王太子のお嫁さん。~ときどきお兄ちゃんと妹~10
マルクスが用意させた、上質なワインを口に運びながら、アルベルトは内心舌打ちした。
――厄介な話だ。
長年手紙をやり取りしたり、たまに隣国に出向いた際に顔を合わせたりしていた友人が、八年の時を経てようやく国に戻ったのは、つい二週間ほど前だ。
髪は伸びたが、彼が纏う雰囲気は相も変わらず、飄々としていた。男女問わず人心を掴むのが上手い男で、可愛い自身の婚約者が、何のためらいもなくかつてのような呼び方を許すのも、納得はいかないながら、仕方ないと思った。
父親譲りの穏やかな話し方と、柔らかな笑み。それらのおかげで、彼は警戒心を抱かせず、容易く相手の懐に入り込むのだ。
昔から頭のいい男で、治水技術を学んできたのも、用意周到な彼ならではだと思った。
法の知識ももちろん完璧に頭に入れているから、今後アルベルトにとっても役立つ人材になる――とは分かっているが、鼻持ちならない気分で、マルクスを見やる。
アルベルトは、彼と再会した日を思い返した。
マルクスは、隣国では呑気な貴族令息として割と遊んでいたらしいが、肉体はきっちり鍛え上げている様子だった。
『久しぶりだな、アルベルト。この間会ったのが感謝祭だったから、二年ぶり?』
隣国・ゼクス王国は、四年に一度、国の繁栄に感謝する祭りを開く。国中が参加する大々的な祭りで、ノイン王国からも毎回、王家から言祝ぎの使者が祝いの品をもって参加している。ノイン王国とゼクス王国は、国交はあるが、王家同士が懇意にしているというわけでもなかった。
アルベルトが隣国へ出向いたのは、公式ではなく、お忍びだ。友人とたまに顔を合わすのもいいかと思い、王宮を数週間空けたのだ。
それ以来だな、と笑って言った友人の傍らには、見知らぬ少女がいた。紺色の髪に、空色の瞳をした、整った容姿の少女だった。
マルクスは彼女の背に手を置いて、明るく紹介する。
『あ、こっちはイレーネ。イレーネ・デュカー。俺の妹みたいなもので……っ痛』
マルクスが妹みたいなもの、と言うや否や、彼女は彼の足を踏みつけた。眉を吊り上げ、剣呑な眼差しを注ぐ彼女を見返して、マルクスはひくっと頬を引き攣らせた。
『ああ、うん。そうそう……一応、なんていうのかな。婚約する予定でいる子でね……今回は気休め……じゃない、後学のためについて来たんだよ。仲良くしてくれると、ありがたいな』
どうにもイレーネに押されている感のある紹介で、違和感はあったが、アルベルトは礼儀に則り、笑みを浮かべた。
『初めまして、イレーネ嬢。マルクスとは昔から心安くつき合っています。婚約のご予定であれば、貴女とも顔を合わす機会が増えるでしょう。どうぞよろしく』
声をかけると、彼女はアルベルトを見上げた。自意識過剰ではないと思うが、彼女は見るからにうっとりとこちらを見つめ、頬に手をそえる。そしてほう、と吐息を零した。
『本物……』
彼女は微かに、そんな言葉を吐いた。何が本物なのか、見当もつかないながら、空色の瞳はきらきらと輝き、熱っぽくアルベルトを見つめる。アルベルトは反応に困った。
婚約予定の男を横に置いて、その眼差しはないだろう、と思った。
恋情とも違う感じはしたが、アルベルトがマルクスなら、速攻で相手の男に殺意を抱く。
そう――彼女がクリスティーナだったら。
そう考えたアルベルトの眼差しは、ふっと冷えた色に染まった。
――もしもクリスティーナがこんな風に他の男を見たら、自分の部屋に連れ込み、ありとあらゆる手管で、愛情表現という名の辱めを与えよう。
クララとの一件を解決して以降、アルベルトとクリスティーナは非常に睦まじく過ごせていた。交際は健全に――と厳命していた宰相も、結婚式の準備に勤しむ娘の雰囲気に折れてか、最近はお目こぼしが多い。侍女の監視もかつてよりかなり緩くなり、アルベルトは彼女を汚さない範囲内で、存分に二人の時間を楽しんでいた。
たまに酷くしてやりたくなるが、可愛い婚約者に泣きそうな顔をされたら、引くしかない。
――早く結婚したい。
