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王子様 3


 シェーンハウゼン侯爵家の令嬢――クララは非常に積極的な女性だった。アルベルトの友人、エミールを籠絡し、彼を使ってアルベルトとの接触を図る。これまでそんなに積極的な女性が居なかったため、押されてしまって、つい来宮を許可してしまった。

 王宮のお庭を見てみたい、なんていうありふれた理由で、王子の時間を潰そうだなんて、大胆な女の子だ。十八歳になったアルベルトは、来年のクリスティーナとの婚礼も控え、政務と階級を変えられる予定の軍部、もろもろの準備で割と忙しい。

 片思い中らしいエミールの頼みでなければ、絶対受けていなかった。

 彼女は侯爵家へ養子に迎えられるまでの、一般庶民の生活について話してくれる。おいしいクッキーの作り方、手作りのコースター、レースの編み方、野菜の作り方や朝市の話など、アルベルトやエミールの知らない世界の話をして、楽しませてくれた。

 一般の生活を見られないため、彼女の話は参考になった。同時に、エミールが彼女のその目新しさに興味を覚え、整った容姿も手伝って、夢中になっているのだとわかる。

 だがアルベルトにとっては、それだけの女性だった。端々で感じる、クリスティーナへの嫉妬が、より彼女へ向ける眼差しを冷静なものにしたのかもしれない。

「この髪飾りも、実は手作りなんです」

「へえ、すごいね」

 湖畔を歩きながら、彼女は自分の髪飾りを指差す。レースと毛糸と石を、銀の台座に組み合わせた、翼の形の髪飾りだ。その出来がどうかはさておき、髪飾りが手作りできるという点に驚いた。

 薄青色のドレスを身に付けたクララは、照れくさそうに笑う。

「えへ。でも、クリスティーナ様が使っていらっしゃる髪飾りは、どれも一級品ばかりで、すごいなあ、って思っちゃいます。私なんて手が出ない、とっても高いお品ばかりなので、羨ましい、なんて」

「……そう……」

 アルベルトは、ことさら優しく微笑んだ。かちり、と胸の中で何かが鳴った。

 彼女はクリスティーナが羨ましいのだろう。自分が手に入れられないものを身に付けて、人目を惹きつける、生粋の貴族令嬢が。自分もその令嬢の一人になったという自覚は、まだ無いらしい。

 エミールが聞けば、即座に新しい髪飾りを買ってあげる、と言いそうだ。

「やっぱり、クリスティーナ様は、アルベルト殿下におねだりされるんですか? 高いものばかりだから、大変そうですけど……」

 その言葉に、アルベルトの中でまた、かちりと音が鳴った。

 心配そうに眉を下げて尋ねているが、その実、クリスティーナが傲慢な人間だろうという思い込みから来る質問だった。苛立ちを隠すために、笑顔を深める。

「どうかな。おねだりされることもあるけれど、可愛いものだよ。それに、彼女が選ぶ商品は、全てが高額というわけではないんだよ。彼女が気に入った、美しいものを、彼女は選ぶんだ」

