流れるままに!3
例えば仲間との航海中、海の真ん中にボロボロの筏を見つけた時。
その筏から、至極元気そうな、けれど小さな革袋一つきりしか持っていない軽装の少女がギャンギャン泣きながら手を振ってきたら、まずは何と言うだろうか。
ソワナ緑海商業組合所属、ジーノ・イェルクスの場合はこうだった。
「えっ幻覚?」
※※※
「ほんと、本当にありがとうございました。死ぬかと思ったんです。死ぬかと思ったんです」
「あ、うん。それはお前の顔見れば分かるんだが」
海では助け合いの精神が重視される。生きているなら放っておくわけにもいくまいと引き上げた黒髪の少女は、なんか物凄く腰が低かった。
ボロい筏で漂流するのが余程怖かったのだろう。近寄って来た船員が水のコップを差し出せば、クロセと名乗ったその少女は、ありがとうございますありがとうございますとまたぺこぺこ頭を下げ始める。
膝を畳んで甲板に座っているせいで、彼女の体勢は東の大陸で言う「ドゲザ」に似ていた。疑惑の眼差しを隠しもしていなかった右腕が、何だかいたたまれなさそうにスッと目を逸らす。幼気な子供をいたぶる極悪人のような気分になったに違いなかった。
海風で傷んだ金髪と褐色に焼けた肌、がっちりと筋肉のついた体を持つジーノは、生まれてから二十五年、その半分以上を海の上で過ごしてきた。
その中には海賊に襲われたこともあれば、違法な奴隷船を見たことも、海生のモンスターに遭遇したこともある。
けれど、こうも対応に困る事態は久々だと、彼は盛大な溜息をつきながら考えた。
――例えば、あんなボロの筏で海を漂っていたこと。
――あまりにもタイミング良く、この船に出くわしたこと。
――ほとんど荷物を持っていなかったこと。
――にもかかわらず、彼女に泣き叫ぶだけの余力があったこと。
違和感は数え上げれば切りがない。
正直、状況だけ見るなら、彼女は割と怪しいのである。海賊の斥候か、島流しに遭うような極悪人かと疑わないわけでもなかったが――
(なんかこう……違う気がする)
下ろしてやった縄梯子を掴み損ねて筏から落ちたため、今のクロセは海水でびしょ濡れだ。
そのせいか、ぐすぐす鼻を鳴らしてコップの水を飲む彼女は、まるで雨に濡れてしょぼくれた捨て犬のようだった。
何となくこちらの舌までしょっぱいような気分になりながら、ジーノは顰めっ面で首を傾げる。
見れば、少女の体格は随分と小柄なものだった。
十代前半の子供に見えるが、生まれは海や農村ではないだろう。何故ならばそういった所の子供は往々にして幼い頃から親の仕事の一端を担い、少ないながら力仕事にも従事する。
そんな生活をしてきたにしては、彼女の体付きは若干作りが頼りない。逆に髪や肌、身に着けた服の質は、極めて上等なものである。
しかし、ならば翻って大層な箱入り娘なのかと問われれば、それにもジーノは違和感を覚えた。
ジーノから見ればまだまだ貧弱な部類だが、彼女の細い手足には、よく見ればそれなりの筋肉が付いている。
あれは貴族子女の生活や作法で養われる類のものではない。乗馬やダンスを趣味とする貴婦人には幾度か会ったことがあるが、クロセの筋肉は彼女たちのそれとは、些か特徴を異にしていた。
更には、隙だらけで警戒心の欠片も見えない態度。人に慣れた子犬を想わせるあの雰囲気は、どう考えても争い事を日常とする人間のそれではなかった。
きっとジーノが真正面からゆっくり手を伸ばしたとしても、彼女は大きな目をきょとんと瞬くだけに違いない。その首をへし折られる瞬間まで無抵抗にジーノを見上げ続ける少女の姿が目に浮かぶようで、彼は少女の細首を眺め、無意識に眉を寄せた。
――そして、何より。
(どれだけ獲物を油断させるためだろうと、そのテの仕事をしていながら、こうも色気が壊滅した女がいるとは思えないんだよなぁ……)
本気でジーノたちを狙って懐に飛び込むつもりなら、折角持ち合わせた女という性別を利用しないなんてあり得ない。
如何せん、それなりに持て囃される精悍な容姿を持つ己の前で、ああも涙と鼻水を全開で垂れ流して幼子のように泣き叫ぶ娘など、ジーノはこれまで一度たりとも見たことがなかった。
「……どこ見てんですか、ジーノ」
傍らにいた右腕――幼馴染兼副船長のリーフェンに固い靴先で脛を蹴られて、ジーノは慌てて少女の胸部(当然のように小さかった。俺ならこんなマニア向けのスパイ送らない)から視線を逸らした。
如何に立ち位置不詳の怪しい少女であろうと、あんな子供を性的な目で見るのは流石にアウトらしい。冷え切った軽蔑の眼差しを向けてくるリーフェンに、ジーノは片手をひらひらと振って降参の意を示した。
「あ、筏が自然分解した」
「ひいい、あたし危機一髪!」
