王太子のお嫁さん。~ときどきお兄ちゃんと妹~4
昔を思い出したクリスティーナは、成長した姿のマルクスを、改めて見やる。
交流期間がほんの数か月間だったのも、彼を思い出せなかった要因だろうが、成長した彼の姿が昔と全然違うのも、その原因に思われた。
かつての彼は、髪を短く切りそろえ、いかにもはつらつとした少年の外見をしていたのだ。今の彼は、髪は伸び、背もアルベルトと同じくらいに高く、その容姿は言っては何だが――経験豊富そうな大人の男の人なのである。
そう――一見穏やかで、警戒心を抱かせない雰囲気を持っているのだが、よくよく見ると、女性の扱いをよく知った大人の男性に見えた。隣には、クリスティーナより少し年上そうな、美しい女性を従えてもいるし。
クリスティーナは紺色の髪の美少女を見てから、アルベルトに視線を移した。アルベルトは、彼女とも知り合いなのだろうか。
問う前に、クリスティーナは改めて、自分の婚約者の成長ぶりを認識する。
あっという間に背が高くなって、軍部の訓練に参加する傍ら、宴やクラブに顔を出すようになったアルベルトも、すっかり大人の男性だ。クリスティーナを当たり前に腕の中に抱き込み、油断するとすかさず、もっと深い触れ合いをしようとする。しかもその手管は、毎度クリスティーナが心臓発作でも起こしそうなほどに艶っぽく、逃れられない魔性の色香でもって、未知の快楽を与えようするのだ。過ぎた触れ合いをした後、侍女や家族に顔を合わせると、クリスティーナはいけないことをした気分になって、居心地が悪くなった。けれど彼のほうは、至って平然としており、何とも思っていなさそうですらある。
その差が、何とも大人と子供の差に感じられ、クリスティーナは今一つ納得がいかなかった。
経験が足りないのは分かっているけれど、それはアルベルトだって同じはずだ。彼だって、婚約してから今まで、クリスティーナ以外の女性を知らない。なのに、どうして彼は余裕そうに見えるのだ。
クリスティーナの視線に気づいたアルベルトは、漆黒の瞳を細め、甘く微笑む。その笑みすら、なんだか女慣れした反応に感じてしまい、クリスティーナは頬を染めて、そっぽを向いた。アルベルトの胸を押し、彼の腕の中から逃れる。
逸らした視線の先にいたマルクスが、クリスティーナの様子を見て、手のひらで口元を覆った。しかし彼は、くくっと堪えきれない笑い声を漏らし、アルベルトの肩を小突く。
「どう見ても喧嘩してるじゃないか、アルベルト。というかお前、何したら彼女を怒らせられるの? 子供の頃でも、むくれたところならまだしも、彼女が怒ったところなんて見たことないぞ」
くつくつと笑いながら、マルクスはクリスティーナに近づき、手を取った。非常にさり気ない仕草でクリスティーナの手の甲に口づけると、にこっと笑む。
「俺のこと、思い出してくれたかな? お久しぶりです、クリスティーナ嬢。我らのマドンナは今なお美しく、その輝きに驚きを禁じ得ません。いや、かつて以上の美しさだから、全くアルベルトの必死な気持ちがよく分かります」
「……お久しぶりです、マルクス様。その……貴方は、とてもお変わりになりましたわね」
さらっと気障な挨拶をされた上、なんだかとんでもなく褒めちぎられてしまい、クリスティーナは戸惑った。
アンナに目を向けると、彼女は平気な顔をしている。クリスティーナなら、アルベルトが自分以外の女性にこんな挨拶をしたら、嫉妬してしまいそうだ。尤も、相手が兄の婚約者なので、何とも思わないのかもしれないが。
マルクスはクリスティーナに釣られて、アンナに視線を向けながら、口角を上げた。
「ええ、少々不精をしてしまって、髪も伸びましたしね。切ろうかとは思っているのですが、面倒でそのままになっている」
「いつお戻りになられましたの?」
彼の父――クリューガー侯爵は、法務省に勤めていたが、その法に関する知識を求められて、隣国へ移ったのだ。隣国・ゼクス王国は、町の至る箇所に川が流れる、水の国として知られている。
「十日前ですよ。母が母国へ戻りたがっておりましたし、隣国の法整備も整ったので、戻ってきた次第です。俺もあちらで治水の勉強をしてきたので、お役に立てるかな、と思っているのですが」
風が回廊を横切り、アンナの髪が揺れた。マルクスは何気ない仕草でアンナの髪に手を伸ばし、アルベルトがクリスティーナにしたのと同じように、耳にかけ直す。アンナの頬がふわっと桃色に染まった。
