土塊
私達は土で出来た塊である。ただそこに動きがあり感情があるだけの土塊である。
私達はそこに意味を見出す土塊である。私は他の個体とは違う土塊で、それを証明しようと意味を見出す土塊である。
土塊に感情があることに疑問を見出すのが私達である。疑問を抱いたことで他の何かに変われると信じる土塊である。そこに意味があろうとなかろうと、土塊は考えることをやめようとはしないだろう。ただ考えると言う行動に土塊は日々を費やしていくのだから。
土塊に何を求めているのだろう?土塊は何を求めているのだろう?
時に命を。
時に時間を。
時に金銭を。
時に自由を。
時に真理を。
時に慈愛を。
時に安寧を。
どの個体にもそれぞれの価値があると信じている。それが私という土塊である。
けれどそれと同時に相反する価値観を見出してもいる。
本当はそれぞれ、土塊はひとつのことに注視して生きているのではないか。それは生存本能や種の存続といった凡俗なことではなく、とても不明瞭な考えの一滴。
生まれた瞬間から存在が許されたもの。それが私達土塊である。
忌み子も悪鬼も、世界から、世間から嫌われようとも、それでも全てを許すのが私達土塊である。許容と言う寛容から筒抜けた存在が、土塊である。
土塊は考えるのを止めないものである。性格には止めることができないものである。いついかなるときも知識を欲し。文章が綴られればそれを見ずにはいられない。
浅慮な否定を良しとせず、ありもしない意味を求めようとするだろう。それが私達土塊である。
ともすれば、私達は自分自身が土塊であることを否定するだろう。
許容の限界が否定だろうか。肯定の逆こそが否定だろうか。苦悩に囚われることが否定だろうか。疑問に答えを見つけなければいけないだろうか。
それは違う。そう断定したのが私という土塊である。
例え私という土塊が他のものであったとしても、私は変わらずにいられるだろう。
大地に芽吹く花々のようにたおやかに。時にしたたかに。
肌に触れていく風のようにやわらかに。時にさめざめと。
闇夜を多くの光で煌めかせる星のようにこうこうと。時におぼろげに。
土塊であることを誇りに思う。
私は土塊であれてよかった。
誰に強いられたわけでもなく。誰に願われたわけでもなく。こうして私自身が信じてあげられる。そんな土塊であることが心より嬉しいのだ。
ありがとう。
ここに、土塊である私の記述を終了する。