一方あちらでは、クロセの頭をせっせと拭いてやっていた船員が(そう言えばあいつは捨て犬や捨て猫を放っておけない質だった)、ロープが切れたらしくゴトゴト流れてゆく丸太を見下ろしてぼそりと言う。真っ青な顔で震え上がったクロセは、ガタガタ歯を鳴らしながら「海コワイ海コワイ」と呟いていた。
「……で、結局どうしてあなたがあそこにいたのか、そろそろ教えて頂けませんかね?」
その辺りでいい加減耐えかねたらしく、リーフェンがうんざりしたように口を挟んだ。
亜麻色の長髪をざっくり三つ編みにした彼は、時々思い切りの良過ぎるジーノの隣に幼い頃からいたせいか、ジーノの分まで補うように知識と警戒心を磨いてきた優秀な右腕だ。
今回も怪しげな少女の存在に嘆息しつつ、彼は努めて冷静に彼女を見極めようとしているようだった。
周りを見れば、やはり彼らも気になるのか、甲板を行き交う船員たちも興味深そうにちらちらと少女を見やっている。
投げやりに先を促され、こちらもどうやら自分の状況を思い出したのだろう。はっとしたクロセは、素直に「失礼しました」と姿勢を正した。
ようやく事情が聞けるようだと、ジーノも腕組みで傾聴の体勢に入る。
努めて背筋を伸ばして、クロセが緊張した顔で口を開いた。
「えぇと、簡単に言うとあたし、保護者と一緒にリッジの港町を訪問中でして」
「なんだ、次の目的地じゃないか」
「はい、到着まであと七日というところですね」
「で、ふと気が付いたら、海の真ん中の小島にいました」
「ちょっと待て」
早々にツッコミを入れた。
説明を遮られて困った顔をするクロセに、ジーノはこめかみを押さえながら、隣で同じように顔を引き攣らせているリーフェンを横目に見る。
「あー、その、いまいち途中経過が分からないんだが。つまり、お前は誰かに誘拐されたってことか?」
「いえ、町の真ん中にある大きな橋から飛び降りた後、小島の海岸で目覚めるまでの記憶がないんです」
「え、自殺?」
「違います。なんか強盗っぽいのに追われてて」
「逃げてたんですか」
「はい」
ジーノと船員とリーフェン、三方から寄せられる質問に答えを返しつつ、クロセは説明を続行した。
「それでまあ、視界に陸地が全く見えないもので、こりゃヤバいと思って海岸沿いに探索してたら、やたら古びた筏があって」
「嫌な予感がしてきた」
「それでギッコンと漕ぎ出したら、半日くらい経ってこの船が見つかったんです」
「なんで漕ぎ出した!? 普通そこに留まるだろ!」
「いやあ……何となく?」
半日に渡る漂流という恐怖体験の後では流石に当人も後悔しているらしく、詰め寄る船員に目を泳がせながら引き攣り笑いを零すクロセはどう見ても筋金入りのアホだった。
陸に住む人間はこうも海を知らないのかと疑うほどの、ジーノからすれば信じ難い蛮行である。無知故の無鉄砲でないならば、彼女は自身の状況に尋常でなく混乱していたに違いない。
「確かに、ロープも丸太も結構な年代物でしたね……。なんかもう、疑うのも疲れてきました」
「お前から『疑うのに疲れた』なんて台詞、俺は初めて聞いたぞ」
うんざりした顔で呻く右腕に、ジーノは苦笑いしてそう言った。
(これはやっぱり、放り出すわけにはいかないなぁ……)
何と言うか、もしも彼女を見捨てたら、飼い犬を箱に入れて捨てる子供のような、酷い罪悪感を覚えそうだ。
第一放り出そうにも、彼女が乗ってきた筏は既に壊れてしまっている。結局は犯罪者でもない少女を得体が知れないから始末しようなどと、善人ではないが別段悪人でもないジーノたちに言えるはずもないのである。
クロセという名の少女は、怪しいと言えば物凄く怪しいが、現状での感想はただの間抜けた子供に過ぎない。
目的の港町まで、あと七日。比較的短く限られているのなら、乗せたところでさして支障も出るまい、とジーノは考えた。
(支障が出たなら出たで、その時に相応の対処をすれば良いことだしな)
それが出来る程度には、ジーノは自分たちの技量に自信があるし、部下を信頼している。
見ればリーフェンもジーノと同じ結論に至ったようで、深々と嘆息しながら船員に空き部屋の確認をしているところだった。
甲板ではしょんぼりと縮こまっているクロセが、集まってきた船員たちにくどくどと海の恐ろしさを説かれている。
その光景を眺めながら、ジーノは肩の力を抜いて苦笑を零した。
七日間限定の居候が増えることに、異議を唱える者はもういないだろう。
※※※
――そうして七日後、予定通りに着いたリッジの港町で。
「……特に有能でもないけど害もない、普通の子供だと思ってたんだけどなあ……」
けらけら笑いこける保護者にギャン泣きしながら頭を撫でられているクロセを眺めながら、ジーノは引き攣った顔でそう呟いた。
良い家の子供だろうとは思っていた。保護者がいるとも聞いていた。
けれど――その「保護者」がまさか「カドリナ王国の毒蛇」だなんて、一体誰が想像できるものか!
