王太子のお嫁さん。~ときどきお兄ちゃんと妹~8
茶会に招かれたというのに、クリスティーナたちは茶会の席を遠巻きに通り抜け、マルクスの部屋に案内されていた。
マルクスらしい部屋だった。小難しそうな本が並ぶ書棚と、彼の趣味の剣があちこちの壁に飾られている。
先に部屋に入ったマルクスは、物珍しそうに部屋を見渡すアンナに手を差し伸べた。
「どうぞこちらへ、姫様」
「あ……ありがとう」
マルクスに淑女として扱ってもらえて嬉しかったのか、アンナの頬がぽっと染まる。
その反応を見下ろした彼は、案内するために部屋の右手――暖炉の脇にあるソファへ顔を向けた。アンナには見えないだろうが、暖炉のほうへ向いた彼の顔は、楽しそうな笑みを浮かべている。
――本当に、何を考えているのか、よく分からない人。
クリスティーナは、偽りの婚約を平気で口にできるマルクスを、不思議に見ながら、アルベルトと一緒に同じソファへ足を運んだ。
クリスティーナとの時間を邪魔されて機嫌を悪くしたようだったアルベルトは、マルクスの正面に座るなり、口を開いた。
「――で、どうしたんだ?」
クリスティーナはアルベルトの隣に腰掛け、アンナはマルクスの隣に座っている。
アルベルトもマルクスもなんの不思議も感じていないようだが、こういう場合、マルクスは一人掛けのソファに座るものではないだろうか。もしくは、アンナを一人掛けに座らせるか。
アンナはもう小さな女の子じゃないのだ。それなりに成長した女の子なのだから、平気で自分の隣に座らせるのはいかがなものだろう。
自分だってアンナを小さな女の子扱いしている自覚もないまま、クリスティーナはちらちらとマルクスとアンナを交互に見た。
マルクスはクリスティーナの視線には気づかぬようで、アルベルトに人懐っこく笑う。
「そう怒るなよ。結婚したらいつだって仲よくできるだろ。邪魔して悪かったけど」
アルベルトは眉を上げ、口角を歪める。
「僕は別に、邪魔されたのを怒ってるんじゃない。お前のいい加減な物言いに、苛ついているんだ。なんだ、あの茶席での態度は。お前、イレーネ嬢と婚約するんじゃないのか」
不誠実すぎるぞ――と友人を窘める。
アンナはマルクスの不誠実ぶりには気づいていなかったようだ。きょとんとアルベルトを見てから、マルクスを見やった。
マルクスは苦笑して、背もたれに背を預ける。
「そう? これでもできる限り、誠実にしてるつもりだよ。俺はイレーネとは結婚するつもりはないから、かなり頑張っているほうだ」
「うん?」
「え――!?」
アルベルトの声にかぶせて、アンナが高い声を上げた。アルベルトが盛大に驚いたアンナをちらっと咎める目で見ると、アンナは慌てて口を手で押さえる。
クリスティーナは驚くよりも、安堵した。
正直、秘密にしてくれるか、と言われて以降、胸がもやもやしていたのだ。事情がありそうな二人のためには秘密にするのは一番だとわかっていたが、アルベルトに秘密を抱えるのは嫌だったのである。
しかし、クリスティーナは何とも言えない気持ちで、アンナを見る。
素直に驚くさまは、何も知らなかったことを表していた。急に元気になっていたから、アンナにも事情を話したのかしら、と思っていたが、彼女が元気になったのは、単純にマルクスの機嫌取りが上手かっただけのようだ。
それがなんとも――心配である。
マルクスの口先一つでご機嫌になっているようでは、彼の恋人になんてなれないのではなかろうか。
彼女の機嫌をコントロールした彼は、確かに素敵な殿方に見えるだろう。だが機嫌をよくしたところで、茶席にいた時点では、マルクスにはイレーネという婚約者候補がいたことに変わりはないのだ。
上手く手のひらの上で転がされている感のある王女を、クリスティーナは物憂く見つめた。
