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8、十二月の罪人

 ●15


 その日はどんよりと雨雲が掻き垂れていた。今にも泣き出しそうな空を眺めながら、彼女はゆっくりと歩き出した。

 その昔、このあたりは農村があり、ひどい旱魃に見舞われたことがあった。渇きと飢餓により地獄絵図の様相を呈し、ついには人道を外れた行いすらあったが、あるときどこからか竜が飛んできて、雑木林の中にその身を横たえた。三日してその竜が去ったが、身を横たえていた痕には鱗が残され、その後振った雨水が溜まり、大きな湖となった。

 『竜の寝姿』にはこのような伝承もあるらしい。

 湖底に沈んだ竜の鱗は鏡のように美しく、ときおり覗きこんだ者の姿を映し出す。そしてそれを見た人びとは惑わされるがままに湖に身を投じたという。

 まるで今回の連続失踪のようだ。もっとも遺体が揚がっている今は、連続事故と呼んだほうが正確なのだろうが。

 遺体が発見されたのは昨晩だった。山倉英介と赤坂栄治、そして強盗グループのふたりが湖に浮かんでいるのが見つかったのだ。なお五人目以降はなんとか防いできた。被害を最小限にとどめるのも市民を守る警察の務めなのだ。

 残念なのはこの犯罪を立証できないということだけ。


「幸和子ちゃん、大丈夫?」

「はい、……あ、あの、手、繋いでもいいですか」

「お安いご用ですとも。そのほうが俺も見られていいや」


 各務幸和子は深呼吸ののち、母から受け継いだ大きな鏡を覗きこんだ。遠くまで眺め渡せるこの鏡が彼女は好きだった。

 水面を光の筋が踊っている。彼女はそれをじっと見る。ここにはいないはずなのだが、念には念を入れて、というやつだ。鏡の向こうを魚が泳いでいるのを指先で探り出す。鏡は生きている。

 木崎明彦はくねった光の筋を適当に引っ張ってはばらばらに分けていた。冷たい水の中で彼の手は静かに熱を持つ。

 湖底に届いた指先は、鱗を引っ掻いた。


「それにしてもひどいやつあたりだったね今の」

「ほんとにね。でも明彦さん、どうしてそんなに覚えるのが早いの」

「丁寧に教えてくれる子がいるからさ。……井島さーん! こっちは準備できましたよー!」


 できるだけの大声でそれを伝えると、木陰にいた人物が手を振って応えた。雨に備えて傘を用意しているようだ。空模様はますます悪くなり、暗さを増すばかり。これではいつ振り出してもおかしくはない。

 彼が振り向いた先にはまずひとり。

 支給の合羽を片腕に抱えた大柄な男。獲物を前にした野獣のように、両眼をらんらんと輝かせている。

 もうひとり。

 灰色のジャンパーを着た茶髪の女。湖を背にして不自然な立ちかたをし、そして空をじっと見つめている。

 そしてここに、十二月の罪人はいない。


「……春川公恵さん、ですね。」

「俺は捜査一課第三強行犯捜査三係の高任だ。証拠がないんで任意同行って形になるが、一緒に来てくれるか」


 高任が強い口調でそう言うとその女はにっこり微笑んだ。


「あら、いったい何の容疑でしょっ引かれろっていうのかしら」

「少なくとも傷害が一件。それに業務執行妨害。否認してくれても構わんが、あんたの指紋とこの木の枝にべったりついてるやつを照合すりゃあ一発だろうぜ」

「なるほどね。いいわ、警察署でも留置場でもどこでも行ってあげる……あとひとつ仕事を終えたら、いつでもね」


 女はそう言うとふたりの刑事に背を向け、それまで見向きもしなかった湖のほうを睨みつけた。寝そべった竜の左後ろ脚には誰もおらず、遠くのほうに貸しボート屋の看板が霧に包まれながらうっすらと見え、そして湖面は今しがた凍りついたかのように静まっていた。

