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亮介は今し方見た夢に飛び起きた。半ば惰性で見た壁時計は四時半を回るところだった。亮介は禍々しい元凶がまるでそこにあるかのように、夢の中で刺された脇腹に触れてみた。幸いにも痛くも痒くもなく、夢の中の出来事であればなおのこと、アンダーシャツに血の滲みもない。
どうしようもなく普通である現実に目覚められたことに深く感謝しつつも、残滓となった鈍いような、それでいて薄皮を裂いて取り巻く脂肪を越えて筋肉を断ち、柔らかな内臓を突き破るナイフの形そのものの感覚に震えた。
夢で見たコンビニには見覚えがあった。帰宅途中によく立ち寄るコンビニではないか。仕事の帰りに晩飯を調達し、時には雑誌の立ち読みにと、さもしい独身男には健全な明かりの中での立ち読みは後ろめたさを帳消しにしてくれる。昨日の晩も代わり映えのない弁当と発泡酒の半ダースを購入していた。亮介を接客した店員こそが、果敢にも強盗と対峙した青年だったか。
亮介は思うよりも早く頭を抱えた。深淵から響く救急車のサイレンが亮介の住むアパートに届く頃、コンビニの店員がどうなったのかなど朝のニュースで十分だと布団を頭から被った。
朝とはほど遠い十時過ぎに目覚めた亮介は、寝惚けた目で部屋の天井をじっくりと眺めた後に布団から這い出し、テレビのリモコンを捜した。奇しくも前日に寄ったばかりのコンビニのビニール袋の下から出てきたリモコンを苦々しく睨み、そもそもリモコンに八つ当たりをしても詮無いことだと電源を入れた。
土曜のこの時間にニュースでもワイドショーでもなんでもいい、全てのチャンネルを合わせていると、見慣れた風景が映し出された画面に止まった。NHKの定刻ニュースだった。続報として読み上げるアナウンサーの声に耳を澄ませ、亮介は薄っすらと伸びた髭を無意識に触っていた。
意識不明の重体……亮介はアナウンサーの言葉を反芻し、テレビを切った。
夢の中での亮介は、実際には強盗と格闘して刺されたのは十九歳の大学生だが、物音と大声に跳ね起きた同僚、まぁ、白井なのだが、白井の通報で病院へと搬送された青年の容体は未だ予断を許さない。犯人は依然逃走中。目撃者はなし。防犯カメラに犯人の顔は映っておらず、犯人の顔を目撃したのは店員の学生と、それを夢で見た亮介の二人だけ。
サングラスを弾き飛ばして現われた犯人の顔は当分忘れそうにない。
店員に思わぬ反撃をくらった戸惑いと憎悪に、ただのこけおどしと思われたナイフで躊躇なく人を刺せる無感情。あの瞳はちょっと尋常ではない。人の道を外れるとは人の目も常軌を逸する。
亮介はその場凌ぎに煙草に火を点け深く吸い込んだ。寝起きの頭では少しだけくらくらした。肺に満たされていく税金だらけの無駄な煙を想像しては自嘲気味に溜飲を下げた。体に悪いと口喧しい中で、そもそも嗜好品としてあること自体、どうなのだろう。亮介も一愛煙家として煙草を吸うが、ただの煙で肺を黒くするだけの代物など、無味乾燥としか言いようがない。
それでも寝起きと共に一連の作業の中には起き掛けに煙草を吸うのが組み込まれて久しい。冗談半分に新鮮な野菜と果物をふんだんに放り込んだフレッシュジュースならどうだろうか、と思ったりもしたのだが、一体なにをどんな比率で撹拌するのか、しかしながらジューサーすらないので、この思考も無意味ではある。
亮介が今朝方見た夢はただの夢ではない。亮介が演じたコンビニの店員が強盗相手に格闘に至ったのは、あくまでも歳若い青年によるものだ。しかし亮介が持つなにがしかの器官によって、そっくりそのまま亮介本人の夢として追体験できるのだった。
亮介がこの忌々しい能力に気付いたのは、まだ小学校に上がる前だ。父方の祖母が亡くなるその瞬間を夢で見たことから始まる。何故だと言われても亮介自身が答えられる訳もなく、よくは分からない。その夢はなんというか、激しい感情が触れたものに焼きつくように、あるいは伝播するようにしてその本人が手にした物を媒体にして亮介の夢へと届けられる。
