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運命って意地悪なものね。
クリスティーナは頬杖をつき、運命の神様に悪態をつく。
王宮の茶会では、嫌味を堪えたものの、結果的にはまるでクリスティーナが嫉妬に目を眩ませて、クララのドレスを汚したような印象を与えて終わった。
王妃様もアンナも終始見ていたけれど、彼女達があの状態をより詳しく話しているという保証なんてない。
妙な期待を抱いて絶望するよりも、悪い方に考えた方が楽だ。
その証拠に、あれから一度もアルベルトから連絡はなく、一切交流は無い。
茶会の後の一か月間は、クララとアルベルトが地道に逢瀬を重ね、好感度を上げていく期間だ。王宮を訪ねて勉強をしたり、会話の選択肢を間違えなければ、偶然街で顔を合わせてショートデートをしたりできる。
好感度が上がれば、アルベルトから贈り物が始まり、流行のお菓子や、花束、果ては宝石に至るまで貢がれていく。
ゲーム内では、デートできないようにクリスティーナが手を回して、クララの馬車を動けないようにしたり、王宮内で会えなくするため、同日に王子を訪ねたりという展開だったが、当然そんな真似はしなかった。
したところで、動かなくなった馬車の代わりに、王子が王宮御用達の馬車を使って迎えに行くのだし、王宮内で鉢合わせのイベントでは、王子はクララを選択するのだ。
茶会に参加すると、時折、王子の話が上った。先日は髪飾り、別の日には菓子を贈ったそうだと、見張りでも付けているのかと疑いたくなるような、詳細な情報を聞けた。
本日は、クララが王子から踊りを請われ、大々的に二人の仲が知れ渡るイベントの夜会だった。そして、休憩を兼ねて飲み物を王子に勧められた先のテラスで、クリスティーナと鉢合わせをする。また二人で行動していた様子を見たクリスティーナは激怒し、クララの頬を叩きつけるものの、王子が介抱して、より二人の恋は進展するという、メロドラマな展開である。
窓辺の席で、物憂げに空を見つめていたクリスティーナに、侍女がそっと声を掛ける。
「お嬢様……そろそろご仕度を」
クリスティーナはふう、と一つ溜息を落とすと、沈んだ気分のままそっと笑んだ。
「そうね……」
窓から差し込む光を受けて煌めいた銀糸の髪と、憂いを湛えたアメジストの瞳。白い肌を浮き立たせる珊瑚の唇が柔らかな弧を描くと、本人の気分に反し、色香溢れる最上の女神が降臨したような、神々しさがあった。
侍女はその美しさに飲まれ、瞬き身動きを忘れたが、すぐに自分の仕事を思いだし、主人に訝しがられずに済んだ。
定例通り、アルベルトはザリエル公爵邸にクリスティーナを迎えに来た。
来訪を告げに来た執事に連れられて、玄関ホールに行くと、今日は紺色の衣装に身を包んだアルベルトがいた。どんな服を着てもその麗しい佇まいは変わらず、かつての自分なら、喜び勇んでその胸に飛び込んでいただろう。
彼はクリスティーナの頭から足先までさっと視線を走らせる。
今日のドレスは、銀糸と青い糸を織り交ぜた、不思議な光沢を放つ布地を使っている。見る角度によって青にも銀にも見えた。髪は時間が無かったせいもあり、背中に垂らし、普段から使っている、真珠の髪飾りを選んだ。唯一の救いは、この国では銀髪は珍しく、凝った髪型をしなくても、ゴージャスに見えることだった。
彼は、常と変わりない、穏やかな笑顔を浮かべた。
「クリスティーナ。今日もとても美しいドレスだね……」
茶会の一件など、記憶にも留めていない、何も変わり無い表情をした彼を見ると、胸が焼け付くようだった。この一か月の間、彼はクリスティーナには一時も会う時間を作らなかった癖に、クララには何度も会い、贈り物をしているのだ。
よくもそんな、爽やかな笑顔を浮かべられるものだ。
クリスティーナは大げさにならないように、さり気なく視線を逸らし、つい、と淑女の礼をした。
「お褒め頂き、光栄ですわ、殿下」
もはや名を呼ぶことさえ、憚られた。いずれは別の女性に奪われる一国の王子を、自分のもののように名前で呼ぶなんてもう出来ない。
「……行こうか」
アルベルトの手が目の前に差し出され、クリスティーナは暗澹とした思いでその手を取った。
月の女神のような輝きを放っているクリスティーナを、彼が微笑みながら見下ろしていたなど、彼女は全く気付いていなかった。