マルクスはアンナに微笑み、クリスティーナ達を振り返る。
「戻ってみたら、アルベルトも姫様も変わりなく、逆に少々驚いたくらいだ。君は大分変ったようだけれどね」
「……そう?」
何か変わったかしら、と首を傾げると、彼は肩を竦めた。
「昔はもう少し、お転婆なお嬢さん、という感じだったよ。姫様みたいにね」
「あ……」
クリスティーナは、指先で口を押さえる。
確かに、マルクスと出会ったばかりの頃は、前世も思い出しておらず、もう少しお転婆な少女だった。記憶は曖昧だが、アンナのような年下の子がいない場では、もっとマルクスに甘えていたように思う。
「まあ、失礼ですわね。私だって、今はもうお転婆なんかじゃありませんわ」
話の種にされたアンナは、眉を吊り上げた。マルクスは素早くアンナに向き合い、腰を折ってアンナの手の甲に口づける。
「失礼いたしました、姫。そうですね、貴方も見違えるほどお美しくなられ、お会いするたび目を奪われます」
「――っ」
柔らかく手の甲に口づけられ、その上甘ったる言葉を吐かれて、アンナは首まで真っ赤に染めた。クリスティーナは、マルクスの口のうまさに、内心舌を巻いた。ものすごく、女性の扱いを知っている男性だ。
アンナは真っ赤になって、黙り込んでしまっている。
マルクスはたった一言でアンナを黙らせ、アンナは完全に、彼の手のひらの上で転がされている様子だた。
――マルクスは、アンナには少し大人の男の人過ぎるかもしれない。
微笑ましさ半分、心配な気持ち半分で、クリスティーナは話を逸らした。
「……こちらの方を、ご紹介いただけますか、マルクス様?」
ころころと表情を変えるアンナを、面白そうに見ていたマルクスは、身を起こす。気安い雰囲気で、紺色の髪の少女の背に手を置いた。
「……こちらはイレーネといいます。ゼクス王国のデュカー侯爵家のお譲さんで、クリスティーナ嬢の二つ上かな? 十七歳になる。一応、俺と婚約する予定で、今回は後学のためにこちらに来ています」
クリスティーナは目を丸くして、イレーネから、アンナに視線を移す。アンナは床に視線を落とし、表情が見えなかった。
気落ちした気配を感じ、ついつい、アンナを抱き締めたくなってしまったが、クリスティーナは何とか自分をコントロールして、イレーネに笑む。
「初めまして、イレーネ様。私はクリスティーナと申します。ご婚約のご予定だなんて、おめでとうございます」
背中に届く紺色の髪をあっさり流しただけの少女は、形良い空色の瞳をクリスティーナに向け、薄く微笑んだ。
「初めまして、クリスティーナ様。将来の夫の故郷を見ておきたいと思い、無理を言ってこちらへお伺いいたしました。クリスティーナ様にお目にかかれた幸運を、神に感謝いたします」
――神に感謝……?
随分と大げさな挨拶だな、と思った。クリスティーナがほんの少し言葉を失った間を拾い、アルベルトがマルクスに尋ねる。
「婚約はいつ頃する予定なんだ?」
「……まあ、うん。そのうち、ってところかな」
マルクスは眉尻を落とし、何故か言葉を濁す。
イレーネの眼差しが鋭くなった気がしたが、次の瞬間、アンナが背を向けてしまったので、クリスティーナの意識は逸らされた。
「私、お部屋に戻る」
「アンナ様、私もご一緒しますわ」
クリスティーナに声をかけられ、振り返ったアンナは、縋るような眼差しを返したが、唇を引き結び、また背を向ける。
「いいえ、いいの。お姉様を取り上げたら、お兄様が煩いもの」
「アンナ。挨拶くらいして行きなさい」
アルベルトが小煩く淑女の振る舞いを求めたので、クリスティーナは胸が締めつけられる思いだった。アンナは一刻も早く、この場からいなくなりたいだろう。けれど、いかなる時も、王女としての振る舞いを忘れてはならないのも、本当だ。
自分でも分かっているのか、アンナは立ち去るのをためらった。しかし兄の顔を見ると、甘えの方が優先されたようだ。
彼女は瞳に涙を湛え、再び踵を返した。
「――何よ。お兄様なんて、クリスお姉様に嫌われちゃえばいいのよ……っ」
「――アンナ」
アンナの暴言に、アルベルトは眉を上げた。何も気づいていない様子のアルベルトを、クリスティーナはじっとりと見つめてしまう。
アルベルトは妹の態度に嘆息し、客人に――主にイレーネに対して、謝罪した。
