王子様 1
婚約者ができた、と聞いたのは、家庭教師が帰った後だった。
毎日五人の教師に、各九十分ずつ講義をしてもらっていたアルベルトの頭は、午後四時にもなると、多くの知識で満杯になり、ちょっと熱っぽくなる。
興奮状態の頭を冷やすために、冷えた茶を用意してくれた執事――ロナルドが流れるように口にした。
「――殿下。以前よりお話し申し上げておりましたが、ご婚約者様について、内定が出されたそうでございます。御休憩後、陛下の元へ参りましょうね」
齢五十になる執事は、シルバーグレーの髪をきっちりと撫でつけ、剃り跡が見当たらない、綺麗な口元に優雅な笑顔を浮かべた。
「うん。分かった」
嫌だという気持ちも、嬉しいという気持ちもなく、すとんとその言葉を受け入れられる。生まれた時から王子として育てられ、いずれは身分と教養を兼ね備えた婚約者を与えられると知っていたアルベルトにとって、特段特別なニュースではなかったのだ。
国王に呼ばれ、王の私室へ入ると、父と一緒に母も揃って暖炉脇のソファに腰かけていた。
婚約者について正式に知らせるのであれば、謁見の間が相応しいところだったが、まだ十歳の子供に仰々しくするのを嫌った国王夫妻による、独断の措置だ。
「父上、母上、参りました」
私室だったので、陛下とは呼ばずにそう申し出ると、二人はにっこりと笑んだ。
漆黒の髪に黒々とした髭が男らしい、アルベルトの父――ルーファスは、向かいのソファを示す。
「よく来たね、アルベルト。お座りなさい」
「はい」
三人掛けのソファはとても大きく、アルベルトが中央に座っても、あと四人は座れそうだった。
漆黒の豊かな髪に黒い瞳の母――マリアンネは殊更嬉しそうに瞳を輝かせ、ルーファスが口を開くのを待っている。
ルーファスは愛妻を愛しげに見つめ返したのち、アルベルトに向き直った。
「ロナルドから聞いているだろうが、今日はお前の婚約者について伝えようと思う」
「はい」
うきうきした二人とは相対的に、アルベルトは内心、もったいぶるなあ、と感慨も無く思う。
ルーファスは少し身を乗り出し、にっこりと笑った。
「なんと、ザリエル公爵の一人娘――クリスティーナ嬢が、お前の婚約者になることが内定した!」
「やったわね、アルベルト!」
マリアンネは嬉々として拍手までしてくれる。どうだ嬉しいだろう、という顔の父親と、最高よね、と言わんばかりの母親を見比べ、アルベルトは少年らしくない、大人びたアルカイックスマイルを作った。
「ありがとうございます」
マリアンネが眉を上げる。
「あら、嬉しくないの? クリスティーナちゃんよ?」
「そうだぞ、アルベルト。ごねる宰相をこの一年説き伏せて、やっとお前の婚約者にしてもいいと言わせたんだぞ! お父様は頑張ったんだぞ!」
父に至っては、自分の努力を褒め称えて欲しそうに身を乗り出してくる。しかしアルベルトは、曖昧に笑うしかできなかった。
一緒に部屋に来ていた執事――ロナルドが、極自然に口添えした。
「差し出がましいのですが、両陛下。アルベルト殿下はまだ、クリスティーナ様とのご対面が叶っておりません」
父と母はぽかんと口を開いた。アルベルトは国家の頂点に立つ二人の、間抜けな顔をぼんやりと見返し、頷く。
「ザリエル公爵は、王宮にお嬢様を連れていらっしゃいませんので、ぼくはクリスティーナ様について存じ上げません。けれど、大変光栄なお話に違いありませんので、謹んでお受けいたします」
ぺこり、と頭を下げると、二人は我に返った。
「そうだったか、マリアンネ?」
父の確認に、母は小首を傾げる。
「おかしいわねえ。王宮でのお茶会に、毎回はいらっしゃっていなかったけれど、私は何度かお会いしているのに」
そのお茶会は、貴族夫人たちの交流を目的にしていたが、貴族の子女を合わせて呼び、アンナの遊び相手兼、アルベルトの婚約者候補を選ぶという目的もあった。
「会ったことが無いのか? 本当に?」
会っているけれど、覚えていないだけじゃないのか、と聞かれても、アルベルトの記憶に、クリスティーナというご令嬢は無い。そして若干十歳ながら、聡明なアルベルトには、その裏事情もよく分かっていた。
ザリエル公爵夫人は、茶会の度に、顔を合わせると、申し訳なさそうにほほ笑み、娘が来ていないことを謝罪する。
いつだったか、一度、体調が優れないと聞いて、王宮内ですれ違ったザリエル公爵に、クリスティーナについて尋ねてみた。彼は慇懃に挨拶を返してくれたが、苦々しい眼差しでアルベルトを見おろし、たった一言、こう言った。
――『娘はお渡しいたしませんからな』
察する、というものだろう。