「害はないぞ? クロセ当人はな。あれは人を殴っても拳の方を痛めるような、徹底した貧弱娘だ」
荷降ろしをする船員たちの行き交う港。
ジーノの隣にいた壮年の男は、平然とした顔でそう言った。
濃いブラウンの髪を無造作に結び、青い軍服に身を包んだ彼の名を、ヴィクター・ワイズ。
あちらで苦笑を浮かべて主を見守っている金髪の青年――エド・ソーリエルと並んで、毒蛇の腹心と言われている男である。
ヴィクターの視線の先には、朗らかな笑顔でクロセを抱き締め、飼い犬でも誉めるようにわしゃわしゃと頭を掻き回しているユイス・カーレルが存在していた。
カドリナ王国の第四王子があんな笑顔を浮かべることのできる人間だと、ジーノは今日初めて知った。
(うわあ、めっちゃイキイキしてやがる。どんなに笑ってても、腹の中で何考えてるか分かったもんじゃないガキだと思ってたんだがなぁ……)
ジーノがカドリナへと商売に出向いた際、何度か凱旋で見かけたことのあるユイスは、弧を描いた双眸に冷め切った色を乗せ、愛想良く吊り上げた唇にひっそりと嘲笑の気配を隠した青年だった。
子供っぽい無邪気げな笑顔に、毒蛇じみた酷薄な双眸。ぴしりと整った黒い軍服に身を包み、背筋を伸ばして国民に手を振りながら、きっと敵の首を刈る時でさえ、その人形のようによく出来た笑顔には微塵の罅も入らないのだろうと思わせられて。
――それが、今はどうだ。保護者と合流した安堵に泣き縋る少女を、あの美貌の第四王子は突き放すどころか全力で甘やかしにかかっている。
扱い自体は何だか飼い主と犬を連想させるが、綻んだ唇も衒いのない空気も、そこに確かな情と親しみがあることを示していて。
「――不可解か」
ぼそり、と。
ヴィクターから落とされた問いかけに、胸の奥に生じた疑問を見透かされたような気がして、ジーノは僅かに視線を動かした。
視線だけで見やったヴィクターは、冷静な顔でジーノを眺めている。腕組みをしたヴィクターに一瞬言葉を探した後、ジーノは静かに頷いた。
「そうですね。あの高名な第四王子が寵愛し、あちこちへ連れて歩くほど、クロセが突出した何かを持っているとは思えませんから」
「正直だな」
くつくつと、顎を引いてヴィクターが笑う。
無精髭の生えた横顔は、それでも主とクロセの方に視線を送っていた。
「――勝手に迷子になって僕から離れたことは気に入らないけど、無事で帰ってきたことは評価するよ。やっぱりクロには帰巣本能があるのかな」
「ううう、あからさまな犬扱いがこんなに懐かしいとは思わなかった。会いたかったですユイスさん」
「へえ、やっと自覚が出てきたみたいだね。ほら、ワンッて鳴いてみなよ。ワンッ」
「あ、やっぱり気のせいみたいな気がしてきました。ここで流されたら取り返しのつかない何かを失う気がする」
「素直に鳴けたらコレあげるよ。カラミカ花の最高級蜜飴だってさ」
「それをわざわざ骨の形に固めてもらったんですか。ユイスさんは本当に良い性格してますね、ワン」
「うちのペットはアホで素直で可愛いなあ」
何の変哲もない少女と、毒蛇と呼ばれる青年の会話が、ジーノの耳にも聞こえてきた。
裏表があるどころか裏しかないと思っていた青年が、何の裏もない笑顔で骨型の飴をふらふらと揺らしてみせる。
釣られて顔を動かすクロセが、涎を垂らしそうな目付きで飴を追った。
お手。おかわり。三回回ってハグ。全ての指示にクロセが従って、満足そうなユイスが彼女の口に飴を入れた。
「美味しい?」
「物凄く美味しいです。ねっとり濃厚な後を引く味わいに、共存する甘さと爽やかさが醸し出す見事なハーモニー。あ、ユイスさん、宿に帰ったら一緒に飲もうって言ってたジュース、遭難中に全部飲んじゃいました。ごめんなさい」
「ジュースはまた買ってあげるよ。付け耳と尻尾も買ってあげる」
「それは要らないです」
「――なあ、ジーノ殿」