「へえ、意外だなあ。お店で一番高いものばかり、選んでいらっしゃるんだと思っていました。庶民は駄目ですね。高ければそれだけでセンスがいい、なんて思っちゃいます」

「…………」

 アルベルトはこの会話に退屈を覚え、顔を上げた。そして、すぐに西の塔の外回廊に視線を吸い寄せられた。銀糸の髪がふわりと風に舞った。

「クリスティーナ……?」

 声を掛けたが、少し距離があったため、聞こえなかったようだ。彼女は薔薇園の方へ向かって行く。追いかけようかと思った時、彼女はこちらを優雅に振り返った。

 美しい彼女の顔に、笑みを浮かべようとして、頬の筋肉はそのまま凝り固まった。

 優し気な彼女の眉は、きりりと吊り上り、自分を愛しく見上げるばかりだったあの紫色の瞳が、憎悪を込めてこちらを睨みつけた。

「――――」

 全身の血の気が失せた。

 クリスティーナが、自分を睨んだ。ほんの一瞬だった。だがそれは、激烈なダメージを与えた。

 何がいけなかったんだ? と考えて、はっと隣の女の子を思い出した。

 到底彼女と同い年とは思えない、幼い考え方をした少女。異性として欠片も見ていなかったけれど、この状況は二人きりで散策をしているようにしか見えない。

 クリスティーナに勘違いをさせた。

 クララが口を押さえ、こちらを見上げる。

「大変……っ。クリスティーナ様、きっと誤解なさいました……。どうしよう、すごく怖いお顔で、私を睨んでいらっしゃいました……っ」

 ――何を言っているの。彼女は、僕しか見ていなかったじゃないか……。

 アルベルトが思いを口にするのを待たず、彼女は駆け出す。

「私……っ誤解を解いてきます……!」

「待っ……」

 引き止めるのが無駄に思える速さで、彼女は薔薇園へ駆けて行った。クリスティーナは、あんなに速く走れない。あれが生活の違いなのかと、どうでも良い事を考えていたら、エミールが戻ってきた。

「あれ、クララちゃんは?」

「……薔薇園に行ったよ。」

 何となく恨めしい気持ちで、アルベルトは友人を睨んだ。



 クララを追ってという体で、クリスティーナの姿を追ったアルベルトが、薔薇園へ到着すると、クララが悲鳴を上げていた。

 母と妹は呆然とクララを見守っている。多分、聞き慣れない大きな声に驚いて、反応できないのだろうと察しがついた。だが、クララの状況にはどんな想像も浮かばなかった。

 薄青色のドレスに紅茶がかかっている。クララの前には、空になった紅茶のカップを持つ、麗しい己の婚約者クリスティーナ

 エミールが眉根を寄せた。

「クリスティーナ様……?」

 その疑わしそうな声が意味するところを、察する。

 クララと二人で歩いていたアルベルトを見た彼女は、嫉妬をしたのではないだろうか。見たことも無い顔で、睨みつけて来たのも、そのためでは。

 喚くクララを侍女が連れて行ってくれたおかげで、場は静まった。

 しかし、彼女は嫉妬に駆られて茶をかけるような女性では――と考えた時、エミールがまた懐疑的な声を上げた。

「何があったのですか……?」

 ただの貧血だろうと応えるクリスティーナに、エミールがしつこく状況を尋ねる。

「そうですか……。だけど、どうして茶器をお持ちだったのです?」

 彼女は美しい笑顔を作った。長く共に過ごしてきたアルベルトには、それが作り物だとすぐに判断できた。

「カップが落ちそうだったので、掴んだのです。ご安心を。私はどんなことがあっても、女性に嫌がらせをするような、矜持の無い人間ではございません」

 確かにクリスティーナは、無様に嫉妬に狂うような女性ではない。だがエミールは信じ切れないという空気を醸し出す。

 まさか、ありえない、だが――と状況判断に迷ったアルベルトは、彼女の顔に未だ冷たい、怒りを見つけた。

 アルベルトは目を見張る。

 やはり誤解をさせてしまったのだろうか、と焦ったその時、冷たい――自分を愛していないような、凍りついた瞳が自分を睨んだ。

 アルベルトの頭は、冷静さを失った。一度ならず、二度までも彼女に睨まれたのだ。しかもその眼差しは、自分を見限らんばかりの鋭さだった。

 大切な自分の婚約者に嫌われたかもしれない、と恐怖を覚えた。

 こんな日が来るとは夢にも思っていなかったアルベルトは、奥歯を噛みしめる。

 内心の不安と焦燥とは反対に、口元は強がりの笑みを浮かべていた。

 恐らく、彼女は嫉妬のあまりクララに茶をかけてしまったのだろう。

「それにしては、私の婚約者殿は、随分とご立腹だ」

 混乱して口にした言葉は、我ながら最低だった。

 否定してくれ、という思いとは裏腹に、彼女はふいと視線を逸らす。アルベルトの言葉に何の反応も示さず、母と妹に挨拶をした。帰宅するために脇を通り抜けた彼女は、微塵もアルベルトを見なかった。

 彼女が怒っている。――本気で。

 それは分かるが、怒った彼女にどんな対処をしたらよいのか、アルベルトには全く分からなかった。

 会いに行って拒絶されたら、立ち直れない。万が一公爵邸を訪ね、正面から、大嫌いなどと言われたら――?

