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王太子のお嫁さん。~ときどきお兄ちゃんと妹~7


 マルクスの母親は、快活に語る人だった。クリューガー前侯爵の一人娘だけあって、自信に満ち、鮮やかな笑顔と共に紡がれる明るい話題には、否応なく耳を傾けてしまう。

「やっぱり母国の方が気分は落ち着くのだけれど、隣国もよいところでしたわ。水の国というのは本当でしてね、あちこちに水路がありますの。商売をしている人たちは、家の裏口が直接水路に繋がっていて、そこから船に乗って行商に行きますのよ。常に水が流れる音が聞こえるから、時がゆったりと流れている感覚になる国でしたわ」

 クリューガー侯爵夫人と、そのご友人方の輪の中に入れられたクリスティーナ達は、微妙な席順となっていた。最初に足を運んだアルベルトが、強引にクリューガー侯爵夫人の隣になり、その横にクリスティーナ、アンナ、マルクス、イレーネ、その他ご婦人方の順に丸い机を囲む。

 マルクスの隣に座ることとなったアンナは、直前までの威勢を一瞬で失い、ちびちびと茶をすすっていた。――恋する乙女は、好きな異性の前では大人しくなりがちだ。

 ついついアンナに目を向けてしまうからか、マルクスがこちらに目を向け、次いでアンナを見下ろす。頬を薄っすら染めて茶を飲み続けているアンナを見て、柔らかく笑った。

「……薔薇の紅茶はお好みに合いましたか、姫様?」

「え……っ」

 ご婦人方の会話を邪魔しないよう、抑えた声で尋ねられたアンナは、びくっとマルクスを見返す。マルクスはおや、という顔をした後、また笑んだ。

「それ、隣国の土産なんですよ。母が気に入って買い込んだから、うちの地下に大量にあるんです。微かに甘みがあるでしょう? ドライフルーツが入ってるらしいですよ」

「そ、そうなの……とてもおいしいわ」

 マルクスにとってもアンナは、幼少の頃と変わらない、可愛い姫様の位置にあるようだった。彼の眼差しは先だって思い出したあの日と同じ、妹を見るような慈愛の色が濃い。

 対するアンナの瞳は、隠しようもなくきらめいており、見ているこちらがはらはらする様子だ。

 マルクスの声を聞いたイレーネが、アンナに話しかけた。

「お菓子はいかがですか、アンナ様? アンナ様がお好きな、果実入りのケーキもございます。お取りしましょうか?」

 小首をかしげて尋ねた彼女は、いかにも年上の女性の、穏やかな顔つきだった。含みも何もない、アンナに会えて嬉しそうな微笑みを湛えている。紺色の髪に空色の瞳の、優しそうな女性だ。