じりじりと我慢の日々を過ごしていたアルベルトは、仮定の状況を想像するだけで、苛立った。愛しているがゆえに、嫉妬は根深くなる。それでも愛しているから、どんな状況になっても、彼女は絶対に手放さない。代わりに彼女が怯えつつも流されそうになってしまう、気持ちいい方法で苛めよう。――いい案だ。
歪んだ結論に達し、やや死んだ魚のような眼差しになったアルベルトの顔を見たマルクスは、肘でイレーネを小突いた。
『おい、こら。挨拶』
促された彼女は、はっと我に返った。居住まいを正し、スカートの端を摘まんで首を垂れる。
『初めまして、アルベルト王太子殿下。お会いでき、大変嬉しく思います』
『悪い。こいつちょっと、王族の前だと緊張しちゃうみたいでさ。今後も挙動不審な時があるかもしれないけど、気にしないでくれると助かる』
アルベルトは自分が表情を取り繕っていないと気づき、すう、と息を吸いこんだ。マルクスに向かって、柔らかく笑みを浮かべた。
『そうか。お前が婚約の予定だなんて知らなかったから、僕も戸惑ってしまった』
さらっと言い訳をすると、マルクスは眉尻を下げて、肩を竦める。
『ま、俺達こういう話、しないしな』
『それもそうだね』
マルクスとアルベルトは、互いに色恋の話はしない。男同士だから、というのもあるが、色恋の話になると、お互い余り思い出したくない過去が蘇るからだ。
彼も過去を思い出したのか、互いに気まずい空気になり、アルベルトは言葉を継いだ。
『……今度、クリスティーナにも引き合わせるよ。その前にアンナかな。アンナは、お前に会うのを楽しみにしていたから』
『ありがとう。姫様は相変わらず、お転婆小悪魔かな?』
マルクスは、からっと気分を変えた顔で問い返した。
アルベルトも妹の様子を脳裏に描き、苦笑する。
クララの一件でも、妹は変わらず小悪魔だった。――一か月もお会いされていないだなんて、クリスお姉様に捨てられるわよ、お兄様。え、お姉様からもご連絡はないの? もう嫌われてしまったのじゃありませんの? ――と末恐ろしい言葉を吐くくらいには。
『そうだね。アンナは変わらないよ。でもお前、アンナともやり取りしていただろう?』
アルベルトと同じように、アンナも時折、マルクスに手紙を送っていた。やり取りをしているなら分かっているだろう、と言えば、彼は好奇心に満ちた瞳で、にやっと笑い返す。
『まあね。でも彼女、手紙ではすごく猫被ってるからさ。毎度毎度、深窓のご令嬢と文通している気分で、あれはあれで、ぞくぞくして楽しかったけど』
やっぱり顔を合わせて話してみないと、分からないよね。と肩を揺らして笑う友人は、心から妹に興味がありそうな顔をしていた。
――意味が分からない。
妹が手紙だと猫を被る、というのは気位の高さからしても分かるが、そのどこに“ぞくぞく”するのだろうか。
友人の趣味に疑念を抱きつつも、アルベルトはその後、妹とマルクス達を再会させ、宰相とも一緒に挨拶をしたのだった。
マルクスと再会したアンナは、久しぶりで緊張したのか、表情が冴えなかった。マルクスは気にも留めず、アンナに耳打ちして、何か約束をしていた。
お転婆ながら男に免疫がない妹は、距離を詰められたことに驚き、頬を赤く染めていた。
アルベルトはちょっと心配になった。マルクスには婚約予定の恋人が隣にいたから、妙な事態にはならないだろうが、横恋慕はしないでくれよ、と心の中で呟いた。
そしてマルクスとクリスティーナの再会は、彼女を怒らせた日に限って、偶然起こった。
式の準備の話をするクリスティーナが可愛くて、ついつい愛でる方に専念していたのが悪かったのだ。
ちっとも意見をくれない、と怒って部屋を飛び出したクリスティーナを捕まえたまではよかった。しかし不意にマルクスがアンナを訪ねてきて、クリスティーナはマルクスと再会した。
マルクスと顔を合わせた彼女は、彼を見るなり、女神か――と錯覚しそうな、美しすぎる笑みを浮かべた。
アルベルトは即座に、頭の中でマルクスを一回殺した。
どういうことだ。――僕よりもマルクスが好きだったのか!?