アルベルトは、飄々と笑った友人を胡乱に見返す。
「――お前、面倒ごとを押しつける気か」
非難の色が濃い声で問われ、マルクスはにっと笑う。
「うん。だってアルベルト、君は俺の友人だろう? 助けてくれるよね?」
「……」
アルベルトは苦虫をかみつぶしたような顔をして、クリスティーナに目を向けた。そして彼は、欠片も驚いていないクリスティーナに軽く目を見張り、マルクスを睨んだ。
「お前、もうクリスティーナを巻き込んでいるのか」
マルクスはにこっと微笑み、小首を傾げる。
「うん。どうする? クリスと俺が秘密を共有してるなんて、業腹じゃない?」
「――相も変わらず、食えない男だな、お前」
アルベルトは苛立ちを押さえた息を吐き、マルクスと同じく背もたれに背を預けた。足を組み、吐き捨てた。
「話は聞いてやる。だがその前に、茶でもだしてくれ」
自分を落ち着けるためだろう。
茶を用意しろと言われたマルクスは、鈴を鳴らして、使用人を呼んだ。彼は、ご婦人方には茶を、自分たちには酒を用意するようにと命じた。
アンナが何だか、輝く瞳でマルクスを見ている。ご婦人方には茶を用意させ、自分たちには酒を頼んだのが、ツボだったようだ。
――恋する乙女は、なんでも美化しすぎていけない。
ワインを用意され、アルベルトは無言で酒を口に運んだ。アルベルトの気分が落ち着くまで、マルクスは他愛ない雑談をクリスティーナとアンナに披露する。
彼の話は、面白かった。隣国の酒場で見たくだらない喧嘩や、彼が見た曲芸師の話、吟遊詩人が披露した恋のお話。
どちらかというと、アンナを楽しませようとしていた節があり、アンナは彼の思惑通り、ご機嫌に話に聞き入っていた。
ほどなくして、たん、とアルベルトが空になったグラスを机の上に置いた。
「隣国を十分堪能していたようじゃないか、マルクス」
「……あ、ワインもうちょっと飲む?」
マルクスはアルベルトの返事も聞かず、使用人が置いて行ったカートからボトルを取り上げ、グラスに注ぐ。アルベルトはなみなみと注がれる酒を眺めながら、溜息交じりに言った。
「さっさと話せ。イレーネ嬢は、何を抱えているんだ? ――王族が関わっているなら、僕にできることは限られる」
「……」
酒を注いでいたマルクスの腕が、僅かに揺れる。クリスティーナはよくわからず、アルベルトを見返した。
「どうして、王族が関わっているとおっしゃるの?」
これはただ、マルクスとイレーネが恋仲ではない、というだけの話だったはずだ。
アルベルトはクリスティーナに微笑む。
「彼女はね、クリスティーナ。マルクスが王族の話をし始めたら急に、頬を強張らせたんだよ」
マルクスが溜息を零し、自分のグラスにも酒を注ぎ足した。
アンナばかり気にしていたクリスティーナは、茶席でのイレーネの表情には目を向けていなかった。
茶席全体に目を配っていたアルベルトは、思案気に視線を落とす。
「だから王族が来ると言ってみたら、彼女は青ざめて、席を立った。クリューガー侯爵夫人も、王族の話を聞いた途端、目つきが変わった。どう見てもイレーネ嬢は、王族と何か問題を抱えているご令嬢だ。しかも席を立ったイレーネ嬢は、屋敷に向かう途中で、執事と侍女が歩み寄り、気遣わしく部屋に案内されていた。――この家は、一丸となって彼女を守ろうとしているようだと思った」
クリスティーナは、目を丸くするしかできなかった。イレーネが席を立った時、自分を庭園に連れて行こうとしていた彼が、そこまで見ているなんて気づきもしなかった。
「――やっぱり、君だって食えない奴だよ、アルベルト」
マルクスは苦々し気に言うと、ソファに深く腰かけ、酒を煽った。アルベルトは鼻を鳴らす。