クロセはこちらの雰囲気など微塵も気取らない様子で、もごもご幸せそうに口を動かしつつ、ユイスとしょうもない遣り取りをしている。
そんな彼らを眺めながら、ややあってヴィクターが口火を切った。
「食料も水もほとんど持たず、方位磁石すら持たない素人が海に漕ぎ出したとして、生存確率はどの程度だ?」
ヴィクターの問いに、ジーノはほんの少し言葉に詰まる。答えは決まっていた。
「ゼロ、に近いですね。限りなく」
「そうだろうな」
ヴィクターはあっさりと認めた。それからちらりと視線を動かし、しかし、と付け加える。
「クロセ・スズは生き延びた」
――クロセ自身は知らないが、彼女が港町でユイスとはぐれた時、迷子になった彼女を襲ったのは、強盗ではなく彼女を狙う刺客だった。
ユイスを探すことも出来ず、慌てて逃げるうちに橋の上へと追い込まれたクロセは、そこから海に飛び込んで――丁度真下を通りかかったゼブライルカの群れに運ばれて、意識ないまま海へと出たのである。
今の季節はゼブライルカの渡りの時期に当たり、彼らは数十単位の群れを作って高速船並みの速さで海を移動する。
そのまま遠く離れた小島に打ち上げられた後、目を覚ましたクロセの行動は、彼女がジーノの船で語った事情と同じで間違いないだろう。
「エドが言っていたのだが、クロセが打ち上げられたという島は、恐らく危険な猛獣が住んでいるという話がある小島だ。そいつらは夜行性だそうでな。漁船も寄り付かんし、もしも留まっていれば命はなかっただろう」
「それは……」
紡がれる言葉に、ジーノの眉間に皺が寄った。
クロセが船に乗っていた頃、船員が戯れに「うちは時々海賊に襲われたりもするんだけど、戦闘になったらどうする?」と聞いたことがある。
あの時、確かクロセは即答で「物陰に飛び込んでガタガタ震えています!」と返し、潔くはあるがもう少し肝を据わらせろと船員たちに呆れられていた。
服の鉤裂きを繕うことは出来るが、ナイフでジャガイモの皮は剥けない。掃除はやたらと丁寧に細かい汚れまで落としてみせるが、盥と洗濯板には苦手意識があるらしい。
そんな真面目で臆病で時々奇妙な少女が、まるで恐ろしく状況判断に優れた人間であるように評されて、ジーノは不可思議な違和感を覚える。
困惑した顔をするジーノにくつくつと含み笑いながら、ヴィクターはひらりと手を振ってみせた。
「そう考え込むな。貴殿が思った通り、あれは確かに凡人だ。――だが、天才でもある」
「矛盾しているような気がしますが」
「そうだろうな。わたしも、最初に見た時は単なる世間知らずの小娘だと思った。だが、少し違う。あいつの能力はただ生き延びること、その一点においてのみ特化しているんだ。
あいつは弱い。だが、生き延びた。庇護するユイス様の元を離れても、五体満足で、殺されることもなく、犯されることもなく、売り飛ばされることもなく、きちんと自力でユイス様の元に帰ってきた。何の力もない、ただの臆病な小娘が、だ」
それがどれほど奇跡的な確率であるか、彼らはよく知っている。
クロセ以外の全員が、骨身に染みて知っている。
どんな答えを返せば良いのか分からず、眉を寄せて沈黙するジーノに、ヴィクターは少し黙ってから、また口を開いた。
「……以前、うちの部隊に、農村近くに移動してきた大型モンスターの討伐任務が入ったことがある。ユイス様はいつものようにクロセを連れて行き、村人たちと一緒に村の避難所で待機させておいた。
しかし、俺たちが討伐に出て数時間後、あいつは急に言い出したそうだ。
――『ここにいたくない』とな」
少し離れた所では、クロセがまだ骨型の飴を舐めている。ぼそりと小さく「首輪……」と呟いたユイスに、彼女がびゃっと反応して飛びすさった。目を見開いてだらだら冷や汗を流し始めるクロセに、ユイスはまたけらけらと楽しげに笑い転げる。
「警護に残っていた二人の隊員が説得しようとしたが、あいつは聞き入れなかった。クロセがユイス様の気に入りだということは知られていたからな、村人たちも不承不承従って、村の反対側に移動した。