焦ったアルベルトは、嫉妬から来る疑いを抱いたが、意外にも彼女は、マルクスを覚えていなかった。女神の微笑みを向けたのも最初だけで、後はいつも通りのクリスティーナだ。
最初の笑顔は何だったんだ――と思いつつも、アルベルトが軽く説明すると、クリスティーナはぼんやりマルクスを思い出した様子だった。
二人に挨拶をする様は優美なもので、イレーネが彼女に魅入っていたのも、致し方ないのだろう。マルクスと会話をしている間も、イレーネは妙に輝く瞳でクリスティーナを見ていた。
会話にアルベルトが入ると、今度はこちらを輝く瞳で見つめて来る。
――確かに挙動不審だ。
不審に思わないでもなかったが、マルクスの言う通りなのだな、とアルベルトは自分に言い聞かせた。
マルクスがイレーネを紹介した直後、今度は妹が突如、挨拶もせず涙目で走り去る。
どうなっているのだ、とアルベルトは混とんとした事態に内心、歯噛みした。
癇癪を起こした後のアンナは、部屋を訪ねたところで、半日は応答しない。気になりはしたものの、アンナの面倒は後回しにした。
何より、いま最も重要なのは、クリスティーナの怒りを解き、家まで送ることだ。
以前、クリスティーナを一人で家に帰してしまった忌まわしい過去を持つアルベルトは、同じ轍は踏むまい、と心に誓っていた。
だから彼女がどんなに拒もうとも、絶対に送る。
怒っている、とそっけない態度を取りながらも、ねえ、と自分を呼び、侍女を呼んでください、と自分を頼る、甘えた発言をするあたりも、なんだか堪らなく可愛かった。
結局彼女は、怒っていないのではないか――? とすら思うが、怒りを示そうと頑張っているようなので、アルベルトは彼女のために、誠心誠意、馬車の中で謝罪した。
彼女の片手を握り、腰に腕を回して、瞳を見つめて、謝罪と愛の言葉を口にする。話す内に、彼女は頬を染め、瞳を潤ませ、自分にときめいている、可愛い表情になっていった。
つい熱が入り、いつの間にか全身全霊を込めて口説き落とすような状況になってしまっていたが、最終的に仲直りすると言ってくれたので、よしとしよう。
イレーネと最初に会った際に出した結論とは全く違う結果となったが、現実とはこんなものだ。
可愛い婚約者を苛めるなど、彼女に夢中なアルベルトには、妄想は出来ても、実行できようはずもなかったのである。
そんなそれぞれとの再会を果たした、友人の家が開いた茶会――。
茶席での会話を冷静に眺めていたアルベルトは、イレーネは何か事情がありそうだ、と苦く思っていた。そしてアルベルトの予感は、的中した。
クリスティーナとの逢瀬を邪魔したマルクスは、私室にアルベルトたちを招き入れ、イレーネとは結婚するつもりはない、と言ったのだ。
昔から何を考えているのかよく分からない、軽薄な雰囲気を纏う男だったが、面倒を押しつけやがって――と、アルベルトは柄にもなく、口汚く思う。
アルベルトにとって、今一番大事なのは、クリスティーナとの結婚をつつがなく進めることだった。
ただでさえ、クララとの一件で宰相の心象を悪くし、大事なクリスティーナをも傷つけていたのだ。
今後はあらぬ噂も、どんな波風も立たせず、クリスティーナを幸福にするのだ――と息巻いていた矢先に、これだ。
――なんだ。神は俺を試しているのか? どれだけ俺に面倒ごとを押しつけたら気が済む。頼むから、早くクリスティーナと結婚させてくれ……!
アルベルトは神を恨み、しかしイレーネは不憫であるとも思われ、クリスティーナにまで押されて、渋々、厄介な話を引き受けた。
妹がマルクスに惚れている、という知りたくなかった事実まで突きつけられ、アルベルトは踏んだり蹴ったりだった。