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王太子のお嫁さん。~ときどきお兄ちゃんと妹~2


 賑やかな街の喧騒も届かない、閑静な王宮の廊下を、彼女は足早に歩いていた。花をかたどった意匠も見事な、絹のドレスを纏った少女は、歩みこそ早いが、実に優雅に廊下を進む。歩む勢いで生まれた、僅かな風が、彼女の銀糸の髪を優美になびかせた。

 いつもは穏やかに弧を描いている眉は吊り上がり、長いまつ毛で縁どられたアメジストの瞳は、涙で潤んでいる。彼女の傍に控える侍女の姿はなく、代わりに、立派な体躯の青年が、彼女の後を追って来ていた。

 青年の髪は、漆黒。意志の強そうな眉は、今はやや垂れさがり、普段は泰然としている瞳は、珍しく焦りが滲む。

 上等な黒の上下に身を包んだ彼は、廊下を歩み去ろうとする少女に、堪らず声をかけた。

「ごめん、待ってくれ、クリスティーナ……!」

 クリスティーナと呼ばれた少女は、愛しい恋人の声に、反射的に立ちどまりそうになった。しかし自分が怒っているのだと思い出し、つんと顔を反らす。

「いいえ、待ちませんわ……っ。アルベルト様は、どうぞお仕事をなさってください。私、もう失礼いたします……っ」

「待って。だからごめんって! 帰らないでよ、クー」

 アルベルトが歩みを速めそうな気配を感じ、クリスティーナはつい、小走りに廊下を渡った。二人が歩いているのは、王太子の私室がある、鳳凰殿から中央塔に繋がる廊下だ。右手には見事な薔薇の庭園が広がっており、いつもならその庭で、彼と散歩でもしている、夕刻の頃合いである。