ザリエル公爵は、アルベルトと娘を会わせたくないのだ。
クリスティーナがいかに聡明で、愛らしい美少女かは、茶会に出席する貴族子女達から散々聞かされた。そして同時に、ザリエル公爵の溺愛ぶりについても、耳にしていた。
アルベルトが気に入った令嬢を指名すれば、婚約者はその人になる。万が一にもアルベルトがクリスティーナを指名しないように、ザリエル公爵は画策していたのだ。アルベルトが出席する茶会にだけは、絶対にクリスティーナを参加させないように――。
だが皮肉にも、これまで開かれた茶会の中で、これといってアルベルトの気を惹く令嬢はいなかった。特に婚約者に注文を付けずにいた結果、アルベルトに最高の女性を、と息巻いた両親により、クリスティーナに白羽の矢が立ったのだろう。
少し、ザリエル公爵が憐れだ。
アルベルトは苦笑した。
「お会いしたことはありませんが、お噂は沢山聞いています。とてもお美しく、聡明なご令嬢だそうですね。ザリエル公爵の、掌中の珠だとか。」
「それはそうなのだが……本当か?」
父は眉根を寄せ、ロナルドを見る。ロナルドは淡々と応じた。
「殿下がご出席された茶会には、一度もご参加が叶いませんでしたので、事実でございます」
やっと事情を察した父と母は、互いに目を見交わし、にっこりとほほ笑みあった。
「まあ、じゃあ私たち、とっても気の利く恋のキューピッドですわね、あなた。ザリエル公爵が一生懸命隠してきた宝石も、やっと日の目を見る時ですわ」
「そうだね、マリアンネ。アルベルトも、気に入るに決まっている」
能天気な会話をする二人だ。
自分が気に入ろうが、気に入るまいが、未来の正妃に相応しい女性なら誰でもいい。
これが、アルベルトの出した、情緒の無い答えだった。
婚約者となったクリスティーナとの顔合わせは、公爵邸で行われた。
本来であれば王宮に招き、挨拶をするものなのだが、最後の最後までごねた公爵により、当日、突然顔合わせを断られる可能性を危惧した父が、アルベルトを公爵邸へ向かわせたのだ。
異例中の異例。
宰相とはいえ、王の臣下であるザリエルに、最終的に拒否権は無い。国王が厳しければ、不敬罪で捕まっていてもおかしくないごねぶりだ。両親がなぜそこまでしてクリスティーナに固執するのかも分からないが、父が行けというなら、行こう、くらいの気分でアルベルトは公爵邸へ向かった。
宰相らしい、荘厳でありながら、華美になり過ぎない装飾の屋敷に到着したアルベルトは、客間に案内された。毛足の長い絨毯に、趣味の良い臙脂色のソファが置かれ、窓辺には小さな円卓があり、その上に美しい赤い花が生けられている。天井から垂れ下がるシャンデリアは、王宮で使用している物と同じだった。
執事と従僕を連れてきてはいるものの、国王と王妃が公爵邸を訪れるわけにもいかず、アルベルト一人での対面だ。子供一人で何ができるわけでもなく、顔を見て挨拶をしたらさっさと帰ろう、とアルベルトは淡泊に執事に言いつけていた。
さわさわと空気が揺れるのを感じて、自分が入って来た扉に目を向けると、公爵邸の侍女が扉を開いた。まず目に入ったのは、黒い燕尾服を身に付けた青年だ。黒髪にとび色の瞳。格好からすると執事なのだろうが、その顔は二十代そこそこに見えた。彼はちら、とこちらを見る。自分を値踏みする目だと瞬時に分かったが、アルベルトは泰然と彼を見返した。
彼はふい、と視線を己の背後に向け、身を屈める。彼の手を取ったのは小さな手のひらだった。
どき、と期待も何もしていないはずの、自分の心臓が跳ねる。
誰でもいいと考えながら、心のどこかでは、どんな子だろうと想像を巡らせていたのだ。クリスティーナについての噂は、どれも良いものだった。
たくさん聞いたのは、アメジストの瞳。次に聞くのは銀糸の髪。そして愛らしい顔、優雅な仕草。笑った顔は、天使だとまで。
噂に尾ひれがついて、随分と持ち上げられたご令嬢だ、と冷静に分析していた。きっと期待した分、それを裏切られるのだろう、とも。
若い執事に手を引かれて入って来たその女の子は、子供の癖に、流れるように優雅に部屋に入って来た。淡いクリーム色のドレスを身に付けた彼女の視線は、足元に落ちている。一歩動くごとにさらりと揺れる銀色の髪は、まさに銀糸だった。シャンデリアの光を弾き、作り物めいた輝きを放っている。
立ち上がったアルベルトの斜め向かいに立ってやっと、彼女は瞳を上げた。ゆっくりとこちらを見上げた女の子の瞳を見たアルベルトは、息を飲んだ。
大きな紫色の瞳は、まさにアメジスト。澄んだ紫色の瞳をこちらに真っ直ぐ向けて、彼女はほんの少し緊張した笑顔を浮かべた。
