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 夜会の翌日、突然王子が公爵邸を訪れた。

 事前の連絡もなく訪ねられ、普段から客の対応に慣れている家人ではあったが、そこはかとなく慌ただしくている。

 玄関ホールで出迎えるなり、彼は満面の笑顔で薔薇の花束を押し付けてきた。

「やあ、可愛い僕の婚約者殿。ご機嫌はいかがかな?」

 嫌味ったらしくそう言われてしまえば、昨夜何かあったのだと公言したようなものだ。

 一人で帰って来たクリスティーナを、心配していた家人たちは、ほっと息を吐く。

 気分が悪くて先に帰っただけだと説明したが、とうてい納得していなかった。一緒について来た侍女には、他言無用だと言い聞かせていただけに、家人らの想像は翼を広げつつあったのだ。

 しかし、嫌味を言いながらも、王子がクリスティーナに会いに来たのなら、問題ないと思ったのだろう。

 薔薇の香りを楽しむ素振りで俯いたクリスティーナは、内心嘆息する。

 ――残念ながら、この王子様は、将来あなた達の『お嬢様』を袖にして、可愛い美少女を選ぶのよ。

 家人が準備をしやすいように、クリスティーナは庭に張り出したテラスに彼を誘った。天気も良く、外でお茶を飲むには良い気候だ。ただし、笑顔を崩さないアルベルトが相手でなければ、であるが。

 テラスに入るところで、薔薇の花束は、執事のハンスに渡した。ハンスは何故か、「紅色の薔薇でございますね」とクリスティーナに微笑んだ。それがどうしたの、と尋ねる前に、アルベルトに腰を引かれてしまって、結局、尋ねそびれた。



 向かいに座って庭園を眺めている彼は、侍女が茶を入れるのを黙って待っている。

 光沢のあるグレーのスーツをすっきりと着こなし、足を組んでいる。膝の上に軽く両手を組んで置き、柔らかな風に目を細めた。

「いい天気だね……」

 どんな気分の時でも、彼の全てが格好良く見えてしまうクリスティーナだったが、そのセリフには眉を上げた。これまで彼が天気の話を口火にしたためしはなかったのだ。そんな凡庸な話題を選ぶしかないなんて、よほど話題に困ったのだろう。

 クリスティーナは、ふう、と息を吐く。

「左様でございますね……。今日はどのようなご用件でいらっしゃったのですか?」

 彼はこちらを見もせずに、皮肉気に笑った。

「自分の婚約者の顔を見に来ただけだよ」

 ――その婚約者の立場は、近いうちに別の女の子にあげるのでしょう?

 クリスティーナは、おっとりとほほ笑む。

「ありがとうございます。殿下にお気遣いいただくなんて、心苦しい限りです。どうぞ私など、お気になさらないでくださいまし。」

 かちゃり、と茶器を置く音が聞こえた。侍女が二人分の茶器を置くと、彼は笑顔で命令した。

「ありがとう。もうここは良いから、下がっておくれ」

 ここは公爵邸だ。王子であっても、他人の家の侍女に命令を下すような無粋な真似は、通常してはならない。普段なら、どんな相手が命令しようと、公爵邸の人間に指示を仰ぐ侍女は、アルベルトの有無を言わせない気配に押され、無言で下がってしまった。

「随分、横柄ですのね」

 嫌味ったらしく非難すると、彼は聞き分けのない子供を諭すように、ゆっくりと言う。

「いつまで拗ねているつもりだい、クリスティーナ。あまり可愛げがないと、僕にも考えがあるよ」

 ひやり、と心臓が冷えた。その考えは――もう知っている。

 捨てる動機づけに、婚約者の非をあげつらうなんて、とても陳腐なお考えです事、と内心呟いて、クリスティーナは笑む。

「まあ、どんなお考えですの? 是非、お伺いしたいものですわ」

 彼は脅しも効かないと察し、額を押さえた。長い溜息を吐き出した後、低く話し始める。

「昨日のあれは……別に彼女と二人で過ごそうとしたのじゃないよ」

「……」

「気付いたら君の姿が見当たらなかったから、探しに行きたかったのだけれど、彼女がもう一曲と三曲目を強請るから、疲れたふりをしてホールから離れたんだ。途中でクララ嬢は別の知り合いにでも任せようと思っていた。……シンディ嬢とエレーナ嬢を見つけて、君の居場所を尋ねたら、クララ嬢を詰ろうとしたものだから、そこに置いてもいけず、一緒に連れて行くことになったんだ」