祖母に関して言えば、誕生日に贈られたプレゼントを介して夢を見、コンビニの店員は釣りとして手渡された小銭が起因している。
他人の死に際を夢で見るなど、お笑いもいいところだ。実際に亮介ですら超能力などという、眉唾物を信じるほどお気楽じゃない。しかし、幾ら否定しても毎日見る夢に嘘は吐けない。その因果関係を誰かが証明してくれるのを待つほどに悠長ではいられない。
祖母の死はまだいい。心不全だった。居間でテレビを見ていてぽっくりだ。だが死に際を第三者の目である亮介が見なければならないのは、やはり苦痛だ。
突然目の前が暗くなり、やがてテレビの音が徐々に遠退き、最後には何もなくなる。徐々に遠退いていく音が終焉に近づく縁で、その瞬間はネガに風景を写し取るように鮮明な恐怖があるが、夢の中では老齢の祖母となっている亮介は実に端的に死を受け入れた。自分は生きているのに、夢の中で死を経験するなど、幼い心は許容を越えて破裂寸前だ。
死の瞬間に訪れる鮮明な恐怖を受け入れることで、死とはそう言うものだと、物心がつく前から悟ってしまった亮介の心象も察して欲しい。
夢から飛び起きた亮介は、正に火が点いたように泣き叫び、夜中に子供の泣き声で叩き起こされた両親は困惑の中で子供を宥め透かしている最中、深夜の訃報が電話のベルを通して鳴り響いた。
まだある。高校を卒業と同時に免許を取り、父の車を借りて初ドライブを敢行した夜に、とんでもない悪夢を見てしまった。不幸にも父の車は中古で、しかも亮介の夢で事故車だったと判明。前の持ち主の絶叫が耳にこびり付いてしまい、それ以降亮介は車に乗れなくなった。
この歳になってようやく自分に授けられた力とやらに折り合いを付けるに至ったのだが、未だ公共にある物には極力触れない。誰が触ったかも分からないものに不要に触ろうものなら、夜は決まって悪夢の上映だ。となると、亮介の生活は頗る不自由を強いられる。パチンコは論外、というよりも一連のギャンブルには余りにも多くの思念が渦巻いている。
などなど、真っ当な生活を強いられるゆえに、傍から見れば立派な潔癖症と映るが、亮介は多いにその性向に甘んじている。下手に触っちゃうととんでもない夢を見ちゃうんだ。無理心中に巻き込まれて一家離散する夢なんて序の口、などと言おうものなら、友人リストから抹消されるどころか、新たなる変な奴という項目に名を連ねることだろう。
ああ、一度だけだが前後賞合わせて三億円が当たった人の夢も見た。これは特例ではあるが、人生プラマイゼロである事実を亮介は信じない。亮介の夢はそれほど良いも悪いも酸いも甘いも平均してある世の中ではないことを知っている。
時に思う。人の感情が物を通して、やがて亮介の夢となることに意味があるのだろうか? と。
午前中は部屋でごろごろして過ごしていた亮介だったが、なんとなく独りで悶々としているのも憚れ、外に飛び出した。向かった先は例のコンビニで、さすがに昨日の今日では年中無休のコンビニですら、複数の鑑識や刑事を前に屈服していた。近所の野次馬が遠巻きに眺める一角で亮介も足を止め、硬く閉ざされたガラス戸の向こうでの光景を思い返した。
男の顔ならわかる。なんならモンタージュでも似顔絵でもいい。弾かれたサングラスの向こう、現われた双眸ほどに、男を語るものはない。鼻と口を覆う大きなマスクの弊害を取っ払ったとしても、目は口ほどにものを言うとはまさにこのことだ。しかし警察になんて言う? 用事もない時間にあの辺をうろついていたなどの嘘がまかり通るはずもなく、決定的な前後不承は否めない。夢で見ましたなどと言おうものなら、懇切丁寧な門前払いをされるのがオチだ。
いくら過去に書いた自分の作品とは言え、手直しほど苦痛なものはない。
7年前の自分の支離滅裂さに目も当てられん……。
作品を掲載する度に苦悩する予感。