 ――今日も一緒にお散歩がしたかったなあ……。

 クリスティーナは内心口惜しく呟き、しかし己の決意を示すべく、毅然と庭園から視線を逸らした。

「――あれ、お姉様?」

 不意に自分を呼んだ、耳慣れた声に、クリスティーナは小さく息を呑んだ。

 視線を向けると、中央塔から、鮮やかな緋色のドレスを纏った少女が歩み出てくるところだった。

 クリスティーナは咄嗟に足をとめる。漆黒の髪をくるりと巻いた少女は、クリスティーナと視線が合うなり、大きな黒色の瞳を輝かせた。

「わあ、お姉様。今日もいらっしゃっていたのね! もうお帰りになるの? アンナのお部屋でお菓子を食べて行かれない?」

 少女は喜色を浮かべ、両腕を広げて駆け寄る。生まれながらの気品と、愛されて育ったが故のお転婆な雰囲気を併せ持つ、この国の王女――アンナだ。

 クリスティーナは乱れていた息を吸い、柔らかく微笑み返した。いくら感情的になっている場面でも、王女に対して礼の一つもしないわけにはいかない。

「……アンナ様、ごきげんよ……っ……」

 苦渋の決断で立ちどまり、ドレスの端を摘まんで礼をしようとしたところ、追って来ていたアルベルトが、すかさず距離を詰めた。素早く腰に腕を回され、抱き寄せられる。

「クー」

 ふわりと甘い香水の香りが自分を包み込んだ途端、先程の記憶が蘇り、クリスティーナはぼっと頬を真っ赤に染め上げた。

 彼の胸に肩が触れているのも恥ずかしくて、クリスティーナは身を捩り、腕から逃れようとする。

「や……っ」

「クー、ごめん。お願いだから、帰らないで。僕はただ、君が可愛くて……」

 耳元で低く囁かれ、クリスティーナはあまりの羞恥に、瞳一杯に涙を湛え、叫んだ。

「耳元でお話しにならないで――!」

 クリスティーナの渾身の叫びは、造りのよい宮殿内に木霊した。自分の声が反響する音を聞いてやっと、クリスティーナは己の失態に気づく。

 宮殿内で大声を出すなんて、淑女にあるまじき態度だ。クリスティーナは震える手のひらで口を押さえ、恐る恐る、アンナと――愛する婚約者・アルベルトを見やった。

 大きな声に慣れていないアンナは、きょとんと瞬き、この国の王太子であるアルベルトは、何を考えているのか分からない、真顔で自分を見下ろしていた。

「……あ、……の……私…………」

 謝罪をしないと、とは思ったものの、今謝罪をしたら、ここまで一生懸命怒っていた自分の努力が無に帰すのでは、とも思う。

 クリスティーナが震えながらも、どう対処するか葛藤している間に、あっさり気を取り直したアンナが、口を挟んだ。

「なあに、お兄様。またお姉様を怒らせるようなことをなさったの?」

 腰に手を置き、出来の悪い弟でも見るような、冷淡な眼差しを注がれ、アルベルトは眉根を寄せた。目を眇め、妹を冷たく見返す。

「またとはなんだ、アンナ。それでは僕が、何度もクリスティーナを怒らせているようだろう。発言には気をつけなさい」

 お説教然と言い返されるも、アンナは眉を上げ、ふん、と鼻で笑った。

「あらそれじゃあ、今、お姉様を怒らせていらっしゃるのはお認めになるのね」

「……」

 アルベルトは口角を歪め、視線をクリスティーナに戻す。妹の発言を無視し、クリスティーナを熱く見つめた。今も尚、腰に回された腕は、がっちりクリスティーナを拘束している。

「ごめんね、クリスティーナ。今日はもうしないから、部屋に戻って式の話をしよう?」

 漆黒の瞳を揺らして見つめられ、クリスティーナは返答に窮した。

 いつもは凛々しく吊り上がった眉は、自分を気遣って垂れ下がり、その声はいつも以上に気遣わし気だ。

 ――アルベルト様にお気を遣わせるなんて……。

 従順なクリスティーナは、アルベルトの悲しそうな雰囲気に、思わず「はい」と返事をしそうになった。しかし返答をする直前、アルベルトの瞳の奥に、ちらっと獣じみた気配が見えた気がした。更には、腰に回された手にぐっと力が込められ、先程の経験が鮮明に脳裏を過った。




 クリスティーナは今、来年の春の挙式へ向けて、アルベルトと一緒に準備をしている最中だった。式に使うドレスの布地だとか、宝石、来賓へ送る招待状や礼状のサンプル品の確認をして、それぞれの担当者が選んだ最終候補から、どれを使うか二人で決定しなければならなかった。

 アルベルトが公務で忙しいので、負担をかけないよう、彼の部屋を訪ねているのだが、彼は式の内容にはあまり興味がなかった。部屋を訪れると、彼は相談するクリスティーナをにこにこと眺め、決まって「君の好きな物に決めたらいいよ」と言う。相談し甲斐がないので、少しは考えてくださいと毎度言っているのだが、ちっとも変わらなくて、最近不満だった。

 でも一緒にいられるだけで嬉しい、とも思っていたクリスティーナは、今日も彼の部屋を訪ねた。本当は、今日はちょっと無理だ、と言われていたのだが、明日業者に会う約束があったので、ほんの少しだけ、とお願いして会ってもらったのだ。

 公務が忙しいのかな、と考えていたが、会ってみたら、アルベルトはいつものようににこにこと話を聞いてくれた。話をしている内に、アルベルトはここ最近の常と変わらず、クリスティーナに口づける。その直後、クリスティーナは身を強張らせた。

 軽い口づけは、アルベルトの愛情を感じられるから、嫌いではない。だが、大人のキスは、心臓がどきどきして、意識が朦朧としてしまい、実はちょっぴり怖かった。

 だから今日も、触れるだけの口づけまではよかったのだけれど、それが深くなると、クリスティーナは緊張した。

『……ん、アルベルト様……もう』

 大人びた口づけをこれ以上与えられたらどうにかなってしまいそう、と思ったクリスティーナは、早々に降参の意を示した。

 いつもならぐっと何かを飲み込み、引いてくれるアルベルトはしかし、頬を染め、涙目で懇願したクリスティーナを見下ろして、溜息を吐いた。どうかしたのかしら、と見上げると、彼は息苦し気に、ぼそっと呟く。

『……だから今日は、会いたくなかったんだ……』

 クリスティーナは目を見開き、瞳一杯に涙を滲ませた。忙しい中、時間を割いてもらった自覚はあったが、会いたくないと思われていたとは、思わなかったのだ。

 傷つき、涙を零しそうになったクリスティーナは、彼の腕から逃れようとした。しかしアルベルトは無言でクリスティーナを抱き寄せ、耳元で優しく話しかける。

『ねえ、クー。君は本当に、罪深いくらい、可愛いよね……。すぐに涙目になるところも、本当に可愛い……。……可愛すぎる。可愛いね……』

 延々可愛いと囁かれ、クリスティーナは頬を真っ赤に染めた。

 愛情いっぱいの言葉が嬉しいのだけれど、彼の低い声が鼓膜を揺らすと、耳元からぞくぞくと震えが走ってしまい、わけが分からない。

 それに頭の片隅では、会いたくなかったと言うなんて酷いとも思った。

 忙しい中時間を割いて貰ったのは悪かったが、そもそも用紙の件は、ずいぶん前にアルベルトが決めると言っていた案件だ。

 アルベルトが前もってやってくれていれば、今日無理をして合う時間を設けて貰う必要もなかったのに、と気づいたクリスティーナは、眉根を寄せた。

 大体、アルベルトはいつだって何も決めず、クリスティーナに任せっぱなしだ。

 それなのに心ない言葉を投げつけられるなんてと、クリスティーナは不満を感じた。

 だが彼女の気など知らないアルベルトは、頬を撫で、再びその秀麗な顔を寄せてくる。また口づけが降り注ぎそうだ――と気づいたクリスティーナは、赤い顔のまま、視線を逸らした。