 幼い頃から大好き、と無邪気に自分を慕ってくれていたクリスティーナ。

 愛してやまない天使。

 自分に冷たい眼差しを注ぐ、母と妹にも気付かなかった。

 震えるほど混乱したアルベルトは、情けなくも、問題の解決を先送りにした。 

 


 アルベルトは、クララに手紙を書いた。

 あの日の状況を聞きたい旨と、欲しいものがあれば、好きなものを贈るという謝罪の意味を込めた手紙だ。まだ侯爵邸へ居住を移したばかりで、装飾品などが少ないと言っていたので、丁度良いだろうと思った。

 手紙を読み飛ばしたのか、クララからの返事には、あの日の出来事について何一つ情報が無かった。代わりに、一緒に街に行きたい、であるとか、もう一度王宮に行って、今度はどんな勉強をしているのか聞いてみたい、だといった要望が書いていた。

 これは遠まわしな謝罪要求かと思い、エミールを交えて街へ出かけ、彼女が欲しがった少し高価なケーキやお菓子、ささやかな髪飾りなどを買った。ささやかに徹したのは、同行したエミールが、率先して高級品を買い与えまくっていたからだ。

 彼女は恐縮しながらも、エミールをまんざらでもない表情で見るようになっていた。

 エミールの恋が成就しそうで、良かったと思う。


 しかし、自分の婚約者には、一か月も会えなかった。

 嫌われていたらと思うと、恐ろしくて二の足を踏んでしまったのだ。

 二人で出席予定だった夜会の日、精一杯、平静を装って迎えに行った。

 久しぶりに顔を合わせた彼女は、どうしようもなく美しく、そして機嫌が悪い横顔さえも愛おしかった。馬車の中で、感情のまま腰を引き寄せ、何とか会話をしようと、贈り物について尋ねてみた。

 機嫌窺いに贈った花は、花言葉に『永遠の愛』、『変わらぬ誓い』、『貴方しか見えない』という意味を持つ各種花を揃えたのだが、彼女は全く気付いていない。

 どんな花だったか尋ねても、答えられないところをみると、花そのものを無視されたのだろう。少し落胆してしまい、本音がもれた。

「やっぱり、花なんて贈るんじゃなかったな……」

 連絡を取らなかった間、アルベルトは悶々としていた。

 クリスティーナに会うのは恐ろしい。けれど彼女に気持ちを伝えたくて、何を贈れば良いか考えに考えた。考え過ぎて、わけが分からなくなって、結局、凡庸な花という選択肢を取った。

