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王太子のお嫁さん。~ときどきお兄ちゃんと妹~5


 木漏れ日が降り注ぐ、風がよく通るテラスで本を読んでいたクリスティーナは、テラスへの出入り口になっている、屋敷のガラス扉が開く音に、顔を上げた。

 臙脂色の衣服を着て、艶やかな銀の髪をきっちり油で整えた父が、こちらへ歩いて来るところだった。

「ここにいたのか、クリスティーナ。手紙が届いていたよ」

「あら、ありがとうございます、お父様」

 クリスティーナは父から手紙を受け取り、宛名を確認する。自分宛なら、直接クリスティーナの元に運ばれるのが普通だが、父の元に届いていたのが妙だな、と思ったからだ。

 宛名は、やはり父宛だった。クリスティーナは封筒を返して、封蠟に押された紋章を見る。ユニコーンを象徴とするその紋章を撫でた時、傍らに立っていた父が、口を開いた。

「クリューガー侯爵家からの、茶会の招待状だ。お前を誘う許しを兼ねての招待状だったから、私に宛てられている。長く隣国へ出ていたが、ようやく先頃こちらに戻ってこられたご一家でね、お前は幼かったから、覚えているかはわからないが、昔はあそこの息子とも仲良くしていたんだよ」

「ええ、マルクス様でしょう? 先日、王宮でお会いしたわ。最初は分からなかったのだけど、アルベルト様とお話している姿を見ている内に、思い出したわ」

 白銀の髪を揺らめかせ、おっとりと笑んだ娘を見下ろし、父は感慨深そうに頷いた。

「そうか。私も先日、王宮内で殿下と一緒にいる所に居合わせて、挨拶を受けたよ。立派な青年に成長していた。殿下はたまに、手紙をやり取りしていらっしゃったようだから、今も気安いご様子だが、お前はそうもいかないからな。直ぐに思い出せなくても仕方ない。……彼の顔を見たら、王宮の園遊会で、お前が懐いていたのを思い出したよ。お前たちは、とても仲がよかった」

 クリスティーナは瞬く。

 アルベルトと婚約していた自分が、別の異性と手紙を送りあえないのは、あらぬ疑いをかけられないように、という自衛からくるものだろうと理解できた。けれどアルベルトがマルクスと手紙をやり取りしていたとは、初耳だ。どうしてこれまで、一度も話題に上らなかったのだろう。

 違和感を覚えつつも、クリスティーナは話を続けた。

「……きっと、お兄さんという感じで、安心できたのだと思うわ。アルベルト様やアンナ様とご一緒にお話をしていたのは、覚えているのだけれど」

 あの頃はアルベルトに夢中になっていて、マルクスの印象は薄い。どの思い出も、アルベルトの方が鮮明で、先日思い出した一件以外、彼との思い出はふわっとしていた。

 余り思い出せない様子の娘に、父は眉を下げて苦笑する。

「まあ、お前も小さかったからな。だがあの青年は、治水に関しても学んできたそうだから、用意周到だ。治水技術は、ノイン王国では需要が高い。彼が使えるようなら、今後、心強い」

「お父様の事業に、お声をかけるおつもりなの?」

 父は、クリスティーナが物心つく前から、ノイン王国の治水事業に取り組んでいた。ノイン王国は、王都の整備こそ十全だが、辺境地の整備は道半ばだ。この事業には、アルベルトも参加している。クララとの一件を収拾する際、国王直々に参入するよう命じられていた。