馬車の中には、クリスティーナとアルベルト、そして侍女と彼の従者が乗り込んでいた。王宮の馬車は通常よりも内側が広く、四人が乗り合わせても窮屈にはならない。
アルベルトは、何故かクリスティーナを自分の隣に座らせた。いつもは向かいに座っていたのに、と侍女も従者も少し目を見張るが、彼が気にした様子は無い。
かつては隣に座りたがったものだが、侍女にはしたないと咎められ、それからは機嫌を悪くしたり、駄々をこねた時くらいしか隣に座らせてくれなかった。
もしかすると彼は、クリスティーナが機嫌が悪いと思っているのかもしれない。
機嫌が悪いのではなく、自分を放ってクララに夢中になっている彼が憎らしく、また夜会に行くのが憂鬱なだけなのだが。
視線を合せるのも、会話をするのも嫌で、クリスティーナは小さな窓から見える、街の景色に目を向けていた。
「今日は何をしていたの、クリスティーナ?」
「……特別な事はしていません」
にべもない返事をすると、苦笑が聞こえる。まるで我が儘なお嬢様をあやす、大人の笑い方だ。
「じゃあ、先日届けた花は気に入ってくれた?」
そう言えば、数日前に花が届いたと執事が言っていた。
カードが付いているかしら、と期待して尋ねれば、ついていないと応えられ、花はちらと見ただけで、下げるように言ってしまった。執事はよろしいのですか、と確認したけれど、クララには毎週のように贈り物をしていると噂に聞いていて、気分が沈んでいた。
アルベルトからの花を部屋に飾ったりしたら、悔しさと、愛しさで涙を流してしまいそうだった。だからそ知らぬ顔で、自分に見えない場所に飾って、とお願いしてしまっていた。
クリスティーナは気の無い返事をする。
「ええ……」
「本当に?」
「ええ……」
ふと耳もとに彼の吐息が触れた。驚いて体を離そうとすると、腰に太い腕が回されて、逆に引き寄せられる。
クリスティーナは瞳を大きくして、アルベルトを見返した。侍女も従者も目を見張っている。
「殿下……っ?」
彼は色香たっぷりにほほ笑み、低く耳元で囁く。
「どんな花だったか、覚えているの?」
「…………」
艶やかなクリスティーナの唇は、答えを失ってうっすらと開いた。その唇に視線を落とし、彼は呟く。
「やっぱり、花なんて贈るんじゃなかったな……」
「――」
きゅっと花弁のような唇が窄まった。贈り物をした行為自体を後悔しても、それを口に出すなんて、酷すぎる。
彼はさっと青ざめたクリスティーナの顔を、優しげな眼差しで眺めた。
「次は、もっと別なものを贈るよ、クリスティーナ。貴方が気に入るような、ずっと高価なものを。」
「――高価なものであれば喜ぶとでも、思っていらっしゃるの?」
確かに流行の最先端を好んでいるクリスティーナが選ぶものは、全て最高級で、高価なものばかりだった。けれど、高いから良いと思っているわけではない。
アルベルトの言い方では、クリスティーナは物の価値を値段で判断する、愚か者になる。
彼はくすりと声を漏らして笑った。まるでその通りだろう――? と言われているようだった。
クリスティーナは頬に朱を上らせ、顔を背ける。白く滑らかな首筋が、アルベルトの目の前に晒された。
銀糸の髪を、そっと払い除けられる。首筋に指先が触れ、振り向こうとしたクリスティーナの体は、次の瞬間、びくりと竦んだ。
「悪い子だね……僕を困らせて」
アルベルトは、しっとりとした声で囁きながら、クリスティーナの首筋に口付けた。ちゅ、と音を立てて首筋を吸われ、初めての感触に体が硬直する。ぞくりと首筋から胸にかけて寒気が走り抜けた。
「で……殿下……? あ……っ」
驚いて咄嗟に彼の胸を押し返そうとしたが、彼は気にせず、正面からクリスティーナの首筋に顔を埋める。従者たちが、突然の出来事に反応もできず見守る中、彼はクリスティーナの耳裏、うなじ、首筋、鎖骨の順に口付けを落としていき、最後に、硬直して反応すらできない彼女の胸元に口付けを落とした。
真っ赤になって、口を開閉するしかできないクリスティーナを見おろし、彼は艶やかに笑んだ。
「あんまり可愛いと……その内、食べてしまうからね……?」
「…………は、はい……」
食べると言う意味がなんなのか分からなかったけれど、彼がまとう、黒いオーラに押され、クリスティーナは頷き返すしかできなかった。