 アンナはきょとんとした後、恥ずかしそうに頷いた。

「あ、はい……。ありがとうございます」

 果実が入ったケーキは、アンナの席から取れない位置にある。彼女はアンナに笑顔で頷き、ケーキを小皿にとった。マルクスがその小皿を受け取り、アンナの前に置く。

 クリスティーナは微笑みたいところを、ぐっと我慢し、澄ました顔でご婦人方に目を向けた。きっとクリスティーにまで微笑ましく見守られたら、アンナは更に落ち込む。

 ――一連のやり取りは、どう見ても甲斐甲斐しく世話を焼かれる、子供。

 しかも世話を焼いているのは、好いた男性とその恋人だ。気位の高いアンナには、屈辱ですらあるかもしれなかった。

「……はぁ」

 ケーキを見下ろしたアンナの口から、暗澹とした溜息が漏れる。クリスティーナはぎくっとした。溜息を聞いたアルベルトが、アンナを振り返り、半目になったのだ。

 また『腹が痛いのか』などと言われては、アンナの乙女心に修復不可能な傷かつく。

 クリスティーナはアルベルトに発言させぬよう、彼とクリューガー侯爵夫人の両方に明るく声をかけた。

「ゼクス王国では、水晶を使ったお品が有名だそうですわよね、アルベルト様。私たちの結婚式でも使おうかどうか考えていたのですけれど、いかがでした?」

 結婚式に関しては協力的に務めると約束したばかりのアルベルトは、にこっとクリスティーナに微笑み返し、クリューガー侯爵夫人に向き直る。

「そうそう。お詳しければ、ぜひ教えていただきたい」

 クリスティーナは笑顔ながら、内心むっとした。

 この反応はきっと、覚えていなかったのだ。覚えていたら、アルベルトは水晶をどこに使うつもりかまで話しただろう。隣国の水晶を使った宝飾品を宴の装飾に使ってはどうか、と担当官に提案されていると話したのは、ついこの間なのに――。

 クリューガー侯爵夫人は、嬉々としてどこのブランドが素晴らしいか説明をしてくれた。

 一通りブランド名を聞いたアルベルトは、笑顔でクリスティーナを振り返る。

「じゃあ、隣国の水晶については、僕のほうで決めておいていい?」

「――……はい」

 クリスティーナは瞳を丸くして、戸惑いつつも頷いた。何に使うかまで思い出していなさそうだが、後で調べるつもりだろうか。

「まあ、殿下も細々としたお品をお決めになっていらっしゃるのですか?」

 意外そうに夫人に尋ねられ、アルベルトは愛想よく頷いた。

「基本は官吏が決めるのですが、やはり最終決定は僕たちがするという習わしになっておりますので。クリスティーナには慣れぬ作業が多くて、苦労をかけています」

 王家の挙式は基本、国の威光を示すため、官吏たちが中心になって仔細を決める。十分に吟味された最終候補の中から、一つを選ぶのがクリスティーナたちの役目だった。好きなのを選べと言われるのだが、根がまじめなクリスティーナは、ついつい少ない選択肢の中でも吟味してしまい、時間を取られがちだった。お国がかかわると思うと、どうしても慎重になってしまうのだ。

「まあまあ、素敵なお話ですわ。私も早く、挙式の準備に口を挟めるような立場になりたいものです」

 夫人はマルクスを意味ありげに見る。イレーネも気負いない調子で顔を上げ、茶席全員の眼差しが二人に注がれた。

 マルクスは人のよさそうな笑顔で、肩をすくめる。

「嫌だなあ、そうせっつかないでください。時期が来れば、母上もそういうお立場になれますよ」

 ご婦人の一人が、楽しそうに尋ねた。

「マルクス様とイレーネ様は、やっぱり恋仲でいらっしゃるの?」

 マルクスは笑顔で一拍ほど黙り込む。その隙に、ご婦人方が次々と口を開いた。

「あら、当然そうですわよねえ? 隣国からご一緒にいらしたのだもの。事前に未来の夫の国を見にいらっしゃったのでしょう?」

「そうよねえ。挙式はこちらでなさるご予定なのかしら? やっぱり花嫁の母国で?」

「まあ、そうでしたの。いつご婚約なさったの? 婚約式はされないご予定?」

 イレーネに関しては、あまり詳しく紹介されていないらしい。

 クリスティーナはさり気なくアンナを見る。ケーキを口に運ぶアンナの瞳は、もはや生気の欠片もなかった。

 イレーネは淑女らしく微笑むにとどめ、マルクスに視線を向ける。促されたマルクスは、くるっとアルベルトに顔を向けた。

「そういえば、アルベルト殿下は、婚約式をされたのでしたか?」

 マルクスは、人前ではアルベルトに敬語を使う。唐突に話を振られたアルベルトは眉を上げ、彼の意図を判じかねる顔つきで応じた。

「……ああ、君が隣国へ移った後に。身内だけを呼んだ、簡略な式だったけれど」

 十歳のアルベルトと七歳のクリスティーナの婚約式は、ごく小規模に、王宮内にある教会で執り行われた。成人していれば、それなりに大規模な式になるのだが、成人していない状態の誓いの儀式は、あまり大々的にするものではないと判断されたのだ。

