鳥家も八敷家もこの住宅街に建つ一軒家に住んでいるのだ。そんなわけだからお互い家族ぐるみで付き合いのある幼なじみなのである。
至くんは呆れた顔をして大きなため息をついた。
「兄貴への反抗期なわけ?」
その逆だな。
わたしは否定の意味を込めてブンブンと首を横に振った。
「じゃあ何?」
「わたし、お兄ちゃんのこと好きなんだ」
「ふーん…………で?」
なにい!? 驚かれると思ったのになんでそんな冷めた反応!?
「言っとくけど、ライクじゃなくてラブだからね!?」
「いや、見てりゃわかるし。何年お前らの幼なじみやってると思ってんだよ」
そんなに丸わかりだったのだろうか。というか、気付いていないのはわたしだけ?
「ま、まさかお兄ちゃんも……!」
「あれは気付かねえだろ。つうか、あいつだって――」
言葉が途切れ、至くんは突然驚いた顔でわたしの背後に視線を向けた。
「あ……八敷くん?」
聞き慣れない声が背後から聞こえ、わたしも至くんの視線の先を追って振り返る。
少し高級そうな茶色のダッフルコートを着た、黒髪ロングの美人のお姉さんだった。コートの隙間から覗く制服は同じ高校のものだ。至くんのクラスメイトだろうか。
「ちょうどよかった。雄鳥くんの家ってこの辺りで合っているかしら?」
花のような笑顔を浮かべ、なぜかうちの家を訪ねてきた。
「……ああ、そこの向かいだよ。多分、家の前で待ってりゃすぐ弾も帰って来ると思うぜ」
「そうなの、ありがとう」
そう言って彼女は、わたしにも笑顔を向けて一礼して去ってゆく。おそらくお兄ちゃんの妹だってことは知らないのだろう。
「すっごいきれいな人だねー。お兄ちゃんに何の用なのかな?」
「お前、のんきだな」
「へ?」
「今のは『橘怜衣』。二年のマドンナだ」
マ、マドンナとはまた古い言い回しを。しかし確かに納得の美しさだ。
「実は最近、弾に女の影が見え隠れしててな」
「い、至くん、いつから霊感あったの? っていうか、あのばかなお兄ちゃんに憑くなんて物好きな幽霊だね……」
「違うわっ! 生きてる女だよ! つうか、仮にも好きな男になんたる言い方……」
何が言いたいのか、この男は。
「つまりだな! 橘さんは弾に気があるんじゃねえかってもっぱらの噂になってるんだよ!」
「なっ……!」
「よく弾に親しげに話しかけては仲良さそうにしてんだよな。家まで来たってことは、まさか今日は告白でもするつもりじゃねえか」
なぜか困った様子で頭をぽりぽりと掻く至くん。
しかし――
「あのばかなお兄ちゃんにあの美人の先輩が告白!? 天変地異がひっくり返っても絶っっっ対にありえない!」
どう考えたってお兄ちゃんでは釣り合わないだろう。
「待て待て待て。柚っこお前、本当に弾が好きなんだよな? なあ?」
「あったり前でしょ! あのばかなお兄ちゃんを好きになれるのはわたしぐらいなんだから!」
「あー……そうだよな、聞いた俺がばかだったわ、ごちそうさん……」
至くんは疲れたというようにぐったりと項垂れた。
でもでもやっぱり、彼女のことは気になる。
わたしはそーっと、自分の家のほうを覗き見た。
「あ、お兄ちゃん……」
と、橘怜衣。
何やら楽しそうに会話している。内容は聞こえない。
どうやら話は終わったようで、彼女が手を振って去ろうとする。だが、そこで彼女は足がつまずいて転びそうになる。
「あ、あぶな――」
間に合うわけもないのに、思わずわたしは二人に駆け寄って行った。
「わあ、危ない!」
転ぶ寸前に、お兄ちゃんが彼女を抱きとめた。
――お、お兄ちゃんが、わたし以外の女の子を抱き締めてる……!
「橘さん、だ、大丈夫?」
「わあ、びっくりしちゃった。……あの、ありがとう、雄鳥くん……」
「あ、ごめんっ」
二人は顔を赤くして慌てて離れる。
――しかも何、いい雰囲気出しちゃってんの!?
「あれ、柚……?」
お兄ちゃんがこちらに気付く。
居たたまれない。
わたしは体をわなわなと震わせ、
「お兄ちゃんのばかー!!」
渾身の一声を上げて、再びその場を逃げ出したのだった。