 やはり花なんかでは、彼女の気を惹けなかった。

 こんなにも君を想い、愛しているという気持ちを伝えたいのに、どうしたら良いのか分からない。

 十五歳の誕生日に贈った髪飾りも、これまで一度も使ってくれていない。やはりあれは、趣味が悪かったのだ。

 それなら、また別の髪飾りを贈ってみよう。この気持ちを伝えられるような――。

 アルベルトはきゅっと口元を小さくしたクリスティーナを、愛しく見つめた。

「次は、もっと別なものを贈るよ、クリスティーナ。貴方が気に入るような、ずっと高価なものを」

 未だに女性ものの商品を選ぶのは苦労するけれど、次こそは、クリスティーナに似合いの、最高の品を贈ろう――。

 そう言うと、きりりとした眼差しが向けられた。

「――高価なものであれば喜ぶとでも、思っていらっしゃるの?」

 アルベルトはくすりと笑った。

 そうだった――。クリスティーナは、高価なものが欲しいのではない。彼女に似合いの、趣味の良い品だけを選ぶ人だった。

 本当に難しい。大好きな君のために、何でもあげたいのに。

「悪い子だね……僕を困らせて」

 機嫌が悪くても、一緒に夜会に出向いてくれるだけで十分だった。

 ぷい、とそっぽを向いた仕草も愛らしく、髪の隙間から見えた首筋は、白く滑らかだ。

 久しぶりに彼女と言葉を交わせて高揚したアルベルトは、彼女に触れたい衝動を抑えきれず、従者の前で彼女の肌にいくつも口づけを落としてしまった。

 さすがにいつものように、可愛い反応を返してくれて、少しほっとした。


 

 だが、ほっとしたのも束の間、彼女の機嫌は急降下した。

 夜会の席で、クララは空気を読まず、アルベルトとの会話を終わらせようとしなかった。他の参加者たちが周囲でタイミングを見計らっているのを感じるが、隣にいるエミールが話題を振るものだから、延々話す羽目に陥る。

 更に、タイミングを見計らったかのように、ホールに流れる曲が間奏に入ると、彼女はダンスの話を始めた。

「私、もともと身分の無い立場だったので、人前でダンスをしたことが無いんです。侯爵様にはダンスの先生を付けて頂いているのですけど、まだ自信がなくって……」

 ダンスに誘って欲しそうな輝く瞳を向けられ、アルベルトは隣にいる友人を振り返った。

 ――お前が誘え。

 目でそう言ったつもりだったが、エミールはクララがアルベルトを注視していると気付き、こそっと耳打ちする。

「踊ってあげろよ。初めて踊るなら、お前くらい慣れた男が良いに決まってる」

 ――お前はそれでいいのか?

 自分が好意を寄せている女性を、他の男に任せるなんて、腸が煮えくり返るものじゃないのか、と思う。実際、クリスティーナが他の男の腕の中にいるのを見るだけで、アルベルトは嫉妬の炎に胸を焦がした。毎回、断腸の思いで彼女を他の男に譲るのだ。

 エミールは人の好い笑顔で、アルベルトの脇腹を小突く。

「ほら、誘ってやれよ。期待してるだろ」

 言われて見れば、確かに期待に満ち満ちた、子犬のような眼差しが自分を見つめていた。

 嫌だな、と思ったけれど、こんなに期待をされているのに、断るのも悪いかな、とも思う。

 相手は守るべき民から社交界へ上がってきたばかりの、右も左もわからない少女だ。ここで素知らぬ体を装って期待を裏切り、ずっと人前で踊れず、壁の花にさせてしまうのも、可哀想かもしれない。

「………………では、私と一曲いかがですか?」

 大分躊躇った後、アルベルトは彼女を誘った。

 クララは、人前で踊ったことが無いと言ったものの、非常に楽しそうに踊っていた。二曲目をリクエストされて迷ったが、まあ練習かと思って付き合うことにした。

 三曲目までリクエストをしてきた時、僕には婚約者がいるんだが――と困惑して、クリスティーナを探した。そして戦慄した。友人らと話していたはずの彼女が、会場のどこにもいなかったのだ。

 三曲目を強請るクララが面倒で、疲れたふりをすると、やっと諦めてくれた。疲れたと言えば、ダンスをしたいと求めた彼女の事だ、他の男と踊り出すだろう――と思ったのだが、なぜか休憩しましょうとついて来られてしまった。

 こちらの体調を気遣った様子だったので、無下にもできず、どこかで知り合いにでも任せよう、と考えていたアルベルトは、クリスティーナの友人達に近づいた。

 シンディとエレーナだ。彼女らは、こちらに気付くと、淑女の礼をしてくれた。いつもなら用件があっても、他愛ない会話をしてから切り出すが、一刻も早く彼女を見つけたかったアルベルトは、用件のみを口にした。