 あの時の彼女達なら、クララを糾弾してもおかしくない雰囲気だっただろう。友人を悪く言わないでと反論したくても、クララを詰る方が良くない態度だと分かる以上、何も言えなかった。

 あくまで君を探しに行っただけだと主張され、クリスティーナは言葉に詰まる。積もり積もった恨み言を、全部吐き出してしまいたい衝動を抑え、ぽつりと文句を言った。

「……私とは、いつも一曲しか踊って下さらないのに、あの方とは二曲も踊られたのですね。それも、ご自分からお誘いになって」

 彼は僅かに驚いた。軽く目を見張り、視線を逸らす。

「ああ……そう。見ていたんだね……」

「悪うございますか? 私は、いつだって貴方ばかりを目で追っておりますわ」

 思わず本音が零れてしまい、きゅっと唇を引き結ぶ。これ以上口を開いたら、感情的に泣き叫んでしまいそうだ。

 彼はクリスティーナからの睦言など慣れたもなのか、穏やかに応える。

「確かに僕から彼女を誘ったけれど、あれは彼女がダンスを習い始めたばかりで、まだ人前で踊った経験がないと話していたから……気を利かせただけだよ。まさか二曲目もお願いされるとは思っていなかったけれど、多分彼女は、同じ男性と何曲も踊ることの意味も、まだ知らないんじゃないかな」

 同じ男性と踊り続ける行為は、二人は恋仲だと周囲に伝える手段の一つだ。彼は苦笑する。

「さすがに、三曲も踊ってしまうと君に失礼だと思って、断ろうとしたら、君が居なくて慌てた。泣いてやしないかと心配して探してみれば、君は既に別の男に慰められていたけれどね」

「え……?」

 誰かに慰められた記憶など無くて、視線を上げると、アルベルトの笑顔があった。完璧な笑顔は、不機嫌さを表している。

「よくも僕の目の前で、他の男に髪など触らせてくれたね、クリスティーナ」

「…………」

 髪を触られた記憶はあった。

 フランツという、優しい人が気障に話しかけてくれたのを、今になって思い出す。彼は憂いのある目をした自分を放っておけなかった、といった言葉を囁いてくれた。あれは、慰め(・・)だったのかと、頬が染まった。

 ――勘違いしちゃったわ……。

 少しでも、異性として口説いているのではと思ってしまった自分が恥ずかしい。

「クリスティーナ。なんだい、その表情」

「え? あ……いいえ、なんでもありませんわ」

 赤くなった頬を冷やすために、手のひらで覆い隠した。

「……いいよ。じゃあ、ちょっと君の家の図書室に案内してくれる?」

 突然、図書室に行きたいと言いだして、にっこりとほほ笑んだ彼の目的は、全く想像できなかった。



 呼びつけた侍女も、突然の要望に首を傾げる。アルベルトは笑顔だ。

「ザリエル公爵邸所蔵の、星に関する図書を読みたいと思ってね。」

 クリスティーナの家には、大きな図書室がある。曾祖父は熱心に星について研究していたらしく、図書室の大半は、星に関する文献で埋まっていた。幼い頃から出入りしていたアルベルトは、その貴重な本を読むのが好きだったが、最近はあまり読んでいなかったように思う。

 訝しく思いながら屋敷の二階、父の書斎の隣にある図書室に向かった。部屋に入るなり、彼は侍女に礼を言った。

「ありがとう。あとは僕たちで探すから、大丈夫だよ」

「……それでは、私はこちらで……」

 部屋の扉前で待機すると態度で示した侍女に、彼はわざわざ扉を開いて退室を促した。

「大丈夫ですよ。本を読むから退屈なばかりですし。彼女の事はお任せください」

「…………」

 侍女はかなり長い間躊躇ったけれど、すごすごと部屋を出て行った。

 どうして侍女を邪魔者扱いするのかしら、と不思議に思いながらも、クリスティーナは書架の間に先に入って行った。一千冊の所蔵がある、この図書室は、本を焼かないために全ての窓にカーテンがかけられている。ほんのり差し込む太陽光を頼りに本を探すのは、なんだか秘密基地に潜り込んでいるようで、子供の頃はとても楽しかった。