「全部お前の思い通りになるわけがないだろう。アンナじゃあるまいし」
「え?」
可愛くきょとんとしたアンナを、アルベルトは半目で見返した。マルクスは優しい目でアンナを見てから、アルベルトに身を乗り出す。
「なあ。ということは、あの第一王子が来るという話は――……」
「――残念ながら、本当だ。来週、こちらへ来る予定だ。急な話で正直迷惑だが、向こうが歓迎などいらないから是非にと言って聞かなかった。宰相の機嫌が日に日に悪くなって、迷惑でならない」
アルベルトには珍しい、辛辣な物言いだった。
でも、父の機嫌が日に日に悪くなっているのは本当だった。家に帰って来た時の眉間の皺が、日を追う毎に深くなっているのだ。
アルベルトは漆黒の瞳を、ひた、と友人に向けた。
「早く言え。悪いが、僕にイレーネ嬢を守る義理はない。それだけは分かっておけよ。優先するのは、国だ」
「お兄様……」
きつい物言いに、アンナが不安そうな顔になる。マルクスははあ、と息を吐いて、天を仰いだ。
「わかってるよ。……お察しだろうけど、隣国の第一王子は、イレーネにご執心だ」
「だろうな」
アルベルトはあっさり頷いたが、クリスティーナもアンナも話についていけないくらい、驚いた。しかし部屋の空気は、アルベルトとマルクスに支配されていて、二人は視線を合わせ、瞬きを繰り返すしかできない。
「でもイレーネは、トビアス殿下の元に嫁ぎたくないんだ。俺も心情的には気に入らない話だった」
「なぜだ」
アンナが眉尻を落とし、マルクスを見上げる。マルクスはアンナを宥めるように笑いかけてから、ぼそっと言った。
「あいつさ……王家の宴でイレーネを見た瞬間、開口一番、『側室になれ』って言ったんだよ」
「…………」
アルベルトは眉間に皺を刻み、背もたれに肘をかけた。
クリスティーナは呆れてものも言えなかったが、アンナが不思議そうに尋ねる。
「トビアス殿下って、未婚でしたわよね?」
マルクスは分かっていないアンナに、優しく頷いた。
「ええ、そうです。未婚のトビアス殿下は、イレーネに対して、正室ではなく側室になれと命じられたのですよ。まだ正室も決まっていないうちから」
言わずもがな、正室につけるだけの立場であるご令嬢には、侮辱とすら感じられるだろう発言だ。
しかし、なぜ――。
全員の疑問を、アルベルトが代弁する。
「なぜ、正室にと言わないんだ?」
結婚していないなら、正室でいいだろう。アルベルトがそう言うと、マルクスは皮肉気に笑った。
「正室に置くほどの美貌ではないが、お前の髪は気に入った――って言ってたよ」
「――……」
痛いほどの静寂が、室内に落ちた。
トビアス王子は齢十九。
第一王子ながら、アルベルトのように幼少期より婚約者を設けてはいない。
隣国には、同い年の王子が二人いた。二人とも、側室の子だ。隣国の王位継承制度はノイン王国と違い、国王の指名制で、どちらが王位を継ぐか、王太子になるのか、今のところ伝わっていなかった。正室は王女を生んで以降、懐妊する気配はない。
側室を持てるのは、王および、王太子のみ。
つまりトビアス王子は、王太子になる予定なのだろう。
マルクスは項垂れた。
「イレーネとは向こうに移ってからの仲なんだけど、あいつは生まれると同時に母親が亡くなっててさ。うちの母にすごく懐いて、俺の母も娘みたいに世話を焼いてた。その場に居合わせた俺の母は、王子の発言がどうしても気に入らなかったんだ」
「……それで、イレーネ嬢はお前と婚約する予定だから、駄目だと言ったのか? ずいぶん短絡的だな」
アルベルトが冷静に口を挟む。いくら王子の求婚を避けるためでも、偽りの話など出して、それが本当になってしまったらどうするのだろうか。
マルクスは疲れた顔をあげる。