 父は顎を撫でて、珍しく楽しそうに笑った。

「ああ、使える若者は多い方がいい。彼もそのつもり(・・・・・)で、学んできたのだろうしな」

 そのつもりとは恐らく、いずれ政府の要人につく腹積もりだ、という意味だろう。

 日頃忙しくしている父にとって、人手は多ければ多いほど、その質が高ければ高いほど、喜ばしいことだ。

 アルベルトと話していたマルクスの様子は、気のおけないよい関係に見えた。クリスティーナに異論はなかったが、気落ちしたアンナを思い出してしまって、少し胸が痛んだ。

 アルベルトとマルクスが頻繁に会うなら、アンナも否応なく彼の顔を見る。その度彼女は、叶わない恋に胸を締めつけさせるのだろうか。

 封筒を開き、来週の茶会の予定を記された招待状に目を落としながら、クリスティーナは切ない溜め息を落とした。

 ――ようやく恋をしたお相手に、恋人がいるなんて……運命の神様は、残酷ね。



 アンナは、幼い頃から両親と臣下達の愛情を一身に受けて育った王女だ。

 彼女の兄・アルベルトについては、嫡子であったため、国王夫妻の強い意向と共に、十歳の折に婚約が決まった。

 しかし、アンナは違った。国王夫妻は娘の気持ちを優先したいと考え、降嫁先については、年頃になるまで定めない、としているのだ。もちろん時勢が変われば、政略結婚もあり得るとは、国王夫妻も説明しており、本人も了解している。

 けれど国王夫妻は彼女に、恋愛結婚をして欲しいと考えている様子だった。国王夫妻は仲睦まじいが、政略結婚だ。彼らは、自分たちが得られなかった選択肢を、娘には用意してやりたいのだろう。

 王家の方針をよく理解しているクリスティーナは、クリューガー侯爵邸の執事に庭園まで案内されながら、周囲を流し見る。少し早くついてしまったクリスティーナのために、この屋敷の執事が案内がてら、簡単に庭の説明をしてくれているのだ。

 クリューガー侯爵の屋敷は、公爵邸と似通った雰囲気だった。華美ではないながら、柱やアーチ形をした出入り口の上部、屋根や壁に掘られた彫刻は、どれも一級の彫刻家が成したと分かる。整えられた芝生に、庭師が完璧に手入れしている花壇や樹木。盛りは過ぎたが、クリューガー侯爵の庭園は見事な花々に包まれ、十分に人々を楽しませられる様子だった。

「奥様も、クリスティーナ様にお会いするのを大層楽しみにしていらっしゃいます」

「……私も、幼少の頃にお会いできていなかったので、楽しみです。母も来られたらよかったのだけれど……」

 今日の茶会にはクリスティーナの母も呼ばれていたが、数日前から風邪をひいてしまって、欠席だ。もうほとんど治っていて、母も平気よ、と言っていたのだけれど、過保護な父が治りきるまで外出禁止だと厳命し、クリスティーナのみの参加となったのである。

 煉瓦を敷きつめた通路を歩んでいたクリスティーナは、前方に人気ひとけを感じ、顔を上げた。漆黒の衣装を着たマルクスと、華やかな山吹色のドレスを着たイレーネだ。二人はクリスティーナが後方を歩いているのに気づいていない様子で、庭園の先に向かっている。もう少ししたら、通路の途中に設けられた、薔薇のアーチを潜り抜ける所だった。

 薔薇のアートを二人で通り抜ける様は、さぞかし素敵なカップルに見えるだろう、とクリスティーナは二人の後ろ姿を注視する。

 そしてそんなつもりはなかったが、前方から吹いて来る風に乗って、二人の会話が届いた。

「本当について来てよかったわー。顔ばっかりの貴方もたまには役に立つわね」

「たまにはって、君ね。俺は役に立つことしかしてないと思うが。……何でもいいけど、今日の茶会が終わったら帰りなさいね」

 クリスティーナは首を傾げる。ゼクス王国から来ているイレーネが滞在しているのは、クリューガー侯爵邸だろう。帰るとは、どこに帰るという意味だろうか。

 帰れと言われた彼女は、眉を吊り上げ、マルクスを睨んだ。

「なんでよ。もっと姫様方とご一緒したいわ。将来の夫のご友人のご親族ですもの!」

 マルクスは肩を落とし、項垂れる。

「もーいい加減にしないと、本当になるよ、その話。うちは母が君びいきだから何とかなってるけど、普通はこのまま婚約・結婚って流れになるからね。……君もいい加減、素直になったら? 結婚は好きな人とするのが一番いいんじゃないの? 女の子は特に」