 クリスティーナが十六歳になると同時に結婚する予定でもあったので、婚約式を成人後に、という話にもならなかった。

 身内だけで行われた式だったが、クリスティーナにはとても大きな出来事だった。

 祭壇の向こうにいる女神の像は慈悲の微笑みを湛え、その後ろに広がるステンドグラスは虹色に瞬いていた。

 静謐な空気に包まれる白亜の教会で、無垢な白いドレスに身を包んだクリスティーナは、アルベルトと必ず結婚すると愛の約束をし、彼の前に膝を折った。

 アルベルトも同じく将来結婚をする誓いを立て、クリスティーナの額にやさしく口づけた。

 ベールこそなかったが、とても神聖な儀式だった。

 昔を思い出し、クリスティーナの瞳が潤む。

 とてもドキドキして、アルベルトと将来結ばれるのだと、胸が躍った日だった。

 ――その彼と、本当に結婚できる日が来ようとしている。

 一度は諦めようとした未来が、現実なのか確かめたくなって、クリスティーナはアルベルトを見た。

 立派な青年に成長したアルベルトは、クリスティーナと視線が合うと、眉尻を下げる。甘く微笑み返し、机の下でクリスティーナの指先を軽く握った。

 不意の出来事にどきっとしたクリスティーナの耳元に顔を寄せ、彼は吐息交じりに囁く。

「なんて顔してるの、クリスティーナ。今すぐ口づけられたくなかったら、その可愛い顔を何とかしてくれる……?」

「――っ」

 耳元に吐息が触れて、クリスティーナは身を竦めてしまった。ぐっと指先を強く握られて、はっと背筋を伸ばす。身を竦めると同時に閉じてしまっていた目を開けると、アルベルトは机の上に肘をつき、口元に手を添えて可笑しそうに笑っていた。