 しかしそこに光の筋は現れない。女が掴もうと手を振りまわすほど、それは蛇のようにするすると逃げていく。

 取り逃がした罪人を負っているうちに、女の手は新しいものを捕えた。まだ若いおぼろげな光だ。知らず、女はにたりと邪な笑みを浮かべ、その光を握り潰した。憎しみと恨みをその手のひらに精一杯込めて。

 そして懐から取り出した一枚のカセットテープを、ねじ曲がった光の渦に放り込んだ。


「あははははは! 娘を残すなんてほんとバカな女! せいぜい愛娘のことを思って一生苦しめばいいんだわ、私の倍の倍くらい」


 女は悪意に満ちた言葉を甲高い声で叫び、高笑いした。そのときの彼女の顔を、鬼の形相というのだろう、井島はそう思いながらそれを見ていた。誰かを呪おうという人の顔だ。しかし同じ鬼とはいえど、かつて後輩が最期に見たという、見えない鬼神の顔とは違う。

 怨恨に取りつかれ畜生道に堕ちた人間の顔なのだ、これは。

 そのまま満足げにげらげらと笑っている女を見続けていたら少々気分が悪くなりそうだが、幸いにもそこへ遮るように無線が入った。木崎からだ。女も異変に気づいたようすで、これまた視線で刺し殺さんばかりに井島を睨みつける。


「はい、こちら井島。じゃあ幸和子さんは無事なんだね。了解、引き続き警戒をお願いします」


 そのとき、ひゅっと喉から息が抜けるような音がした。


「なんで」


 女は血走った目で井島の持つ無線機を見つめる。


「なんで邪魔するのよ! これでやっと最後だったのに、これで、ぜんぶ終わったのに!」


 そのものすごい剣幕に井島は念のため身構えた。今日の彼女はこれまでとは気迫が違う。それに、あのときは用意がなかったから木の棒を使ったのだろうが、今日は刃物とかもっと殺傷能力の高い武器を持ってきているに違いない。もちろん井島もいちおうは警察官だから拳銃くらいは所持しているが、こちらから下手に発砲するわけにもいかない。

 しかし井島の杞憂を笑うかのように、女はむしろ湖のほうに向かい、そして先ほどとは異なる光の筋を探り出した。淡い緑みがかった光を女は両手で掴んで思いきりねじ曲げる。

 あ、と井島は思った。あれは自分だ。今、自分が曲げられた。

 心臓の奥の柔い場所がずくずくと痛み始める。後輩の声が何度も頭の中で響いた。井島さん、あいつを見つけました、と。そんな幻聴に惑わされたのか、井島の視界からはそこにいるはずの女や高任らは消えうせ、無線から聞こえる木崎の声も聞こえなくなり、そこには、あの廃屋の風景が広がっていた。あの忌まわしい山中の廃屋だ。見間違えるばずがない。

 壁一面が真っ白に塗りつぶされている。影など一切受け付けないとでも言うように。性善論しか存在しない世界の中央に、深紅を被った異形の少女。


『あら、あなたを呼んだ覚えはないのだけど』


 少女がそう呟いたかと思うと、ばちん、と頬を引っ叩かれたような感覚があった。反動で眼をぱちくりさせていると部屋の色は白から青に変化し、少女も金色の髪に変わっている。


『可哀想に、随分迷ってしまったようね。でもあなたのことは呼んでないのよ、ほんとうにね。だって迷い込んでしまったこの子と違って、あなたは引き込まれたのだから』


 少女がこの子と呼んだのは、床に転がる死体のことだ。それが誰なのかは井島も知っている。後輩だ。寒い部屋の隅で身体を丸めて死んでいたという。ちょうど直前に彼自身が発見した横領犯のように。

 後輩の哀れな最期を、井島は何度夢に見たことか。ようやくその場に居合わせることができたのだろうかと思ったが、鬼はどうやら井島を殺すつもりはないらしかった。その証拠に背後の扉は開いている。いつでも出ていけるように。

