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重い瞼を抉じ開けると目の前に知らない女がいた。誰だと訝しむよりも、顔を隠すほどに長い髪を振り乱したまま激しく泣いているのだと知れるや、見たこともない女の泣き顔を繁々と見つめた。
この女は誰だ。泣くほどに悲しいってなんだよ。それともこれは。
春ちゃん。涙の混じった女の声音に、亮介は混乱した。
女は亮介の視線に気づくことなく、何度も何度も頑張れと繰り返した。なにを頑張れというのか。
いったい誰にまつわる夢を見ているのか分からないまでも、長年の経験から誰かの強い感情、死に際ではないのかと予感した。亮介の身近に死に直面している人など……いた。
未だ目覚めることのないコンビニ店員の青年と、亮介の夢がつながったのだ。
理解を納めた亮介はなんとか状況を把握しようとしたが、体は鉛を飲み下したように重く、まさに指先一つ動かせない。唯一動かせる両目の限りなく狭い視界から、病室の一室であることを知った。
確か、青年は意識不明の重体であったはずで、目覚めたのは奇跡に近いのではないだろうか。
肉体も精神もすでに疲弊していた。死を受け入れて楽になりたい気持ちを、どうにかこうにか奮い立たせた気力で押し留めていたその気力が、とうとう底を尽いた。
諦めないで頑張ろうと努力はしたが、頑張ろうにも叶いそうもない。
女は両手で亮介の手を強く握り締め、挟み込んだ手を自分の額に宛がっていた。誰のものでも祈る姿は粛然とした美しさがある。亮介は少しだけ切ないと思った。
今生の別れを前に、最後の奇跡を彼女の笑顔で終わりたいと願うのは贅沢だろうか。せっかく目覚めたのだから笑ってほしい。
バカなことをしたと後悔はしている。要らぬことをしてしまったと。でもあいつの顔を間近に見たんだ。そいつが捕まれば、バカを帳消しにしてもらえるだろうか。
死にたくない。
死にたくない――。
死にたくないと呟いたのが青年なのか、亮介なのか、夢の中では春ちゃんと呼ばれる青年である亮介には判然としないが、慟哭と共に溢れ出る涙は拭っても拭っても流れる悔恨は後に続いた。
なんだってこんなことに。堪らず口をついた言葉は、亮介の身体を、心を深い悲しみの底に沈めていった。
「死ぬなよ……頼むから死なないでくれ!」
俺は誰なんだ。もう目が覚めているのか。悪夢は終わったのか。それすら分からないほどに、夢から目覚めたはずの亮介は涙に塗れた。
人とは存外に無感動というスイッチを持っていて、途端に冷酷に徹することができる。感情の瀑布というべきか、奔流を堰き止めるための一種の自衛とも呼ぶべき機能を備えることで、亮介はどうにか折り合いをつけることを覚え、なんとか日常を営んできた。だが今回ばかりは違った。
もう見たくない。全てをだ。人の感情に右往左往させられるのは真っ平だ。
亮介がコンビニ強盗の夢を見てから五日後であった。再び夢という現実を目の当たりにした亮介が、無為に受け入れていた能力に向き合った瞬間だった。
青年が死んだかどうかはは分からない。事件の詳細を知るのは容易かったが、同じ人の死を何度も知らされるのは嫌だ。だからまだ生きていると信じたかった。
夢を見た翌日、考えに考え抜き、悩むに悩んだ亮介はコンビニへと続く道を進んでいた。
見慣れたコンビニの明かりに顔を向け、躊躇いを押し切り店に入った。弁当や惣菜の棚をざっと見まわし適当に弁当を掴んでレジに並んだ。店内には帰宅途中のサラリーマンに学生の姿も多かった。早々にレジに並んだ亮介の前には三人の客が清算待ちをしていた。
亮介は今になって自分のしくじりに気付いた。通常コンビニのレジカウンターは二つある。忙しい時間帯は二つのレジで清算が可能だが、今日に限って清算に待っている客が多いにも拘わらず一つのレジしか稼動していない。しかも今稼動しているレジは、青年が犯人の持つナイフを押さえつけたレジカウンターではなかった。
亮介は並ぶのを諦めて他の商品を物色する客を装いながらももう一人の店員を捜した。店内に従業員はおらず、ならばとバックヤードの扉に目をやった。中から人が出てくる気配はなかった。
レジが忙しいんだから店内に出てこいよと内心毒吐きながら、片方のレジが開くのをひたすら待った。更に待つことしばらく。レジ前には五人の列を作っていた。接客の店員が新人なのか、一つの清算でえらく時間を割いていた。
亮介は口の中で舌打ちをしていると、新人が堪り兼ねてバックヤードの扉に向かって声をかけた。ようやく、満を持して登場したもう一人の店員が二つ目のレジを開放した。清算の列が二つに分かれ、亮介も急いで問題のレジに並んだ。
「弁当温めますか?」
カウンターに手を触れるタイミングを見計らっていた亮介は店員の常套句に我に返り、何度となく頷いた。店員は弁当を手に後ろに振り返ったのを見計らい、青年が犯人の手を押さえつけたその場所に手を触れた。自分でもバカみたいだと思いながらも、今日見るであろう夢が、確実に事件の顛末を教えてくれると信じるしかない。
犯人を知ったところで青年の命が助かる見込みなどない。単なる自己満足だと謗られようとも構わない。亮介は人よりも多くの死を目撃するが、これから先、目を瞑りたくなるような凄惨な死を否応なく眺める機会も往々にしてあるだろう。傍観に徹せられなくなれば、きっと亮介の心は歪んでしまう。
そうならないためにこの場にいるんだ。
このレジカウンターを通じて犯人の夢を見ることが出来れば未だ解決の糸口すらない事件に光が差す。敵討ちなんて背中をくすぐられる言葉ではなく、亮介自身が気持ち良く夜を迎えたいだけなのだ。
亮介は店員の訝しげな目に晒され、何度目かの我に返った。なんでそんなところに手をついてんだ? 店員の気持ちは素直に表情に反されていた。亮介は場違いを取り繕うほど器用な性分ではなく、差し出されたままのビニール袋を慌てて引っ手繰った。
ありがとうございました。お座なりの決り文句を素通りさせながら、ふと亮介は店員のネームプレートを見やった。店員の名前を確認するなり、亮介は咄嗟に言葉が口を吐いていた。
「お前、隣でよく眠れたよな」
ネームプレートに白井と書かれた店員は、赤の他人である亮介の言葉に虚を突かれたのも束の間、次第に顔が歪んでいった。清算を待つ客も、隣の新人ですらなに言ってんだとばかりに亮介を振り返った。
数多の怪訝な目を向けられた亮介は慌てて踵を返すとコンビニを後にした。
あんなこと言ってどうする。道徳的な観点からいけば白井に非もあるだろうが、罪はない。けれども、あいつが真面目に働いていれば青年が病院に送られることもなかったのではないか。もっと勘繰れば、店員が二人もいれば、あの男も強行には及ばなかったかもしれない。
ある日突如として降りかかる災厄は、それぞれ違う形で過不足なく与えられる。それは亮介も同じことだ。目撃してしまう亮介は悪才から生まれる災難を胸の内に押し隠すしか術はない。
暴漢に立ち向かって果敢にも身を呈した青年は死の淵にあり、時同じくして現場に居合わせた同僚の白井は果たしてどうなのだろうか。良心と呼ぶべき場所になんの痛みも感じていないのだろうか。