 かあ、と頬に朱が昇り、周囲に目を向けたクリスティーナは、生暖かい視線が自分に集中していて、涙ぐんだ。

「あの……」

 ――言い訳が思いつかない。

 アンナに対してはお姉さんぶれるけれども、アルベルトの前では形無しのクリスティーナは、頭が真っ白になった。

「君たちって本当に、昔から仲がいいね」

 助け舟なのか、声をかけて視線を逸らしてくれたのは、マルクスだった。彼はアルベルトを揶揄する目で見てから、クリスティーナに視線を戻す。

「七歳と十歳で婚約して、ずっとお互い一筋って、尊敬に値するよ」

 ふふ、と微笑まし気な笑い声が聞こえていた茶席が、しん、と静まり返った。アルベルトが笑いを収め、身を起こす。

 言わずともわかる。皆の脳裏をよぎったのは、クララとの噂であろう。

 どんなに収拾を図ったとしても、噂というものは一朝一夕に消えるものではなかった。

 アルベルトは躊躇なくクリスティーナの腰に腕を回し、マルクスに微笑んだ。

「当然だろう。クリスティーナ以上の女性など、この世にいないよ。結婚するのが待ち遠しくてならない」

 マルクスはふっと嫌味なく笑う。

「本当に、お熱いね。君は昔から、側室も絶対につくらないって言ってたし。誠実だ。隣国の王族とは大違いだね」

「……ああ。君は、隣国の王族とも、何かと顔を合わせていたのだったか」

 マルクスは視線を落とし、口角だけ持ち上げた。

「父親の仕事が仕事だしね。いろいろとお会いする機会には恵まれてたよ」

 ゼクス王国の法制度に知恵を貸すために出向いた彼の父は、ノイン王国で過ごした頃と同じように、王族に近しい立場であったようだ。

 息子である彼も、王族と懇意にするのは自然な流れだろうが、彼の表情からは、好意的なものを感じない。

 隣国の王室は、ノイン王国と同じように、王族のみ一夫多妻制をとっている国だった。

 ゼクス王国の国王は、確かに側室が二人いたな――と考えていると、アルベルトは溜息交じりに話を戻した。

「王族といっても、個人個人で考えも違うものだ。……お前もそろそろ身を固めたらどうだ、マルクス?」

「んー……」

 マルクスは言い淀んで、母親に目を向ける。

 クリューガー侯爵夫人は、鋭い眼差しを息子に返し、彼は肩を竦めた。

「……どうかな。俺はいい加減だから」

「――まあ、マルクス」

 母親に咎める声で名を呼ばれ、彼はアルベルトに目を向ける。アルベルトは半目でマルクスを見返し、ご婦人方に向かって口を開いた。

「……そうだ。言い忘れていましたが、隣国と言えば、今度隣国の第一王子が来る予定です。公式訪問ではないので、パレードなどはしませんが、王都の造りを見学されたいとか。皆様もすれ違う機会があるかもしれませんよ」

「まあ、ゼクス王国の第一王子様が」

「トビアス殿下ね」

 ゼクス王国の第一王子について、さざめきが生まれる。

 アルベルトに阿吽の呼吸で話の矛先を逸らしてもらったマルクスは、イレーネに視線を落とした。真顔で見返す彼女の頬を、彼は指の背で軽く撫でる。

「……運命なら、必ず結ばれるよ、イレーネ」

 その気障な言葉は、遠回しな将来の約束に聞こえた。しかし彼の声音はまるで、神託でも授けるかのように、低く抑揚がない。

 クリスティーナは違和感を覚えたが、ご婦人方はよい方向に受け取り、一斉に黄色い声を上げた。

「素敵ねえ、私も言われてみたかったわ!」

「お若いって素敵よねえ! 殿下も、マルクス様も」

「うらやましいわあ。私も若かった頃に戻りたいものですわ」

 口々に賛辞を浴びせられ、クリューガー侯爵夫人は微笑んでいたけれど、イレーネの顔色は悪くなり、アンナはこの世の終わりのような顔で項垂れる。

「……あっ」

 アンナに声をかけようとした矢先、腰に回されていたアルベルトの腕に力が籠った。

 強引に立ち上がらされ、クリスティーナはアルベルトの腕に抱き寄せられる。彼は茶席の皆に社交的な笑みを浮かべた。

「失礼、どうぞお話をお続けください。僕たちは少し、美しい庭を散策させていただきます」

「ええ。どうぞごゆっくりお楽しみになってね」

 クリューガー侯爵夫人に笑顔で応じられ、クリスティーナは言葉の接ぎ穂を失った。

 アルベルトはきっと、クララとの一件を思い出してしまったクリスティーナのために、席を離れようとしているのだ。

 だがここにアンナを一人置いていくのは、忍びない。

 アルベルトが有無を言わさずクリスティーナの体の向きを変えさせた時、もう一人、席を立つ人がいた。

「――私も、少し失礼いたします」

 そう言ったのは、マルクスの言葉を聞いて、何故か顔色が悪くなった、イレーネだった。

「マルクス」

 すかさずクリューガー侯爵夫人がエスコートを命じるも、彼女は静かに首を振る。

「いいえ、ごめんなさい小母様。私ちょっとお菓子をいただき過ぎたみたいで、お屋敷に下がらせていただきますわ。マルクスはどうぞ、こちらに残って」

「まあ、そう? 気分が悪くなったら、屋敷の者に言うのよ」

「はい」

 そう言って彼女は、クリスティーナたちにも頭を下げ、そそくさと屋敷の中へ消えていった。

「僕たちも、行こう?」

 アルベルトに促され、クリスティーナはアンナを振り返る。

 マルクスがアンナに話しかけたところだった。青ざめていた彼女の顔が、みるみる明るくなっていく。

「アンナは大丈夫だよ。マルクスは昔から、アンナの扱いが上手いから」

 調子が悪くなったら、すぐに王宮に戻してくれる――と、信頼を寄せる発言をして、アルベルトはクリスティーナを半ば強引に、庭園の中へ連れて行ったのだった。




「クリスティーナ……嫌な思いをさせて、本当にごめん」

 庭園を散策しているうちに、いつの間にか人気のない場所に連れてこられていたクリスティーナは、視線を落とす。

「いいえ……」

 クララとの噂話を聞くのも脳裏に過らせるのも嫌だけれど、これは仕方ないのだ。この世界は、アルベルトとクララが結ばれるかどうかの、運命が仕組まれた世界だったのだから。