「クリスティーナ?」

 入り口から見えないのだろう。自分を呼ぶので、クリスティーナはかつてと同じように彼を呼んだ。

「こっちよ。星占いのところ。でも、何かお探しになるのでしょう? どうぞお好きにお探しになって」

 声を辿りにアルベルトがクリスティーナのいる通路に顔を出した。昔読んだ星占いの本を手にしていたクリスティーナは、自分に向かって歩いてくる彼に、笑顔を向ける。

「見て、星占いの本。昔一緒に占いしたのよ、覚えてる?」

 最近、外でばかり会っていたため、心が乱れていたけれど、家の中で彼を見ると、どんな嫉妬も不安も抱く必要が無くて、安心できた。彼の目の前にいるのは自分だけだ。

 先程までの刺々しい態度が嘘のように、穏やかな声で話しかけたクリスティーナに、彼も優しく微笑む。

「……覚えているよ。僕と君の相性を占っていたよね」

 当時を思い出し、ぽっと頬が染まる。

「そうそう。貴方と私は波乱多き運命、試練を与える者、なんて出ちゃって、泣いちゃったのよね」

 ふと、なんて正確な占いかしらと思った。――波乱多き運命。試練を与える者。

 切ない恋だわ、とアルベルトを見上げる。思ったよりも近くにいた彼と視線が絡むと、彼は甘く笑んだ。

「クリスティーナ、覚えてる……? 僕たちは、ここで何度もキスをしたよね……」

「……っ」

 ファーストキスは、七歳の時。一緒に床に座って本を読んでいた。星座の形を知るのが楽しくて夢中になっていたクリスティーナが、ふと視線を感じて顔を上げると、アルベルトが真剣な眼差しで自分を見つめていた。そしておずおずと顔を近づけて、触れ合うだけのキスをした。

 それから図書室に来るたび、キスをしていた。執事や侍女に見つからないように、こっそりするキスは、とてもドキドキして、二人で作った秘密は最高に甘美だった。

 年頃になると、何となく気恥ずかしくて、図書室には足を運ばなくなったけれど。

 当時を思い出して赤く染まったクリスティーナの頬に、アルベルトの掌が添えられる。

「え?」

 まさか、そんなことのために侍女を追いだしたの、と瞳を丸くした。腰にもう一方の腕が回る。

「いいえ、そんな……」

 こんな薄暗い部屋でキスをするのは、なんだか危ない気がする。逃げようと後退すると、通路の壁に背中が押し当てられた。

「ア、アルベルト様……?」

 薄闇の中で一際闇深く染まった彼の瞳は、獲物を狙う肉食獣の気配を帯びている。

「やっと……僕の名前を呼んだ……」

「あ」

 殿下と呼ぶように気を付けていたのに。咄嗟に口を押さえると、彼は妖しく微笑みながら、その手をはがし取った。掴んだ手は、壁に押し付けられる。

「いけない子だね……クリスティーナ。そんなに僕の気を惹きたいの?」

「……そんなつもりは……」

 どうしてだろう。クララに心を奪われて行っているはずの彼は、今、どう見ても自分を壁際に追い込んで、捕食しようとしてる。

「あの男は誰だい?」

「あの男……?」

 ぽかん、と聞き返し、先程までのテラスの会話を思い出した。

「あ……フランツ様のことで……っ」

 名を呼ぶと同時に、唇を塞がれた。綺麗な漆黒の瞳が、自分だけを見つめている。唇の感触を楽しむ、柔らかな口づけをした彼は、そっと顔を離して目を細める。

「どうしてあの男に髪を触らせたの……?」

 唇に触れる吐息にどぎまぎして、クリスティーナの視線が彷徨った。

「あれは……お話をしていたら、私の髪の話になって、それでお触りになったのです……」

「そう……どんな話をしていたの……?」

 あの時を思い出すだけで、目じりに涙が溜まる。

 悔しくて、悲しくてたまらない気持ち。なのに、アルベルトは今も余裕の笑みで自分を見ている。自分ばかりが想っている状態が、理不尽に思え、顔を背けた。

「あの方は、私を月の女神のようだと褒めてくださいました。銀糸の髪だと、髪を梳かれて。殿下がこれまで一度だって、私におっしゃってくれなかったようなお優しい言葉をかけてくれたのです。私を美しいと、可愛らしいとおっしゃって下さったわ……っ」