「すまない。クリスティーナはどこだろう?」

 シンディは扇子で口元を隠しながら、ちらりとテラスへ視線を向けた。

「テラスへいらっしゃいました……」

「じゃあ……」

 丁度良い。シンディとエレーナにクララを任せてもいいか尋ねようとしたところ、彼女たちはアルベルトの傍らに立っているクララへ、鋭い眼差しを向けた。

「……ごきげんよう。わたくし、シンディ・ルックナーと申しますわ」

 クララはにっこりと笑った。

「こんばんわ。私はクララと申します」

 ぴし、と音が鳴った気がした。家名を言わなかったクララに、生粋の貴族令嬢であるシンディの機嫌が、明らかに下降した。

「…………貴方、随分と殿下に良くして頂いていらっしゃるようですけれど、ご自分の立場を分かっていらして?」

 クララは分からない、という顔で首を傾げた。ここに置いて行ったら詰られるのだろうと察したアルベルトは、暗い気分になりながらも、爽やかに笑った。

「シンディ様。今夜のところはお目こぼしを」

「ま……」

 シンディは目を見開いて、不満げにしたが、社交界のなんたるかも怪しげな子供を、みすみす茨の中へ放置していくわけにもいかない。

「クララ様も踊りつかれたことでしょうから、テラスへ行きましょうか」

「あ、はい」

 仕方なく一緒にクリスティーナを探しにテラスに行くと、月光に照らされて、女神のごとき輝きを放つ彼女を直ぐに見つけた。同時に、その隣に見知らぬ男が立っているのにも気づく。刹那、アルベルトは殺意のこもった眼差しを男へ投げつけていた。

 その男は、王子の婚約者である彼女に睦言めいた言葉を吐き、髪に触れたのだ。

 ――殺すぞ。

 こちらに気付いた男は、敵意の無い笑みを返し、直ぐに身を引いた。

 苛立ちと共に彼女を見ると、彼女は何食わぬ顔でこちらを見返す。男が髪を触る意味など知らない、無垢な反応が憎らしかった。

「何をしているの……クリスティーナ?」

 低く尋ねると、彼女は柳眉をひそめた。

「踊りつかれたので、こちらで休憩をしていただけですわ。殿下こそ、いかがなさいましたの。可愛らしいお嬢様とご一緒なんて、羨ましいですわね」

 彼女の花弁のような口から、聞き慣れない嫌味が吐き出された瞬間、きん、と耳鳴りがした。――自分は、またクララと一緒にいる――。

 なんて最悪な人選だ。

 すまない、違うんだ。そう言おうとしたアルベルトを遮って、クララが口を開いた。

「クリスティーナ様。今、お話していらっしゃった方はどなたですか?とても仲が良いご様子でしたね」

 アルベルトの心臓は、凍りついた。

 公衆の面前で、なんというセリフを吐くのだ。

 クララの表情を見れば、どんな悪意も無い、純粋な興味を抱いた子供の顔がそこにあった。

 子供だ――彼女は子供なのだ。知識の乏しい、未熟な少女。

 だが――いくら社交界へ出たての、無知な少女でも、アルベルトの婚約者クリスティーナを貶めるような言葉を吐くとは――。

 フォローしなくては、と焦った。しかしアルベルトが動くまでもなく、公爵令嬢として教育されてきたクリスティーナは、この無礼な子供に淑やかな眼差しを向けた。

「……先日はご挨拶ができませんでしたわね。私はクリスティーナ・ザリエルと申します」

 それは全てを水に流すという、気位の高い貴族ではあり得ない、寛大な対応だった。

 クララは上位貴族令嬢であるクリスティーナの言葉を待たず、先に口を開いた。揚句、他の参加者に誤解を与える言動をとったのだ。その辺の貴族なら、打たれていてもおかしくない。

 更に、クララは挨拶を返したものの、またも家名を言わなかった。もはや家名を覚えていないのでは、と疑いを抱く。

 クリスティーナは家名すら言えないクララに、鷹揚に夜会を楽しんでいるかと笑んだ。

「あ、はい……。えっと、殿下にダンスのお相手をしていただきました。とてもお上手で、あっという間に終わってしまったので、もう一曲お願いしちゃって。お疲れのご様子だったので、テラスにお誘いしたんです。」