『……アルベルト様……っ。今日はもう、ダメです……っ』

 正直言うと、これ以上キスなんてしたら、どうにかなってしまいそうだった。これ以上はしちゃダメ、と彼を軽く睨んでから、もう一度視線を逸らした彼女は、瞬いた。

 たまたま視界に入った部屋の扉が、閉まっている。

 婚約者とはいえ、未婚の男女が一つの部屋で一緒にいるなら、扉は少し開けておくのが作法だった。

 いつもはきちんと開いていたのに、いつ閉まったのだろう。

 相談する時間が長くなったので、侍女に休憩を言い渡したところだが、侍女が戻って、扉が閉まっているのに気づいたら大変だ。監視を命じられている彼女は、もれなく父に報告するだろうし、報告を受けた父は、結婚式当日まで会うな――なんて命令を下すだろう。

 アルベルトと二人でソファに腰掛けていたクリスティーナは、慌てて扉を開けようと立ち上がった。

『クリスティーナ?』

 名前を呼ばれて目を向ければ、アルベルトが殊更に優しい眼差しで自分を見ていた。

 状況も忘れて、胸が高鳴る。大好き――なんて感情に見舞われるも、式に関するアルベルトへの不満も忘れていなかった彼女は、アルベルトの心ない言葉を脳裏に蘇らせ、深く考えず呟いた。

『……私、しばらくアルベルト様には、会いに参りません』

『え』

 彼女に手を伸ばし、引き留めようとしていたアルベルトは、ぴたっと動きをとめた。瞠目し、クリスティーナの表情から何か情報を得ようと視線を巡らせる。

 一方のクリスティーナも、唇を押さえ、――あれっどうしてこんなことを言ってしまったのかしら……? と己の言動に驚いていた。

 アルベルトは慌てて立ち上がり、クリスティーナに歩み寄る。

『あの、クー……? ごめん……キスが嫌だった?』

 クリスティーナは、キスじゃなくて、貴方の態度が気に入らないのです――と言っていいものかどうか迷い、黙り込んだ。

 アルベルトは焦った様子で続ける。

『その……ごめん。……今日の午前中は軍部の訓練でね……? 訓練の後ってちょっと、なんていうか、自我が……』

 何やら言い訳をしているようだが、クリスティーナは話を最後まで聞かず、扉へ向かって歩き出した。

 この際、キスはいい。でも結婚式については、真面目に考えて欲しいのだ。

 アルベルトは基本的に優秀な人で、判断に誤りなど感じられなかったから、クリスティーナは滅多に口答えしなかった。

 だが、今日は違う。

 彼女は後ろについてきた、大好きな婚約者を振り返り、きっと睨みつけた。常々感じていた不満を、今ここで言ってしまった方がいいと感じた。

『もっと、お式について、真面目にお考えください……っ。ご意見も下さらず、いつも私と……っ、む、睦まじくされるばかり……っ。最近のアルベルト様は、私、嫌いです……っ』

 キスでうっとり、朦朧としてしまう自分を思い出し、クリスティーナはそんな自分もどうなのかしら、と恥ずかしく感じて、首筋まで赤くした。

 そして大好きな婚約者に、嫌いだなんて嘘を吐いてしまった後悔も、胸に苦く広がる。

 予想だにしない反応だったのか、アルベルトは顔色をなくした。

 この世の終わりのような、絶望した彼の表情に気づいたクリスティーナは、すぐに「あ、嘘です」と言ってしまいそうになったものの、心の中で自分を叱咤する。

 ――だめよ、クリスティーナ。ここで怒らないと、きっとアルベルト様は分かって下さらないわ……!

 ここは、今後のお式の準備のためにも、怒っていると示した方がきっといい。

 クリスティーナは意識して眉を吊り上げ、ぷいっとアルベルトに背を向ける。そして毅然とした態度で部屋を出て行ったのだが、嫌いだなんて嘘をついた罪悪感に見舞われた彼女は、脱兎のごとく部屋から飛び出すことになったのだった。



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