「好きな人なんていないわ」

 クリスティーナの斜め前にいた侯爵邸の執事が、びくっと背筋を伸ばし、こちらに微笑む。

「少々、失礼致します……」

「……え、ええ」

 会話の内容が全部聞こえてしまって、クリスティーナもどうしていいのか分からなかった。取りあえず声が聞こえないように、その場に立ち止まる。執事は足早に二人の元へ歩いていくが、イレーネとマルクスは気づかずに会話を続け、その声もまた届いてしまった。

「それに貴方のことは嫌いじゃないから、結婚したっていいわ」

「好きでもないでしょ」

「貴方だって好きな女の子はいないって言ってたわ」

「俺は、結婚の予定は当面ないって言ってたつもりなんだよねえ……」

 マルクスは、ぼそぼそと呟いて、溜息を吐き出した。

「全く、君は本当に素直じゃない……」

「――坊ちゃま」

「うん? ……あ?」

 執事がようやく声をかけたところ、振り返ったマルクスは、執事の後方にクリスティーナがいるのに気づき、にこっと笑った。

「あれ、クリスじゃないか。もう来てたのか。早いね」

 後ろめたさのかけらもない、いい笑顔を浮かべ、彼はこちらへ歩いて来る。全部聞いてしまったものの、クリスティーナも取り繕った笑みを返した。

「お招きいただきありがとうございます。少し早く着いてしまったので、庭を案内してもらっておりました」

「そっかあ。いやあ、まさか王族関係者が背後を歩いてるなんて思ってなくてさ」

 マルクスはアルベルトが感情を隠すときに浮かべる笑顔とよく似た、輝く笑みを浮かべて、両腕を広げる。なんだろう、と見ていたクリスティーナは、彼が一定の距離を踏み越えて迫って来たので、ぎくっと肩を震わせた。

 アルベルトの、笑顔ながら、ややひんやりした声音で囁かれた忠告が耳に蘇った。

『マルクスは僕の友人で、君も気安いだろうけど……二人きりにならないように、きちんと区切りはつけてね』

 ――二人きりじゃない。

 二人きりじゃないけれど、これはよくないわ、と思った。逃げるのもおかしいし、かといってこれをアルベルトに見られたら、多分怒られるわ――とも。

 クリスティーナは間近に迫って来るマルクスを避けることもできず、身を小さくして、俯く。

 拒絶を表現したのに、立派な成人男性に成長したマルクスは、その長い腕を広げ、頓着なくクリスティーナを抱き竦めた。背中に回された腕の感触に、何故かぞくっと背筋が冷えた。

「……っ」

 マルクスはそのまま、息を詰めたクリスティーナの耳元で、低く尋ねる。

「……ねえ、クリス。聞いちゃったかな、俺達の会話……」

「……いいえ……何も」

 咄嗟に口をついたのは、嘘だった。背中にじわっと嫌な汗が浮く。彼の声音は明らかに、口封じの算段をしているそれだ。

「坊ちゃま、お控えください……っ」

 執事に焦った声で窘められ、マルクスはくすっと笑って軽く身を離す。戸惑うクリスティーナの顔を覗き込み、眉尻を下げた。

「内緒にしてくれるかな、クリス。こちらも事情があってさ」

「……」

 政略結婚でもないのに、好きでもない者同士が、婚約の予定だと公言するなんて、よほどの事情だ。

 彼らのためにも深入りするべきではない、と感じたクリスティーナは、自分を落ち着かせるために、薄く唇を開け、息を吸う。

 マルクスがクリスティーナの唇に視線を落としそうになった時、彼女は不意に、後方へ引き寄せられた。お腹に誰かの手のひらが乗せられ、次いでぽすっと一回り大きなそれに背中を包まれる。