胸元にキスされた時、さり気なく胸を揉まれたわ――。
混乱極まったクリスティーナだったが、胸に触れられた感覚だけは鮮明だった。
夜会では、一曲目をアルベルトと踊った後、いつものように別の男性と踊ることになった。
馬車の中で、まるで恋人のように口づけを施されたけれど、やはり彼はクララに興味があるようだ。今もエミールを交えてクララと談笑している。
憂鬱な気持ちになって、そっと瞳を伏せて溜息を落とす。ダンスの相手が、その物憂げな溜息と色っぽい表情に、喉を上下させた。ごくりという音が聞こえ、顔を上げると、ばっちりと視線が絡んだ。
ダンスの最中に別の男性に気を取られていたなんて、失礼な事をしてしまった。クリスティーナは、謝罪の意味を込めて、おっとりとほほ笑んだ。
男性は目を見開き、かあっと頬を染めた。
最近よく見る男性の反応だったので、クリスティーナは気にせずステップを踏む。どうも自分が見つめると、男性は赤くなる。恥ずかしがっているのだな、とは分かったが、そんなに不躾に見つめたつもりはないのに、と毎回、不思議だ。
数曲踊った後、疲れを感じてきたクリスティーナは、そつなく次のお相手を断り、友人らのいる方へ向かった。シンディとエレーナはこちらを振り返ったけれど、クリスティーナの背後に棘のある目を向けた。
「まあ、あの方。まだ殿下とお話しているわ」
「本当。殿下とお話ししたい方が、周りで待っているのに」
給仕からグラスを受け取り、振り返ったクリスティーナは、臓腑を抉られる思いだった。
漆黒の整えられた髪に優しい黒曜石の瞳を持つ、この国の王子は、すっかりクララに魅了されている。
瞳を輝かせ、頬を上気させながら一生懸命王子に話しかける美少女は、今日もピンクのドレスに簡素な髪飾りを付けていた。
楽しそうに話しかける彼女に、アルベルトは穏やかにほほ笑み、相槌を打っている。いつもなら、周囲に待つ人間があれば、ある程度で話を切り上げて次へ移るが、今日はその気配がない。
クリスティーナは、グラスを傾け、甘い液体を飲み下した。
「……よほど楽しい会話なのでしょう。気にすることはありませんわ。殿下も楽しそうですもの」
――ああやって、アルベルト様を奪って行くのね……。
腸が煮えくり返った状態であっても、クリスティーナの声は乱れず、態度も優雅なものだった。興味がないと視線を逸らそうとした時、楽団が次の曲へ移るための間奏に入った。
クリスティーナは、視線を上げた。アルベルトが、とても自然な仕草で、クララをダンスに誘ったのだ。
「まあ……っ」
「殿下からダンスをお申込みなられたわ……」
驚愕の声を上げた友人らは、はっと口元を押さえ、気まずそうにクリスティーナを見る。クリスティーナは、優美にほほ笑んだ。
「珍しい事ではありませんわ。殿下も踊りたくなる時だってあるでしょう」
気にするまでも無い、と余裕ある態度を示したが、友人たちには強がりだと気付かれていた。
令嬢から申し込まれれば、絶対に断ったりしないのが、ノイン王国の第一王子・アルベルトだ。一方で、彼は決して自らダンスを申し込んだりしないと有名だった。クリスティーナ以外には、決して声を掛けないと――。
その彼が、自らお相手を求めるということは、彼女は少なからず、彼にとって重要な人物なのだ。
会場の中央へ彼女を誘うアルベルトを見ていられず、背を向けた。
「……私、少し夜風に当ってまいりますわ」
「クリスティ……」
気遣わしげな声音が背にかかったけれど、振り返れない。振り返れば、嫌でもこの目は、アルベルトを捜し、そして彼と共にダンスを踊るクララを見てしまう。
――私から、彼を奪って行く、酷い人……。
天真爛漫な明るい笑顔のクララ。貴族の世界には無かった、庶民ならではの、純朴な考え方ができる少女。
私とは、絶対的に違う人――。
アルベルトが彼女に惹かれるのは、とても自然だ。一国の王子として、貴族達とばかり交流をしてきた彼にとって、彼女は特別に見える。庶民の世界を知らないのだから、彼女の話は全て楽しく、興味深いはずだ。
――ずるいわ。私と立つ世界が違うのだもの。
一国の王妃となるべく、幼い頃から躾けられてきたクリスティーナは、教養、礼儀作法、王宮での立ち居振る舞い、貴族として民を守るという誇りと、矜持を十二分に持ち合わせていた。だが、庶民の生活など全く知らない。