 井島は少女を見た。少女は誰のことも見てはいない。


『ここにいたい?』


 言葉のない声で彼女は問いかける。

 そのとき扉のほうから誰かが呼んでいる声がした。井島のことを呼ぶ声だった。井島さん、井島さん、と、それが死の直前に聞いた後輩の言葉とだぶって聞こえてしまう。

 どうして死んだんだ。まだおまえに教えることはいくらでもあったんだぞ、バカ野郎。


「……いや、もう行くことにする。彼のことは任せたよ」

『そう。またね』


 青い世界の中を一歩踏み出すと、身体の芯がぐらぐら揺れるような感じがした。そうか、あの女性にねじ曲げられたからだろうな、と井島はひとり納得した。うまく歩けない。なるほどこれでは湖に落っこちても無理はないし、泳ぐこともままならないというわけだな。

 ふと足許に眼をやると無線のレシーバーが落ちていた。それをおもむろに拾い上げると、一言だけこう告げた。

 こちら井島、ただいまそちらに戻ります。



 ●16


 井島が眼を覚ますとそこはホテルの部屋だった──などというデジャビュは起こらなかった。笑えない。どこかの病室だということはすぐにわかった。

 いったい何があったんだろうか、と周囲をきょろきょろ見回すと、誰かの忘れものらしい新聞を発見した。いや、もしかしたら見舞いの品かもしれない。とにかくそれの日付が今日のものなのだとしたら、井島は軽く一日は気を失っていた計算になり、そして地元紙の端に小さく載っていた記事によれば、春川公恵が逮捕されたとのことだった。傷害に業務執行妨害だけでなく、殺人未遂容疑までかかっている。高任が相当頑張ったとみた。

 新聞を読みふけっていると看護婦が来て、井島はどうやら湖に突き落とされ、溺死しかかって運ばれてきたようだ、との説明をしてくれた。

 そしてまもなく現れたのは制服姿の各務幸和子だった。木崎から連絡を受け、学校帰りに寄ってくれたらしい。


「高任さんと木崎さんも夕方になったら来てくれるって言ってましたよ」


 彼女の言によれば、新聞の差し入れは高任かららしい。起きてすぐに確認できるようにとの配慮だろう。


「幸和子さん、照れなくてもいいよ」

「え?」

「木崎くんのことを名前で呼んでるのは僕も知ってる。あのとき無線越しに聞こえてたからね」

「えええ……明彦さんてば電源入れっぱなしにしてたんですか」

「そりゃそうだよ、いつ緊急連絡が入るかわからないんだから。切ってるわけないでしょう」


 幸和子は耳まで真っ赤にして俯いている。今どきびっくりするほど純情な娘だ。日本にまだこういう子がいてくれてよかったなあと、井島はおっさんくさい考えに浸った。

 それから間もなく高任と木崎も来室し、新しい新聞と土産話を持ってきてくれた。

 なんでも春川公恵はもともと水鏡を使えるわけではなく、木崎と同じく『月鳴り』したのだという。それも、彼女の恋人だった倉知康夫が何者かにねじ曲げられた、あの日に。そのとき倉知からそう離れていない地点に安和子を黙認した彼女は、水鏡で一生懸命に倉知を操作している姿を見て、咄嗟に犯人だと思い込んだ。そして倉知の復讐のため、十年の歳月をかけてその年の逮捕者データと高任によって隠滅された取り調べのテープを入手し、彼らと接触し、それぞれを順に呼び出してねじ曲げ、死に追いやろうとした。

 安和子だけを標的にしなかったのは、他の犯罪者に安和子を列挙することで『安和子も同じように犯罪者である』と印象づけるため。そして同時に殺人の本命が安和子であるということを本人に気取らせないためであったようだ。有名なクリスティの『ABC殺人事件』をヒントにしたと公恵は言っていた。