 ――テラスに誘ったのはアルベルトからだったが、まあそこは勘違いしてくれて良い。正確に伝えられると、要らぬ誤解を生みそうだ。

 しかしながら、クララと踊ったのは、不慣れな彼女が人前で踊るのに慣れるように、という配慮からであって、決して踊りたくて踊ったわけではない。

 そう主張したかったが、本人を前に何を言えよう。

 思わず、クリスティーナから視線を逸らしてしていた。

 彼女は柔らかな声で、クララに話しかける。

「そう。楽しそうで良かったわ。あなたとお話をすると、殿下の御心もほぐれているご様子です。ありがとうございます」

 クララは瞬きを繰り返した。

「えっと……どうしてクリスティーナ様がお礼を……?」

 ――彼女が僕の婚約者だからに決まっているだろう?

 信じられない気持ちで見下ろしたクララの表情に、アルベルトは内心舌打ちした。その眼差しには、どこか敵意があったのだ。

 思えば、クララはいつだって、クリスティーナの立場を悪くする物言いを選んできた。無知ゆえの所業かとも考えてきたが、これはあざとく(・・・・)も、修練された、彼女のテクニックだ。

 女神のように美しい婚約者は、こんな少女を連れていたアルベルトに、内心呆れ返ったのだろう。去り際に言われた言葉に、瞠目した。

「私、気分が悪いので、お先に失礼いたしますわ。殿下はどうぞ、お好きな方をお送りしてください。」

 アルベルトは、凛とした背中を見送るしかできなかった。



 まずい、と思った。このままでは彼女に愛想をつかされてしまう。

 クララに構っている場合ではない。

 しかし紳士として、煩わしくとも、クララをエミールに任せるまでは、しっかりこなした。

 大事な友人に、彼女はあまりお勧めしたくなかったけれど、クララに夢中になっている様子のエミールには言っても無駄だろう。二人で好きにしてくれ、と思う。



 翌日、自分の幼い頃からの思いを込めた花束を抱えて、彼女の屋敷へ向かった。花束を受け取ってくれた彼女は、やはり機嫌が悪そうだった。

 テラスへ案内されて、昨夜の事情を説明しているうちに、彼女を慰めていた見知らぬ男の話になってしまった。だが、昨夜の男には腸が煮えくり返る。王子の婚約者と分かりながら、髪に触れるとは――。

 ぽっと頬を染めた彼女の反応も気に入らず、アルベルトは彼女を繋ぎとめたい一心で、思い出の図書室へ案内してもらった。

 ザリエル公爵に会話内容を報告されるので、侍女は追いやった。

 先に書架の間に入り、本を読み始めていた彼女は、幼い頃と変わらない、アルベルトを信頼した瞳に戻っていた。

 優しい声音で話しかけられて、ほっとすると、自分の気持ちも幼い頃のそれに変わり、穏やかに話しかけられた。

 星座の話をたくさん聞かせてくれたクリスティーナ。星占いをして、アルベルトとの運命があまりいい結果にならなかったら、泣いてしまったクリスティーナ。

 ねえクリスティーナ。占いなんてあてにならない。だって僕は、いつだって君しか見て来なかったよ――。

 アルベルトの瞳は、形良いクリスティーナの唇へ注がれた。

 最近はずっと我慢していた。だけど今は二人きりだ。久しぶりに口付けてもいいだろうか。

 アメジストの美しい瞳に、自分が映し込まれた。潤んだ瞳は、今も自分を想っているように、揺らめく。

 ――クリスティーナ。ねえお願いだ。他の男なんて見ないでおくれ――。

 口先では昨夜の男について注意を促していたけれど、アルベルトの頭の中は、もうクリスティーナが好きで好きで仕方ない、ただの少年に戻っていた。

 潤んだ瞳で見上げられ、箍が外れた。彼女の唇は柔らかく、そして甘く、喉から甘えた声が漏れると、たまらなくなる。

 口内に舌を滑り込ませれば、彼女の意識はそちらに向けられた。彼女が気付かないのを良い事に、体中に触れた。クリスティーナとの口付けは、アルベルトにとって背徳行為だった。