 分かっていても、やはりクララにアルベルトを奪われる未来が恐ろしくて、クリスティーナの目じりに涙が滲んだ。

 アルベルトが息を吐く。

「……本当に、ごめん」

 頭上にアルベルトの腕が置かれ、クリスティーナはふと視線を上げた。

 間近に迫っているアルベルトの美しい顔を見上げ、瞬く。

「あの……アル?」

「ん……?」

 アルベルトは薄く微笑み、顔を寄せた。

「え、え……? あの……あの」

 クリスティーナは咄嗟に、アルベルトの胸に手を置く。少しでも接近を遅らせるためだが、言わずもがな、効果は限りなくゼロだ。逃げようと後退したクリスティーナの背中が、木の幹に触れた。

 彼は気にせず、もう一方の手でクリスティーナの顎を掴み、仰向かせる。

「ごめんね、クー。でも僕が愛しているのは、君だけなんだ」

 甘ったるい言葉とともに、黒曜石の瞳が細められ、形よい唇が間近まで迫った。

 クリスティーナは焦り、自分が置かれた状況を認識するべく、周囲に目を向ける。

 自分が立っているのは、太い木の前だ。そして目の前には、アルベルト。彼はクリスティーナの背後にある木に――彼女の頭上に腕をつき、もう一方の手で顎を掴んで、クリスティーナを半ば拘束していた。

 周囲に人の気配はないが、ちょっと背伸びすれば、木立の向こう側を人が歩いているのが見える。

 ――無理。

 クリスティーナは心の中で、断言した。

 木に隠れているとはいえ、ほんのちょっと背を伸ばせば人が見えるような場所で、これ以上は不可能だ。

 彼の誠意は分かった。申し訳ないという気持ちと、自分を愛してくれている気持ちを伝えようとしてくれているのである。

 クリスティーナは艶っぽい眼差しで唇を寄せようとするアルベルトの顎に、ぺちっと手をかけた。

 アルベルトが動きをとめ、眉を上げる。

 クリスティーナの白く細い指先は、しっかり彼の唇を塞ぎ、行為を物理的に不可能にさせていた。

「……あの、お気持ちはわかりましたわ。私もう、そんなに怒っておりませんから、ご無理なさらないで」

 他人の庭先で、無理に口づけなどのスキンシップを図ってまで、クリスティーナの機嫌を取る必要はない。

 にこっと微笑んで言ってみたが、彼はクリスティーナの顎から手を放し、自身の唇を塞ぐ、華奢な手を掴み下ろした。

「無理なんかじゃないよ。僕の愛を君に伝えるためなら、なんだってする」

 輝く笑顔が、かなり本気だ。クリスティーナは額に汗を滲ませる。

「あの、でも……こんな場所」

「大丈夫だよ、誰にも見えない場所だから」

「――え」

 ――そうかしら?