 最後には声が震えてしまった。

 一度だってアルベルトは、自分を口説こうとはしてくれなかった。会うたびにドレスや宝飾品を褒めてくれるけれど、クリスティーナそのものが欲しいとは言ってくれない。

 独り占めしたいのはクリスティーナばかりで、他の男性と踊ってもアルベルトは顔色一つ変えない。

「ふうん……」

 詰まらなそうな、冷たい声音だった。見上げると、彼は微笑んでいたけれど、瞳は笑っていなかった。

「月夜に照らされる貴方は、まるで月の女神のようだ。……貴方の澄んだ瞳が憂いに染まっているのを見つけて、放っておけなかった私をお許しください。あなたは……可愛らしい」

 形良い唇から、あの日の彼の言葉が繰り返された。信じられず、目を見開くと、アルベルトは笑みを深めた。

「こんな言葉はね、クリスティーナ。夜会に出席する男なら、誰だってするりと吐いてしまえる、どこにでもある褒め言葉だよ。女を落とそうとする男の、常とう手段だ。」

「…………そうなの……?」

 口説かれた経験がないクリスティーナは、否定されれば、そうなのだと思ってしまう。ほんの少し意趣返しができればよいと思って、彼の言葉を出しただけなので、特に強く言い返す気にもならなかった。

 アルベルトは困った子だ、と言わんばかりに首を振る。

「あんな上っ面の言葉に流されないでおくれ。それも……僕の目の前で君を口説くような、立場をわきまえない男などに……」

「あ……見ていらっしゃったのね……?」

 どこから見ていたのかしら、と目を逸らした。大好きなアルベルトを取られてしまうと、嫉妬に歪んだ顔なんて見せたくなかったのに。

 彼はちろりと瞳を上げる。少し機嫌が悪そうな目つきだった。

「見ていたよ。悪いけれど、どんな人混みの中でだって、僕は君を見つけ出せる。そして君の近くに男が居たら、殺してしまいたくなる」

「…………」

 なんだか、最後の方が上手く聞き取れなかったみたいだわ――。

 クリスティーナは、銀糸の髪を耳にかけ、小首を傾げた。

「ごめんなさい、上手く聞き取れなかったみたい。今、なんと……」

「君の近くに男が居たら、殺したくなる。君が僕以外の男を選ぶなら、君が選んだ男を全員殺して行ってしまうから、覚悟してね」

 にっこりと笑って言うにしては、とても黒い内容だった。これもまた、聞き間違いかしらと、つられて微笑み返すと、彼は顔を近づけてきた。

「わかった……?もう、僕以外の男に、髪の毛一本だって触らせてはいけないよ……」

 アルベルトはクリスティーナの返事を待つつもりは無いようだ。混乱してただ見つめ返すだけのクリスティーナを良い事に、体を密着させる。

 うっとりするほど美しいアルベルトの顔が間近まで迫ると、クリスティーナの瞳は、反射的に潤んだ。彼の吐息が触れるだけで、心臓が高鳴る。唇がゆっくり重なると、もう何も考えられなかった。

 優しく、唇の感触を楽しむように、何度も啄む。音を立てて唇を吸われ、熱に浮かされた状態になったクリスティーナの唇が、うっすらと開くと、彼は慣れた動作で更に深く口付けた。