 ザリエル公爵の言いつけを破り、侍女や執事の目をかいくぐって彼女に触れる。しかも、自分の欲望に近い形で、彼女を淫らに辱めるのだ。艶めいた彼女の表情も、声も、体の反応も、我を忘れそうに甘美だった。

 つい欲望のまま床に押し倒してしまって、彼女の怯えた声に我に返った。

 乱れた彼女の姿を改めて見ると、ため息が零れた。このまま抱きたい、と抱きしめたところで、忌々しい執事――ハンスが現れた。



「ああ、こちらにいらっしゃいましたか、お嬢様、アルベルト殿下」

 幼い頃から二人を知る、壮年の執事はクリスティーナを見る。

 しまった、ドレスは直したが、髪は整えてやらなかった。と気付いたが、隠しようがなかった。

 ハンスは、クリスティーナのドレスの乱れ具合から、どこまでか判断したらしい。

 まがい物の微笑みと、冷たい眼差しが注がれた。

「……アルベルト殿下。おいた(・・・)が過ぎますと、旦那様にご報告申し上げますからね」

 アルベルトは、ぎくりと頬を強張らせ、視線を逸らした。

 ザリエル公爵には、結婚までは一切触れるなと命令されている。

 幼い頃から親同然に接してきたザリエル公爵と、甘くない執事には、十八歳になっても強く出られなかった。

「わかっている……」

「お分かりでしたら、今後は侍女を強引に下げないよう、お気を付け下さいませ」

「…………」

 だがキス位、もういい加減許してくれてもいいじゃないかと思う。一拍の間も許さず、執事が質問を繰り返した。

「アルベルト殿下。今後は侍女を強引に下げないよう、お気を付け下さいますね?」

 アルベルトは敗北した。

「……ああ、気を付ける……」

「それと、最近、アルベルト殿下にはお嬢様の他に、想いを寄せるご令嬢がいらっしゃるとか」

 アルベルトは眉根を寄せた。

「何の話だ」

 涼しい顔で説明された内容に、脳天から全身へ電流が走ったような衝撃を受けた。

 自分が、あのクララに懸想しているような噂話だった。

 そんな話をザリエル公爵に知られたら、嬉々として婚約を破談にされてしまう。

 王の臣下であり、王命には背けなかったとしても、ザリエル公爵は能吏だ。長年培った手練手管で、娘の婚約など容易く白紙に戻せる。政務に携わるようになって、ザリエル公爵の有能ぶりは嫌というほど理解していた。

 焦るアルベルトを尻目に、ハンスは既に報告済みだった。

 そしてクリスティーナに、破談を勧めはじめる。先程まで情熱的に口付けを交わしていたはずの彼女も、何故か破談にご納得だ。

 ――待て。僕は絶対に、破談なんかにしないぞ。何年待っていると思っているんだ? 八年だぞ? 結婚するまであと一年弱だ。何があっても結婚してやる。

 内心をひた隠し、口づけについて言及すれば、彼女は愛らしく頬を染めた。

 しかし言うに事欠いて、「でも……殿方とのがたは好きでもない女性でも、口付けできるのでしょう……?」とアルベルトを疑う始末。

 アルベルトは、蓄積していた鬱憤を爆発させた。婚約者である彼女の前では、格好つけたいと思っていたが、彼女に疑われ、ましてや彼女の気持ちが自分から離れてしまうくらいなら、恥を忍んで全部を吐露する。