 クリスティーナは不安で、もう一度木の向こう側に目を向けた。が、アルベルトがクリスティーナの耳元に口づけてきて、まともに確認もできぬまま、びくっと視線を戻す。

「アル……っ……」

 アルベルトは、自分を咎めようとするクリスティーナの目尻に口づけ、頬を撫でた。

「ねえ、クー。ほんのちょっとの時間だけでいいから、僕だけを見てくれる?」

 涙ぐんだクリスティーナのためか、彼はかつてと同じように、両の目じりに口づけ、額にまで柔らかく唇を押しつける。

「……アル……」

 眉尻を落とし、緊張でドキドキしているクリスティーナに、彼はやんわりと目を細める。

「大丈夫だよ。誰にも見えない」

「でも……」

 アルベルトの落ち着いた雰囲気に呑まれ、クリスティーナは判断を迷い始めた。

 このまましてもいいのだろうか。アルベルトが大丈夫と言ったら、そんな気もする。でも、成長してからは、外でしたことなんてないから――怖い。

 クリスティーナの怯えに気づいたのか、彼は殊更優しい声音で言った。

「大丈夫だよ、クー……。でも(・・)じゃなくて、はい(・・)と言うだけ。あとは全部、僕が責任を取るよ……」

「……」

 間近に迫られ、吐息交じりに請け負われ、クリスティーナの頭はアルベルト一色になった。

 アルベルトは陶然と自分を見つめるクリスティーナに目を光らせ、とどめの一言を発する。

「ねえクリスティーナ……君は僕のものだよね?」

「……はい、アルベルト様……」

 瞳を潤ませ、背徳感に打ち震えつつも、クリスティーナは素直に応じてしまっていた。

 ――だってクリスティーナは、アルベルトのものなのである。

 婚約式で愛を誓ったあの日から、永遠に――。

 アルベルトの瞳の色が、けだもののそれに変わった。ぞくっとクリスティーナの背筋を、恐怖とも快感ともつかない、寒気が駆け抜ける。

「……いい子だね」

「……っ……」

 アルベルトは狡猾にさえ見える笑みを浮かべ、クリスティーナの唇に喰らいつこうとした。――と、その時、がさっと茂みをかき分ける音が響く。クリスティーナは咄嗟に、べちっとアルベルトの口を手のひらで塞いだ。

 クリスティーナが蒼白な顔で、アルベルトが迷惑そうな顔で見下ろしたのは、二人の大事な妹(義妹)――アンナであった。

 アンナは兄を睨み据え、苦々しげに言った。

「――お兄様ったら、獣ね」




 マルクスと楽しく会話をしていたはずのアンナが登場し、アルベルトは口づけを断念した。しかし臆面もなくクリスティーナを抱き寄せ、妹に文句を言う。

「お前は空気を読むということができないのか? お兄様とクリスお姉様は恋人同士なの」

「あら、ごめんなさい。お兄様が上手くお姉様をだまして、ことに及ぼうとなさっているようにしか見えなかったけれど、恋人同士のスキンシップでしたのね」

 クリスティーナは首まで真っ赤に染めて、涙ぐんだ。いたたまれない。

 アルベルトは忌々し気に溜息を吐き、尋ねる。

「……で、どうしたんだ」

「マルクスが聞きたいことがあるそうですの」

「――マルクスが?」

 不審そうに聞き返されたアンナは、体を半分ずらした。背の低い樹木と木立で見え隠れしていた、茂みの向こう側に、マルクスが立っていた。

 こちらに背を向けて庭園を見渡していた彼は、気配を感じて振り返る。

 彼は真っ赤な顔のクリスティーナと、盛大に舌打ちしたアルベルトを見て、申し訳なさそうに笑った。

「いやーごめん。俺はもう少し後でいいって言ったんだけどね?」

「――未来の国王が未来の王妃を言いくるめて、おいたをなさろうとしているのですもの。とめてしかるべきですわ……!」

 ――アンナは、どういうことか、すっかり元気いっぱいの、元のお転婆王女に戻っていた。

 クリスティーナは、ふるふると震えながら、ぼそっと尋ねる。

「……ずっと、ご覧に……?」

 アンナは何も言わず、にこっと笑んだ。

 クリスティーナは羞恥心に耐えられず、アルベルトの胸に顔をうずめる。本当はこんな真似もするのは駄目だろうが、隠れる場所がないので、せめてもアルベルトに隠してもらいたかったのである。

 アルベルトは、あっさりクリスティーナを両腕で包み込み、面倒くさそうに嘆息した。

「――話はなんだ。簡潔に言えよ」



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