 口づけをしている間は、いつも何も考えられなかった。年齢を重ねるたびに、その口付けは熱さを増して行き、彼の掌が体に触れると、ぞくぞくと震えが走る。

「……っん、んぅ……っ」

 耳の裏を撫で、首元から背筋へと手のひらが辿って行く。もう一方の手は脇の下から腰に掛けてしっとりと撫で降ろしていった。

 アルベルトが狂おしげに名を呼んだ。

「……クリスティーナ……っ」

 これ以上隙間が無いほど体を密着させ、クリスティーナの全てを貪りつくそうとしているかのようなキスだった。けれどこれも、そう長くは続かない。

 いつも耐え切れなくなったクリスティーナが、くたりと力尽きて、二人の逢瀬は終わるのだ。

 最近はキスそのものが無かったため、免疫が薄くなっていたクリスティーナは、息も絶え絶えになってしまった。

 濡れて赤くなったクリスティーナの唇を親指の腹で拭い、アルベルトは物足りない顔をする。クリスティーナは、余りの刺激に立っていられなくなり、ずるずると壁沿いに腰を落としていった。

「もうちょっと、してもいい……?」

 その場にへたり込んでしまったクリスティーナは、情けない声を上げた。

「へ? あ、きゃっ」

 アルベルトは、あろうことか、座り込んだクリスティーナの膝を割って、その間に体を滑り込ませた。軽々とクリスティーナの体を反転させ、床に押し倒す格好で、もう一度唇を奪う。

 ――こんなところ、誰かに見られたら……っ。

 「ん、ん、んん……っ、あ……っ」

 彼の掌が膝頭を撫でた拍子に、スカートがめくれた。クリスティーナはびくりと震え、キスから逃れる。

 だがアルベルトが止まる気配はなく、耳元にキスされそうになって、クリスティーナは涙目で訴えた。

「だめ、ダメ……っ待って、アルベルトさま……!」

 必死な声を聞いた彼は、ぐっと動きを止める。組み敷いた状態のクリスティーナを見おろし、溜息を吐いた。

「うん……そうだね……。これ以上続けたら、最後までしてしまいそうだ……」

 ――最後までって……?

 黒曜石の瞳は、常にない、情欲でけぶっている。

 まだ物足りなさそうな、獣の眼差しが、乱れた髪や露わになった肩口、そしてスカートがめくれて日の目を見た、白く滑らかな足を舐めるように眺めた。

 彼は、はあ、と熱のこもった溜息を落とすと、ぎゅっとクリスティーナの体を抱きしめる。

「クリスティーナ……」

 アルベルトが何か言いかけた時、かちゃりと図書室の扉が開く音が聞こえた。



「……っ」

 アルベルトはさっとクリスティーナのドレスを整え、力が入らない状態の彼女の脇の下に手を差し込むと、ひょいと立ち上がらせた。

 へろへろの状態だったクリスティーナだったが、なんとか自力で立てた。合わせたような絶妙のタイミングで、執事のハンスが、二人がいる通路を覗いた。

「ああ、こちらにいらっしゃいましたか、お嬢様、アルベルト殿下」

 幼い頃から二人を知る、壮年の執事はクリスティーナを見る。

 クリスティーナは、乱れた髪がそのままだったと、慌てて手で直そうとしたが、時すでに遅しである。

 彼は髪については言及せず、クリスティーナの全身にさっと目を走らせると、穏やかな微笑みをアルベルトに向けた。

「……アルベルト殿下。おいた(・・・)が過ぎますと、旦那様にご報告申し上げますからね」

 アルベルトは、ぎくりと頬を強張らせ、視線を逸らした。

 クリスティーナの父は、宰相の立場ではあるが、娘を愛してやまない。王子の婚約者にと娘の名があげられた時は、この世の終わりのような顔をしたそうだ。

『王妃の立場なんて重責だ。辛いと思ったならいつでもお言い。お父様が何とでもしてあげる』というのが、婚約してからの父の口癖だ。

 そんな父に、節度ある交際を――とは言わず、結婚まで娘には一切手を出さないように――と幼い頃からきつく言いつけられているアルベルトは、自分の行いがザリエル公爵の勘気に触れることを重々承知していた。悪ければ、結婚まで一切顔を合わせられなくなる可能性が高い。

「わかっている……」

「お分かりでしたら、今後は侍女を強引に下げないよう、お気を付け下さいませ」

「…………」

 幼少時代から彼を知っている執事は、決して遠慮をしない。アルベルトが不敬罪だ、などと言い出さない人間と知ったうえで、注意に留まらず、脅しをかける狡猾な人だった。彼は少し、父に似ている。