どんなに民の為になる王妃とは――と考え、懸命に学び、国家のあり方を知り、宰相である父にまで教えを請うたところで、戦うフィールドが違うのだから、彼の目には特別に映らない。
それなら、自分から身を引いた方が、よほどマシだ。
夜会を開いている屋敷の庭園と階段で繋がっているテラスは、外灯があるものの、会場と比べれば薄暗い。しかし見えるか見えないかの明るさが、今のクリスティーナにはありがたかった。きっと嫉妬に歪んだ顔をしているだろうから。
グラスを片手に、テラスの手すりから庭を眺めると、桃色の愛らしい花を付けた木々が最盛期だった。甘く透明な飲み物を何の気なしに飲みながら、クリスティーナはぽつりと呟く。
「……綺麗ね……」
「咲き誇る幾千の花よりも、貴方の方が、より美しく見えます」
不意に声を掛けられ、クリスティーナは隣に立った男性を見上げた。二十代前半といったところだろう、亜麻色の髪に、琥珀色の瞳の端正な顔をした人だった。やや垂れ目の眼差しは、とても優しそうだ。どこかでお会いした人かしらと考えたが、思い出せなかった。
クリスティーナの気持ちを汲んだ彼は、気さくに笑う。
「私は、モルト商会で会長補佐を務めております、フランツ・モルトと申します。お見知りおきを、クリスティーナ様」
「あ……以前ご挨拶をして……?」
モルト商会は、モルト伯爵が会長を務めている、ノイン王国で一、二を争う老舗だ。宝石類と珍しい布地を扱うお店で、今日のドレスもモルト商会の品を使っていた。
モルトを名乗るということは、そのご令息だろうが、クリスティーナは彼と対面した記憶は無かった。しかし、以前挨拶をした人であったなら、失礼な態度を取ってしまった。眉を落とすと、彼は首を振った。
「いいえ、本日初めてご挨拶が叶いました。私は商会の方が忙しく、あまりこのような夜会に参加しておりませんでしたので。ザリエル公爵のお嬢様は大変有名ですので、勝手に存じ上げていただけです。不躾に御名をお呼びして、申し訳ございません」
彼の笑顔は、人懐っこく、名乗る前に名を呼ばれたとしても、嫌な気持ちはしなかった。
クリスティーナはささくれ立った心が、少し癒された気分で、ほわりと笑んだ。
「いいえ、どうぞお気になさらず、お呼び下さい。今日のドレスも、モルト商会のお品なのですよ。とても気に入っています」
彼はさり気なくクリスティーナのドレスを確認して、頷く。
「確かに。その布地は私共が扱う、最新のものですね。クリスティーナ様にお召しいただけるとは、大変光栄です。最も、あなたの美しさの前には、どんなドレスも霞んでしまいますが」
第一王子の婚約者として有名なクリスティーナは、異性として男性から褒め称えられた経験が乏しかった。褒め言葉と言えば、アルベルトが会うたびに使う賞賛を聞くくらいで、口説き文句など聞いたことも無い。
初めての経験に、クリスティーナの頬が染まった。
「そんなことありませんわ……」
上手い返し方も分からず、戸惑いを露わに、視線を逸らす。フランツはその反応を、くす、と笑った。大人の男の、包容力ある笑顔だった。
「おや、私は事実しか申し上げませんよ。先程も、このテラスから庭を眺めるあなたの横顔を拝見して、思わず声を掛けてしまったのです。月夜に照らされる貴方は、まるで月の女神のようだ」
「め……」
大げさな褒め言葉に、クリスティーナは初心な反応しか返せない。真っ赤になって見上げると、彼はさり気なくクリスティーナの髪を梳いた。
「月光を反射するこのドレスと、あなたの銀糸の髪から淡く光が溢れる、幻想的な光景でした。そのまま眺めていたい、美しい光景でしたが……貴方の澄んだ瞳が憂いに染まっているのを見つけて、放っておけなかった私をお許しください」
「…………」
憂いの言葉に、自分の気持ちを思い出した。
クララに惹かれていく愛しい王子様を想うと、胸が軋む。じわ、とクリスティーナの目尻に涙が滲んだ。初対面の男性に涙を見せるわけにもいかず、クリスティーナは慌てて庭に目を向けた。
「あなたは……可愛らしいご令嬢ですね……」
ぽつりと呟いた彼を見上げると、彼は優しく笑って離れて行った。急に離れていく彼を不思議に思ったクリスティーナの視界の端に、漆黒の美丈夫が映りこむ。
テラスに現れたところなのだろう。クララを伴ったアルベルトがこちらに歩いて来ていた。これは、クリスティーナが嫉妬に駆られて、クララの頬を打つシーンだ。