 ちなみにテープの中身自体には意味を持たせたつもりはなかったということで、内容が少しずつ変化していたのは『倉知康夫を助けようとしていた』という旨の安和子の発言を否定したくて、なんとかして消し去ろうとした痕跡らしい。実際に押収されたテープのなかにはその部分が削り取られたものもあったということだ。

 なお失踪していた安和子はその後ひょっこり帰ってきた。自分が標的にされることを察知した彼女は、ほとぼりが冷めるまで親戚の家にいたそうだ。幸和子を連れていかなかったのは、彼女を普段どおりに学校に通わせたかったのと、連れていくには十年前の事件について説明しなければならず、それが彼女には煩わしかったから。そして公恵が幸和子を狙うことはないと踏んでいたからで、結局そうでもなかったことについては大騒ぎで木崎に礼を言ったらしい。

 あのとき公恵に握り潰された幸和子を、木崎は自殺に走らないように片腕で抱きとめながら、もう片方の腕では手探りで芯を修復するという器用なことをやってのけたそうだ。井島が無線で尋ねたときは『幸和子ちゃんは俺が抑えとくんでそっち頼みます!』としか言ってなかったように思うのだが。さては木崎のやつ、恰好つけたな。

 でも幸和子が嬉しそうにしているのを見て、何も言えなくなってしまった。秋からずっと彼女はひとりぼっちで戦っていたわけだから。


「母は十年前、取り調べから帰ってきたと思ったら、玄関でずっと泣いていたんです。幼心にびっくりしました」


 あとから振り返るように彼女は語った。じつは何度も心の中で母親のことを疑っていたのだという。十年前の事故に関係するテープが出てくるなか、ほんとうに安和子は康夫を死に追いやった犯人ではなかったのか、と。けれどもそのたびに悔し泣きをしていた母を思い出しては考え直していたそうだ。

 十年前の月重湖で何があったのかは、今となっては誰にもわからない。誰が康夫を死なせたのか。

 井島は思う。公恵はたしかに安和子が犯人だと信じて憎んでいたが、もしかしたら今回の事件は、ほんとうの犯人をあぶり出すための巨大な装置だったのかもしれない。安和子ではない、ほんとうの『十二月の罪人』を。井島たちはそれを永遠に闇の中へ葬ってしまったのかもしれない、と。

 結局のところ、公恵は『たまたま数日前に人違いで殴ってしまった井島に出くわし、そのうえ職務質問されそうになって怖くなり、思わず湖に突き落としてしまった』ということになったのだそうだ。

 後輩が殉職して落ち込んでいたときに女に殴られたうえ溺れさせられたということで、その後しばらく二課では井島を哀れましい目線で眺めるのが流行った。迷惑極まりない。というか井島の名誉はどこにいけばいいのだろう。

 ちなみになぜかその後も何度か木崎とタッグを組んで事件を捜査するはめになったとか、ならないとか……。

 そういえば、井島はずっと気になっていたことを木崎に尋ねることにした。ほんとうは似たようなフレーズを口にしていた高任にも訊きたかったのだが、木崎からの回答を聞いた時点ですでに高任からも同じ答えが返ってきそうな予感がしたので、やめることにした。


「あのさ、木崎くん。僕は一課には知り合いがいなかったつもりなんだけど、僕のこと何か言ってる人とかいたの?」

「え、なんでですか?」

「僕の名前の前にいちいち『あの』とか『例の』とかつけてたから」

「……えええ。もしかして、謙遜とかじゃなくてほんとに知らなかったんですか? 井島さん、署内じゃけっこう有名人ですよ」

「え、な、なんで?」

「『二課に俺のお気に入りがいてな。捜査二課のミキちゃんこと、第五知能犯捜査三係の井島幹樹だ』

 ……って、刑事部長が言ってました」


 とりあえず、これだけは言える。

 こんな県警本部は嫌だ。


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