 彼にとって大切なのはザリエル公爵であり、その娘のクリスティーナで、昔からアルベルトには点が辛いのだ。

 返事をしなかったアルベルトに、ハンスは首を傾げる。

「アルベルト殿下。今後は侍女を強引に下げないよう、お気を付け下さいますね?」

 返事をするまで梃子てこでも動かない彼に、根負けしたアルベルトは、ぼそっと応じた。

「……ああ、気を付ける……」

「それと、最近、アルベルト殿下にはお嬢様の他に、想いを寄せるご令嬢がいらっしゃるとか」

 クリスティーナは突然の話題に総毛立つ。アルベルトは眉根を寄せた。

「……!」

「何の話だ」

 ハンスは涼しい顔で、不機嫌な表情のアルベルトを見つめ返す。

「おや、ご存じではないのですか。大層有名なお話でございます。さる侯爵家のご令嬢を、王宮にお召しになったり、定期的に贈り物をしたりと、お心を砕かれていらっしゃるとか。お嬢様がありながら別の女性へ目を向けられるような殿方には、お嬢様をお幸せに出来ないと思いましたので、このお話は既に旦那様にご報告を……」

「したのか!?」

 珍しく、アルベルトが声を荒げた。ハンスは頷く。

「いたしました。見たところ、お気づきでいらっしゃらなかったご様子ですが、ご自身の噂にも気づかぬような粗忽者に、用はございません。早々に噂を収拾なさるか、お嬢様を諦めて、侯爵家ご令嬢とご結婚なさるかお選びください。私は、お嬢様の御心を痛めつけるような男は、嫌いでございます。」

「――――っ」

 アルベルトは、何に反論したら良いのか分からないという、憤怒の形相だった。

 大胆にも、あけすけに物申した執事を、クリスティーナは驚きを通り越して、呆気にとられて見上げる。しかし同時に、ほっとした。

「そう……お父様も、ご存じなのね……」

「はい。大変心苦しくはございましたが、私共はお嬢様のお幸せを第一に考えております。お嬢様、世の中では、初恋は実らないもの、と申します。例え今はお辛くとも、お嬢様であれば国一番の、素晴らしい殿方が見つかるはず。どうか一時の感情に躍らされませんよう、心よりお願い申し上げます」

 ハンスの言葉は、何故かすとんと胸に落ちた。

 生まれて初めて好きになった人を、別の女性に奪われてしまう運命に嫉妬の炎を燃やし、同時に憎しみを煮えたぎらせていた。けれど、恋なんて実らない方が多いと聞く。一国の王子という、高嶺の花よりも、どこかに自分だけを見てくれる男性がきっといると、素直に考えられた。

 クリスティーナは、淑やかにほほ笑んだ。

「そうね……ハンス。ありがとう……」

「いいえ、過ぎた干渉をお許しください」

 ハンスも父親然とした笑みを返してくれる。二人の間に、納得の空気が流れたが、アルベルトがその空気を裂いた。

「待て。どうして勝手に、破談の方向へ話を進めているんだ……?」

 クリスティーナは、きょとんと眉を上げる。

「え? だって……殿下はクララ様に惹かれていらっしゃるのでしょう?」

 アルベルトは、頭痛がするのか、小さく呻いて額を押さえた。

「まあ、殿下、どうなさったの……? お体の調子がお悪いの……?」

「……また『殿下』呼びに戻っている……」

 彼はじっとりとクリスティーナを見る。

「あのさ、僕たちさっきまで、ここで熱く口付けしてたよね……?」

「あ……」

 先程までの色めいた行為を思いだし、ぽっと頬が染まる。けれど――。

「でも……殿方とのがたは好きでもない女性でも、口付けできるのでしょう……?」

 茶会などでは、浮気をする男性の話も良く聞いた。男性は心を伴わずとも、女性とそのような関係になれる、とも。

 アルベルトもきっと、心はクララに向かっているけれど、何となく昔を思い出して、キスをしただけなのだろう。とても情熱的で、ちょっと怖くて、でも蕩けるような素敵なキスだったけれど――。