いっそのこと、シナリオ通りに振る舞ってやろうかと思ったけれど、近くで立ち止まったアルベルトの視線に、クリスティーナの頬は強張った。
今まで一度も見たことのない、冷たい眼差しがクリスティーナを射抜く。
隣にいるクララは、場違いなほど期待に満ちた眼差しを、クリスティーナに向ける。
「何をしているの……クリスティーナ?」
責められているのだ、と分かったけれど、何を咎められているのかまでは頭が回らなかった。
それに彼の方は、婚約者以外の令嬢を伴って、堂々としている。
クリスティーナは僅かに眉をひそめた。
「踊りつかれたので、こちらで休憩をしていただけですわ。殿下こそ、いかがなさいましたの。可愛らしいお嬢様とご一緒なんて、羨ましいですわね」
言ってから、しまったと、内心焦った。つい嫌味を言ってしまった。アルベルトの片眉が跳ねあがる。
アルベルトが何か言おうとしたが、クララがそれよりも早く口を開いた。
「クリスティーナ様。今、お話していらっしゃった方はどなたですか?とても仲が良いご様子でしたね」
純真無垢を地で行く彼女は、他意の無い声音と、愛らしい笑顔で、他人が聞いたら誤解する言葉を吐いた。ぴく、とアルベルトの視線が彼女に落ちる。
クリスティーナが、王子以外の男と逢瀬をしていたと取られかねない言葉だ。
クリスティーナは、溜息を落とした。
彼女が生粋の令嬢であれば、クリスティーナの評判を陥れる策略だと判断するところだ。
「……先日はご挨拶ができませんでしたわね。私はクリスティーナ・ザリエルと申します」
彼女は突然の自己紹介に、きょとんと瞬きを繰り返す。
「えっと……はい。あの、クララ……と申します」
ノイン王国の貴族の間では、たとえ名を知っていても、互いに自己紹介を済ませない限り、名を呼ばないのが礼儀だった。そして、本来であれば爵位の高いものから言葉をかけ、それまでは下位の者は口をきいてはいけない。
それらの基本を知らないのか、忘れているのか、全てを水に流して声を掛けたにもかかわらず、彼女は家名すら名乗らなかった。睨んでしまいたくなる気持ちをぐっとこらえ、クリスティーナは優美な笑みを浮かべる。
「そう、クララ様。夜会は楽しんでいらして?」
「あ、はい……。えっと、殿下にダンスのお相手をしていただきました。とてもお上手で、あっという間に終わってしまったので、もう一曲お願いしちゃって。お疲れのご様子だったので、テラスにお誘いしたんです。」
にこお、と恋する乙女の愛らしい笑顔が花開く。
気に喰わなかった。
毎回、一曲しか踊れない婚約者に向かって、二曲も相手をしてもらったと言ってのけるなんて。自慢しているのだろうか。
アルベルトを見上げれば、するりと視線を逸らす。
クリスティーナは、己の矜持のために、背筋を伸ばし、笑みを絶やさなかった。
決して――この子を叩いたりしない。
「そう。楽しそうで良かったわ。あなたとお話をすると、殿下の御心もほぐれているご様子です。ありがとうございます」
クララは瞬きを繰り返す。
「えっと……どうしてクリスティーナ様がお礼を……?」
――私が、彼の婚約者だと知らないの……っ?
かっと頭に血が上った。
わざと、こちらの感情を煽っているようにしか思えない。あどけない表情と仕草で、悪意がないと示しているつもりなら、とんだ女だ。
殴りたい衝動を堪えるため、クリスティーナは自分の右手を左手できつく掴み、それでも笑んだ。
「……そうですね。私から礼を言うのは、おかしなことかもしれません。殿下にも、失礼を致しましたわ」
屈辱を覚えながら、アルベルトに頭を下げた。そして顔を上げると、軽く目を見張った彼を一睨みして、歩き出す。身構えたアルベルトの横で立ち止まり、ついでのように言った。
「私、気分が悪いので、お先に失礼いたしますわ。殿下はどうぞ、お好きな方をお送りしてください。」
「――――」
信じられないものを見る眼差しが、自分に注がれた。その驚いた顔を冷たく見返し、クリスティーナは彼に背を向けた。
彼女なんて打ってあげない。だけどこれで、貴方はシナリオ通り、彼女を家まで送り届けられる。
――運命って、ままならないものなのね。
じわりと滲んだ涙をそのままに、優美な足取りでクリスティーナは会場を後にした。