「……初めまして。クリスティーナ・ザリエルと申します。わざわざ足を運んでいただきまして、心より御礼申し上げます」
言い終わると、ドレスを摘まみ、礼を取る。若干七歳ながら、公爵令嬢としての気品を感じた。
幼い声は甘く、耳だけでなく、アルベルトの心臓にまで染み込む。優しそうな眉、弧を描く唇は紅をさしたように赤く、彼女の白い肌をより一層白く見せる。銀糸の髪に弾かれた光の瞬きが背景となり、自分より一回り小さな彼女を包み込んだ。
恥ずかしそうに笑った彼女は、天使そのものだ。
婚約の際、挨拶は男からするものだが、恐らく、公爵邸を訪ねさせた手前、先に挨拶するように言われていたのだろう。
アルベルトは、一目で恋に落ちた。
どきどきと鼓動を打つ心臓の音を感じながら、彼女の前に膝を折る。
「お会いできて嬉しく思います、クリスティーナ様。アルベルト・ノインです。この度は、私の婚約者となっていただけたとのこと。身に余る光栄です」
予定では、軽く挨拶をするだけなので、簡易な礼を取るだけだったが、アルベルトは騎士の礼を選んだ。貴方に首を差し出し、従う、という意味を持つ騎士の礼を、王族は好まない。だがこの姫を逃してはならない、と本能的に思ったアルベルトは、周囲の雰囲気も了解したうえで、この挨拶を選んだ。
自分を値踏みした執事、決して会わせようとしなかったザリエル公爵、公爵の意向には逆らわない公爵夫人。
最上級の誠意を示さなければ、あっさりと婚約話が流れてしまうかもしれない。
彼女の小さな手を取って、口付けを贈ると、びく、と手のひらが震えた。
怯えてしまっただろうか、と見上げた彼女は、美しい瞳を丸くして自分を見おろし、次いで首まで真っ赤に染めた。
――よし。
アルベルトは己の選択が正しかったと、内心拳を握る。彼女の反応は、明らかにアルベルトと同じく、相手に好意を抱いていた。
アルベルトは彼女に、己ができる最高の笑みを向ける。真っ赤になった彼女は、唇をわななかせて、視線を逸らした。とてつもなく可愛らしい、初心な反応だった。
立ち上がると、クリスティーナの隣に黒い影が現れた。銀髪に青い瞳の男は、小じわが目立つものの、五十代ながら未だ色香を漂わせる。高い鼻の下の唇が、僅かに笑った。
「ご丁寧なご挨拶、痛み入ります、殿下」
声音に若干の悔しさが滲んだ。
クリスティーナの父であり、ノイン王国宰相である――ザリエル公爵その人だった。
一通り挨拶を済ませ、アルベルトとザリエル親子はソファに腰かけた。座るなり、ザリエル公爵は口を開く。
「では殿下、私の娘を婚約者に、というようなお考えがあるのでしたら、私からお願いがございます」
お考えも何も、既に決定事項だ。国王による正式通知があったにもかかわらず、ザリエル公爵にとっては、未定事項らしい。言葉の端々に不本意である、という気持ちを滲ませながら、彼は真顔で言った。
「私の娘はまだ七歳でして。十歳である殿下にとっては、拙く、愛らしいと思われる点も多々あることでしょう」
親馬鹿な発言だ。
隣に座る少女を見る。きょとん、と父親を見上げる姿は無防備であり、猫かわいがりしたくなる愛らしさが溢れ返っていた。
ザリエル公爵の発言を否定もできず、アルベルトは曖昧にほほ笑む。ザリエル公爵の目が、かっと見開かれた。
「あまりの愛らしさに、遠からず、おいたをしたくなるものと思いますが、よろしいですかな。一切! 結婚するまで、一切! 私の娘においたを働いてはいけません! 万が一そのような事実があった場合、この私が如何なる手段を用いてでも、このお話を白紙に戻しますからな!」
「…………」
アルベルトの微笑みは、強固だった。
王子として培われた、外交能力を如何なく発揮させる最初の場所は、婚約者の父親に対してだった、という点だけは遺憾であるが、仕方ない。
クリスティーナは父親が何を言っているのかよく分からないようだ。あどけない顔で、首を傾げている。
返事を躊躇ったアルベルトを、鋭い眼差しが射抜く。正面からと、斜め向かいからだ。ザリエル公爵は当然だが、公爵邸の執事もまた、同じ考えらしい。とび色の瞳が冷え冷えと自分を見下ろしていた。
――すごくやりにくい……。
アルベルトは、時間を要したものの、穏やかに応えた。
「分かりました……」
「よろしい。王妃などという重責、本来であれば私の娘に課したくは無かったのですがね。では今後、娘との健全なお付き合いを許します」
もはや王の臣下の発言ではない。
父親としてのザリエル公爵に、婚約の許可を頂けたノイン王国王子・アルベルトは、この約束を守るつもりではあったけれど、天使を前に、彼の理性はたびたび決壊することとなった。