 アルベルトは信じられない、と両手を広げてクリスティーナに詰め寄った。

「僕をそんな薄情な男だと思っていたの? 僕からキスするのは、君だけだ。ダンスだって、踊りたいと思うのは君だけだし、この間クララ嬢と踊ったのだって、いろいろ説明したけれど、結局のところは、エミールが横から彼女を誘えと煩かったからだ。彼女は僕に好意を寄せているようだったから、本当は嫌だったよ……! いいか、僕が結婚するのは君だけだ! 君以外の女性と結婚するくらいなら、君を殺して僕も死ぬ……!」

 ――最後の方の言葉が、やはり良く聞き取れなかったようだ。

 ゲームの世界では腹黒かったのに、目の前にいる彼は、なんだか一歩間違えると病んだ人に――。

 じりじりと後退していったクリスティーナは、再び壁際に追い詰められていた。

「もとはと言えば、君が原因なんだよ」

「え……?」

 彼は口惜しそうに顔を歪める。

「いや……ごめん。君は悪くないよ。だけど、クララ嬢に挨拶をされた夜会で――」

 アルベルトが恋に落ちた日だ。普段、社交界では見せない笑顔で、クララに挨拶をしていた。

「クララ嬢が挨拶に来たとき、彼女が付けていた髪飾りがほんの少し、僕が君に贈った髪飾りに似ていると思ったんだ。そこで君が贈った品を身に付けていないとも気付いて、血の気が引いた」

「――それは……」

 なんだかやる気が出なかったし、恋敵役の女の子が付けていた髪飾りなんて、身に付けるのも億劫になってしまったので――なんて言えない。

 アルベルトは悲しそうに眉を下げる。

「君が僕からの贈り物を身に付けないなんて、初めてだった。そんなに趣味の悪いものを贈ってしまったんだろうかと考えて、頭が真っ白になった。あの日は、軍部の視察が被ってしまったから、君の反応を直接見ることもできなかったし……。この国の流行を作っている君に、センスが無いだなんて思われていたらどうしようと考えたら、上手く頭が回らなくなって、咄嗟に、あの子を助けてあげるようなことを言ってしまったんだよ……」

「ま、まあ……そうでしたの……」

 額にじわりと汗が滲む。

 この国の流行を作っている気なんて全くなかったけれど、彼は相当気を使って、クリスティーナへのプレゼント選びをしていたようだ。

 てっきり、恋に落ちて、クララ嬢の手助けをしたかったのだと思っていたのだけれど、それも実際のところは、動転して口が滑っただけ。

 アルベルトはクリスティーナの顔の横に両腕を付き、逃げ場所を奪う。

「馬鹿な言葉を吐いたせいで、クララ嬢には勘違いをさせてしまったようだし」

「勘違い……?」

「僕が彼女に気があるように思ったみたいだった……。彼女は積極的だよ。僕の言葉を真に受けて、エミールと一緒に王宮に遊びに来たいだなんて言いだした。エミールは彼女に惚れこんでいるようだったから、エミールと一緒なら良いかと思ったら……君と鉢合わせをしてしまうし……最悪だよ……」

 全てシナリオ通りに事が運んでいたけれど、当の本人に言わせれば『最悪』。

「贈り物を贈ったり、王宮に呼んだりしたのは、母上たちとの茶会の席で、君と彼女の間に諍いがあったのだと、勘違いをしていたからなんだ……」

「え……?」

 彼は苦しげに顔を歪め、視線を落とす。

「てっきり僕と二人で歩いていた彼女に嫉妬した君が、茶をかけたのだと……。君がそんな真似をするはずが無いと気付いても良かったのだけれど……エミールがそうに違いないと思い込んでいて……流されてしまった。だから、詫びのつもりで彼女の欲しいものを贈ったり、彼女がまた王宮に来たいと言うから招待したりしたんだ。全部……君のためだと思って……」