「どういうつもりだい、マルクス?」

 耳に届いたのは、聞き間違えるはずのない、低く、しかし不思議と遠くまでよく通る、アルベルトの声だった。

 見上げると、凛々しいアルベルトの顔がある。彼は眉を吊り上げ、皮肉気な笑みを浮かべて、マルクスを見ていた。

「アルベルト様……お茶会にお呼ばれしていたの……?」

 クリスティーナは状況を忘れて、尋ねる。お茶会は普通、ご婦人方が中心になって開くものだ。ホスト側の主人や子息がたまに顔を出すけれど、男性が呼ばれる茶会はそんなに多くない。

 アルベルトはこちらに視線を落とし、腹に回していた手のひらを肩に移して、クリスティーナを自分に向き直らせた。

「今回は特別だよ。クリューガー侯爵夫人から直接お誘いいただいたから」

 彼は穏やかな声で応じて、何気ない素振りで顔を寄せる。心臓がどきっと高く跳ね上がり、クリスティーナは思わず、ぎゅっと目を閉じた。アルベルトは躊躇いなく頬に口づけ、もう一方の手でクリスティーナの頬を撫でる。

「……っ」

「可愛い僕の婚約者殿は、相も変わらず無防備で困るな」

 漆黒の瞳が自分を間近で見つめ、揶揄した。咎められているのに、クリスティーナは心臓を乱し、ときめきに瞳を潤ませる。

「あの……ごめんなさい」

 両腕を広げられた時点で、逃げようがなかったのだが、クリスティーナは謝罪した。幼い頃からアルベルトの婚約者だったクリスティーナは、今一つ、迫られた際の判断力に劣る。これは、以前アルベルトに、髪を異性に触れさせるなんて、と咎められて以降、今後のためにも何とかしないといけない課題だった。

 成長できていない自分が申し訳なく、しかし口づけられて心臓は乱れているため、クリスティーナは頬を染めたまま、潤んだ瞳でアルベルトを見上げる。クリスティーナの表情を見下ろしたアルベルトは、眉尻を下げ、仕方ないな、という顔で笑った。

「いいよ。今回は許してあげる。悪いのはマルクスだものね?」

「えっと……」

 クリスティーナは、返答に窮する。誰が悪いという話でもなかった。おそらくマルクスがクリスティーナを抱き締めたのは、誰にも聞かれないよう、密かな会話をしたかったからだ。

 アルベルトはクリスティーナの返答は待たず、マルクスに視線を投げる。

 マルクスは肩を竦めた。

「おいおい。俺たちの仲なんだから、ハグくらいいいだろ。挨拶だよ。仲のいい者同士の、ご挨拶。嫉妬深い男は嫌われるぞ、アルベルト」

「ハグにしては、拘束時間が長すぎたように思うよ。僕たちの仲なんだ。お前だって僕がどういう人間か、分かっているよね?」

「……ああ……まあ、それは、そうだけどね」

 笑顔で問い返され、マルクスはひくっと頬を引き攣らせる。ばつの悪い顔で額を手のひらで撫で、嘆息した。

「悪かった。ちょっとふざけ過ぎたよ。もう二度と同じ真似はしないから、そう怒らないでくれ」

「そう。分かってくれたなら、よかった。クリスティーナに関しては、お前が思っている以上に、僕は心が狭いからね、マルクス。重々気をつけておくれ」

 マルクスは声を出さずに「うへえ」と口を動かした。

 クリスティーナは、なんだか居心地が悪くて、視線を彷徨わせる。アルベルトが自分を大事にしてくれるのはありがたいが、大げさな物言いだ。

 そしてクリスティーナは、一つも声を発していない人物に気づいた。

 マルクスと歩いていたイレーネだ。彼女は薔薇のアーチの手前で立ち止まったまま、こちらを見ていた。

 紺色の髪が風に揺れて、ふわりと広がる。きら、と光を弾いた髪は、海の波間のように美しかった。

 腹の前で両手を重ね、こちらを見ている彼女は、緊張に頬を強張らせている。

 空色の瞳に怯えを滲ませ、震える指先をぎゅっと握りしめた。

「――……」

 彼女の表情に、クリスティーナは息を呑む。

 辛そうな表情だった。

 何故だか、アルベルトをクララに奪われると思ったあの時のような、辛く息詰まる感情を彼女の表情に見た気がした。



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