 そして叫んだ。

「いいか、僕が結婚するのは君だけだ! 君以外の女性と結婚するくらいなら、君を殺して僕も死ぬ……!」

 本気だ。クリスティーナは誰にもやらない。自分と結婚しない未来を彼女が選ぶくらいなら、彼女を殺して自分も死んだ方がマシだ。利己的――? 国家――? 知ったことか。

 彼女は若干引いている。だがもう良い。我慢も限界だ。

 結局、茶会の顛末を知ったのは昨夜だ。

 全ての歯車が狂いだしたあの茶会を正確に把握しない限り、問題の解決はできないと思った。

 だから母に口添えされて、固く口を閉ざしていたアンナを懐柔し、やっとのことで当時の状況を聞いた時は、怒りすら覚えた。

 全部クララが一人で勝手に起こした騒ぎだった。

 クリスティーナは、何一つ関わっていなかった。

 なのに、クララは傍若無人にもアルベルトから贈り物を要求し、クリスティーナの気分を害し、意図してか、意図せずしてかは知らないが、アルベルトから愛しい女神(クリスティーナ)を奪おうとしている。

 自分に聞けば良かったのに、と彼女は言うが、クリスティーナ本人には、恐ろしくて尋ねられなかった。誰に確認したのか問われ、アルベルトはずっと不安でたまらなかった質問をした。

「……アンナに……。一か月も連絡を取らないだなんて、捨てられるわよと言われた。ねえクリスティーナ。君は……僕を捨てたりしないよね……?」

「…………」

 愛らしい自分の天使は、成長するにつれ妖精のようになり、そしてとうとう女神の輝きを放つようになった。

 アルベルトが恋い焦がれ、愛してやまないクリスティーナは、即答しなかった。

 ――絶望だ……。

 世界が暗黒に染め上げられる。自分の襟首を掴んだハンスが、何か言っていたが脳が理解を拒否した。

 ――死ねる。

 だが死ぬ前に、とりあえず誰から殺していこうかと考え始めたアルベルトの耳に、可憐でいて、優しい、クリスティーナの笑い声が聞こえた。

 クリスティーナの笑い声はどんな状況でも素晴らしいな――と目を上げると、彼女は少し恥ずかしそうな、照れくさそうな笑顔で小首を傾げた。

「アルも、私と同じね」

 彼女が、久しぶりに自分を愛称で呼んだ。胸がじわりと温かくなった。

「クー……」

 呼び返すと、彼女の笑顔が深まった。

「私もね、クララ様との関係を聞くのが怖くて、勝手に諦めようとしていたの。二人して、いろいろ考え過ぎて、空回りしていたのね。私たち、似た者同士で、おかしいわね」

 全てを許してくれる、天女のような笑顔だった。執事の手から逃れ、本能的に彼女の体を抱きしめる。

「ひゃ……っ」

「クーお願いだ……っ。十六歳になったら、僕と結婚すると言ってくれ……!」

 君以外なんて、絶対に考えられない――。

 一目見た時から恋に落ちた。話せば話すほど、その無邪気な笑顔や、民を思う心広い貴族としての誇りや、決して身分に驕らず、勤勉に学び続ける姿に惹かれて行った。

 会うたび会うたび、恋をしていた。

 早く僕のものになって――その一念で、格好をつけて、頑張ってきた。

 この見てくれも、必死に身に付けた莫大な知識も、抱えきれない程の政務も、全てこなしてきたのは――あなたが誇れる夫となるため。

 だからどうか――僕の妻になってくれ。

 熱い思いを込めて抱きすくめた彼女は、ほんわりと、幼い頃と変わらない、嬉しそうな笑顔で頷いた。

「はい、喜んで」

 アルベルトの目尻に、涙が滲んだ。

 ――神様。

 アルベルトも、幼い頃と変わらない、ただ無邪気に喜ぶ、明るい笑顔を浮かべていた。


 拙作を最後までお読みいただきまして、誠にありがとうございました!

 ブックマーク、評価、ご感想、心より御礼申し上げます。


 恋に右往左往する女の子と男の子を書きたかったのです。

 重ねて拙作をお読みいただきました皆様に、厚く御礼申し上げます。

 本当にありがとうございました!



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