「躾がなっておらず、申し訳ない」
声をかけられたイレーネの瞳が、何故だか活き活きと輝いた。彼女はアルベルトをキラキラした瞳で見つめ、意外なほど嬉しそうに笑う。
「いいえ、とんでもございません。お噂に違わぬ、愛らしい王女殿下でいらっしゃいます。姫様のお可愛らしさは、隣国にまで知れ渡っております故、頻繁にお顔を拝見でき、大変嬉しく思っております」
「とんだお転婆で、お恥ずかしい限りだ。けれど、ありがとう」
妹を褒められて、アルベルトは兄の顔で笑んだ。
アルベルトは、本気で妹を怒っているわけではなく、ただ、いつもはきちんと礼儀を弁える彼女が、今日に限って乱れた理由が分からないようだった。
説明をするにしても、当人の目の前ではできず、また今度アンナに確認してから、アルベルトにもそれとなく話すしかない。クリスティーナは一人心の内で決めて、女神の如き清らかな微笑みを浮かべた。アルベルトに対し、淑女の見本ともいえそうな、美しい礼をしてみせる。
「それでは私も、こちらで失礼いたしますわね、アルベルト様……。次にお会いする時は、もう少しきちんとお話をしとうございますわ」
「帰るの? 待って、送っていくから」
家まで送ると言い出したアルベルトを無視し、クリスティーナはマルクスとイレーネにも、美しい礼をとる。
――忘れかけていたけれど、クリスティーナはまだ、今後のために、アルベルトに怒っていると示さねばならないのだ。
「それでは、お二人ともごきげんよう。またお会いいたしましょうね」
マルクスはくすっと笑って、クリスティーナに首を傾げた。
「今度母が茶会を開く予定なんだけど、来てくれるかな?」
「ええ、もちろん。ご招待されるのを、楽しみにしておりますわ」
マルクスの母に会った記憶はないが、今後クリューガー侯爵家が政に関わるのなら、王太子の婚約者として、必ず顔合わせをせねばならない。
「それと、よければ今後も、クリスって呼んでいいかな?」
「ええ」
クリスティーナは抵抗なく、彼の要望をすべて受け入れた。アルベルトが背後で溜息を落とす。なんだか不満そうな空気を感じ、振り返ろうとしたクリスティーナは、視線を動かす途中でイレーネの眼差しに気づき、ドキッとした。彼女はマルクスと話をしていたクリスティーナを、爛々とした瞳で、食い入るように見つめていたのだ。
クリスティーナは逡巡する。彼女の表情が、自分も話がしたい、というアピールなのか、マルクスと話をしていたクリスティーナにヤキモチを焼いただけなのか、判断に迷った。ちょうどその時、マルクスがちょっと動いたせいで、イレーネは彼の後ろに隠れてしまう。クリスティーナは何故だかほっとして、アルベルトを振り返った。
機嫌を損ねたと感じたのだが、見れば、アルベルトは普段通りの穏やかな顔色だ。クリスティーナはまたほっとして、自分でもそれと気づかずに、甘えたお願いをする。
「ねえ、アルベルト様。どなたかに、私の侍女を正面ホールまで来させるよう、お伝えくださいますか? 私は先に行っておりますから」
「いいけど、君の家まで僕も一緒に行くからね、クリスティーナ?」
「…………」
まだ怒っている、という顔を作ったが、アルベルトもまた、絶対に譲らない、と無言の笑顔で応戦した。
客人の前でいがみ合うわけにもいかず、結局折れたのは、クリスティーナだった。
そして残念ながら、クリスティーナは馬車の中で、あっけなくアルベルトに陥落した。
アルベルトは、侍女の前だというのに、クリスティーナが真っ赤になって泣き出しそうになるまで、熱烈な睦言を囁き続けたのだ。そしてこれからは式についてもっと考えると言ったので、クリスティーナはドキドキし過ぎてくらくらしながら、いつの間にか仲直りすると口にしていたのである。
公爵邸の玄関ホールまでクリスティーナを送ったアルベルトは、別れ際に「マルクスは僕の友人で、君も気安いだろうけど……二人きりにならないように、きちんと区切りはつけてね」と耳打ちした。
アルベルトならともかく、婚約者以外の異性と二人きりにならないように気をつけるのは、淑女の基本だ。
――それくらい、分かっているのに。
アルベルトは、きょとんとするクリスティーナに優しく笑んで、王家の馬車に戻った。彼を見送りながら、クリスティーナは不思議に、首を傾げたのだった。