「俺の母親は、イレーネを気に入ってるからね。その話が本当になってもいいんだ」
アンナがさあ、と青ざめた。兄と友人の砕けた雰囲気に、アンナはすっかり取り繕うのを忘れた様子である。
アルベルトはちら、と妹を見てから、鼻を鳴らす。
「じゃあ、素直に結婚すればいいだろう。お前だって嫌いではないのだろう。いいじゃないか。互いに不足はない」
「アルベルト様」
クリスティーナはつい、アルベルトをねめつけた。
なんだか、アルベルトが意地悪をしているように感じたのだ。
彼の視線や表情を見ていると、どうもアンナの気持ちにうすうす気づいているのではないか、と思う。茶席でいともたやすく、イレーネの表情の変化に気づいた人だ。妹の感情の機微くらい、気づいてもおかしくないのでは、と今は思えた。
マルクスは背もたれに両肘をかけて、脱力した。
「それがねえ、もう面倒だからそうなってもいいと思わないでもないけど……。女の子には幸せになってもらいたいだろ? 俺にとってイレーネは、妹みたいなものでさ」
マルクスが言葉を発するごとに、アンナは蒼白になり、ぱちりと瞬き、くいっと顔をあげる。
――分かりやす過ぎるわ……。
クリスティーナは逆に、顔色を悪くする。
そんなに分かりやすい反応をしたら、マルクスには恋心は筒抜けだろうし、さすがに察しが悪い――というよりは、察したくないのだろうか――アルベルトにも、伝わってしまう。
幸い、マルクスはアンナに目を向けなかった。アルベルトはクリスティーナの表情を見た後、アンナに目を向ける。そして詰まらなそうに返した。
「妹を幸せにする男に、心当たりでもあるのか?」
「うーん。どうなんだろう?」
「妹の片思いか」
「どうなんだろう……」
「妹はお前が好きなんじゃないか?」
「え、それはないよ」
脱力して天を仰ぎながら答えていたマルクスは、上半身を起こす。しかしアルベルトは、アンナを凝視していた。
マルクスを恋する乙女の瞳で見つめていたアンナは、ようやく兄の視線に気づく。
「……ん? どうかした?」
マルクスはよくわからない様子で、二人を見比べた。
アルベルトは自分の妹を信じられない眼差しで見つめ、アンナは強烈な兄の眼差しにたじろぐ。
これは、気づいたのだろう。
クリスティーナは、膝の上で握られた、血管が浮かぶアルベルトの拳に手を添えた。
アルベルトが険しい顔をこちらに向ける。クリスティーナは、女神のごとく柔らかな笑みを湛えた。
「では、トビアス殿下がいらっしゃった折には、私たちでご対応いたしましょう。急にこちらへ向かわれるくらいですもの。お考えは不誠実ですけれど、ご執心していらっしゃるのは確かそうです。望まぬ結婚など、しないに越したことはございません」
「いや……」
アルベルトは否定する言葉を吐こうとしたが、クリスティーナがきゅっと手を握ると、唇を引き結ぶ。
「お友達の妹のような方ですもの。できる限りのことは、してあげましょう?」
「……」
人道的に考えて、救ってあげたいと思った。それにマルクスは、今後アルベルトのよい助けになる人間だろう。彼の窮状を救うのは、悪いことではない。
アンナとのこれからによっては、友人以上の存在にもなるだろうし。――ちょっと心配だけれど。
マルクスは、ほっと笑った。
「ありがとう、クリス。たぶんあいつ、視察とか言ってあちこちイレーネを探し回るだろうけど、よろしく頼む」
「ええ、できるだけのことはします」
話をまとめられたアルベルトは、妹にまた視線を向ける。ぎくっと頬を強張らせたアンナを凝視しながら、彼はぼそっと呟いた。
「……僕の妹は、非常に趣味が悪いようだ……」
「ん?」
マルクスはよくわからない顔でアンナを見下ろし、アンナは頬を染めて俯いた。