――その更に数時間後、急な方向転換を見せたモンスターに、村の一部は潰された。瓦礫になった建物の中に、例の避難所も混じっていたそうだ」
ジーノは思い出す。
何故ああもボロボロの筏で、装備もなく海に漕ぎ出したのかと問うた船員に、クロセはこう答えたのだ。
――『何となく』。
「……殿下は、クロセを利用しているのですか?」
潜めた声で問いかけたジーノに、ヴィクターは微かに眉を寄せた。
「確かにそれもある。だが、クロセにそんな力がなくても、ユイス様はクロセを戦場に連れて行っただろうよ。あの方は、クロセを傍から引き離すことを酷く嫌われる」
「彼女の危機回避が、全て偶然ということは?」
「偶然、ね。そうであってもおかしくはないな。何せ、あいつに魔力は欠片もない。しかし、如何に常識の範囲内とは言え、幾重もの偶然が積み重なり、そしてあいつは寸分の狂いもなくそれに救われて、今もああして生きている。いっそ不自然なほどに」
ユイス曰く、クロセは東方のモンスターに例えると、「超微妙な座敷童」なのだそうだ。
いても幸福が降ってくるわけではないし、いなくなっても不幸が降ってくるわけではない。
けれど、いる間は少なくとも、決定的な不運は避けられる。
ヴィクターは、クロセが何処から来たのか知らない。
知っているのはユイスだけで、彼はそれを余人に教える気がないようだった。
もしや魔法とは違う何らかの特色を持った国の民なのかと思ったが、それは不思議そうに首を傾げたクロセ当人が否定した。
ほとんど自覚すらないままに、クロセは己が生き延びるための「偶然」を、常に掴み続けている。
彼女が留まる場所こそが、即ちその時点で最高の安全地帯なのだ。
「勿論、カンで何とかなることばかりじゃない。その偶然が追いつかないこともある。
例えば、悪意ある誰かがあいつをモンスターの群れの中に叩き込めば、あいつは当たり前に死ぬだろう。『偶然』空から隕石が降ってきて、『偶然』モンスターだけを全滅させるなんてことは絶対に起こらない。
だが、ユイス様がそれをさせない。クロセが死ぬ前に、ユイス様は必ずクロセを助けるだろう。そして結果的に、クロセは死なない」
ユイスは何処にでもクロセを連れて行く。泣かせて、怯えさせて、叫ばせて、そして全力で彼女を守るだろう。
「死なないならそれで良い。ユイス様は随分とクロセを気に入っている。あの方がああも満足そうに笑われるなら、クロセには一日でも長くユイス様の傍にいて欲しいからな」
――家に帰るよ、スズ、と。
切れ長の目を緩め、確かに囁いた言葉に、クロセの頬が微かに染まるのがヴィクターにも見えた。
クロセ・スズ。
彼女の名前を「クロ」とも「スズ」とも呼ぶ権利を、ヴィクターたちは持っていない。持っているのはこの世界でただ一人、そのルールを定めたユイスだけだ。
(……そう言えば)
その光景を眺めながら、ふと、ジーノの思考が逸れる。
聞かされた言葉を思い出しながら、ジーノは何気なくヴィクターに問うた。
「ところで、ヴィクター殿。クロセを襲った連中はどうなったんですか?」
「……知りたいか?」
低めた声で返されて、ジーノは口を噤んだ。
こちらを見据えるヴィクターと視線を合わせ、しばし観察し合った後、彼は口角を軽く上げ、褪せた金髪の頭を横に振る。
「……いや、やめておきますよ。これ以上、胃に負荷をかけたくない」
「それが良い」
ヴィクターも短くそう返して、二人は会話を打ち切った。
視線の向こうでは、丁度ユイスがクロセを抱え上げ、また何かを言って彼女に悲鳴を上げさせたところだった。
紫黒の青年がちらりとこちらを見て、形の良い唇を三日月型に歪めた気がした。
もしも彼女を「見捨てる」選択をしていたら、自分たちもあの毒々しい青年の手で闇に葬られていたのだろうな。
そう思って、ジーノは何となく冷たいものが、日焼けした背筋を伝うのを感じた。