「……まあ。王妃様やアンナ様に、事の次第をお伺いになりませんでしたの?」

 随分な暴走っぷりだ。

「聞いたけれど……君に聞くようにと言われて……」

「……じゃあ、私に尋ねられればよろしかったのに」

 アルベルトは眉根を寄せた。

「だが……あの日は、君はとても怒っていただろう。君が僕を睨むなんて初めてのことで……動転した……」

 確かに、あの茶会の日まで、クリスティーナは輝く瞳でアルベルトを見つめても、睨むなど、想像もできない少女だった。けれど、あの日の時点で、運命を知っていたクリスティーナの心は、十分に嫉妬の炎でどす黒く染まり、アルベルトを信用していなかった。

 しかし、動転したとしても、後で質問は出来たと思う。

「でも……ご質問頂ければ、お答えしましたわよ」

「…………」

 返事がない。

「結局、どなたにお伺いになったの?」

「……アンナに……。一か月も連絡を取らないだなんて、捨てられるわよと言われた。ねえクリスティーナ。君は……僕を捨てたりしないよね……?」

「…………」

 捨てようとしていたのはアルベルトの方だと思っていたので、クリスティーナは咄嗟に何も言えなかった。怒涛の勢いで全てをさらけ出され、あまりの情報の多さに、すこし混乱していた。

 アルベルトがその瞳を絶望に染め上げた時、のっそりと現れたハンスが、彼の首根っこを掴んだ。

「要するに、お嬢様に嫌われてしまったかもしれないと恐ろしくなり、確認もできず、ただ漫然と侯爵令嬢へ貢物みつぎものをしていただけの、腰抜けです」

「まあ……」

 ――そう言われれば、そうね、ハンス。

 アルベルトは否定せず、大人しくクリスティーナから引き離された。

 いつも余裕綽々の態度を取っていたアルベルトだが、中身はクリスティーナと大して変わらなかった。相手のためだと行動し、その実、本人には怖くて確認もできず、空回る。

 しょんぼりと俯く様は、追いかけっこに夢中になり、庭園のお花を台無しにしてしまって、二人でハンスに怒られた子供時代と同じだった。

 クリスティーナは、なんだかお互いに勝手に思い込み、あさっての方向に行動していたのがおかしくて、ふふ、と幼い頃と変わらない、無邪気な笑顔を浮かべた。

「アルも、私と同じね」

 アルベルトが目を上げる。

「クー……」

 昔の愛称で呼び合うと、胸がじわりと温かくなった。

「私もね、クララ様との関係を聞くのが怖くて、勝手に諦めようとしていたの。二人して、いろいろ考え過ぎて、空回りしていたのね。私たち、似た者同士で、おかしいわね」

 全てを許す、彼女の笑顔を見た途端、アルベルトはハンスの手から逃れ、勢いよくクリスティーナを抱きしめた。

「ひゃ……っ」

「クーお願いだ……っ。十六歳になったら、僕と結婚すると言ってくれ……!」

 恋い焦がれた愛しい人は、ちっとも情緒のない、勢いばかりのプロポーズをした。

 けれど、それでも、好きな人に求められて嬉しかった。クリスティーナは、ぽっと頬を染めてはにかんだ。

「はい、喜んで」

 幼い頃から恋してやまなかった王子様は、クリスティーナの返事を聞くと、意外にも涙ぐみ、屈託なく笑った。

 幼い頃は、こんな笑顔をよく見ていた。昔を思い出したクリスティーナの胸は、またときめく。

 格好いいアルベルトも好きだけれど、素直に自分を求めてくれる彼は、少し幼くて、抱きしめたくなる。

 どちらのアルベルト様も――大好き。

 クリスティーナはドキドキしながらも、どうしてこんな結果になっているのかちっともわからなかった。でも、これがあのゲームのバッドエンドだとしたら、悪くないかも、と胸の中で呟いた。

 ハンスが少し離れた場所で微かに笑い、しばらくすると、いつまで抱擁するつもりですかと、クリスティーナからアルベルトを引き剥がした。



 後日になって、ハンスが、こっそりと教えてくれた。

 紅色の薔薇の花言葉は、『死ぬほど恋焦がれています』だった――。



 以上で本筋を終了いたします。

 次回より、王子サイドのお話をアップいたします。

 表現は省略気味となっておりますが、クリスティーナ側からは見えなかったものを書いたつもりです。

 彼のことを知っていただけると嬉しいのですが、読んでやるよという心広い方がいらっしゃれば、是非お願いします。


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