5、カガミアワコ
●8
井島と木崎はラジカセをじっと見つめていた。うっかり忘れていたのである。こういうタイプのカセットテープには、A面とB面があるというごく当たり前のことを。
それで反対の面を再生してみたところ、高任と安和子らしい会話の断片が入っていた。三本すべてにだ。例によって同じ内容で、安和子の言葉だけは微妙に変化していっている。それにしても、前面の取り調べに比べてなんだか妙な会話だ。高任の質問に対する安和子の返答は的を得ないもののように思える。
そのあたりは高任本人に尋ねたほうが早そうだ。
「で、捜査一課ではどうなったの?」
「ついに四人目ですからね。高任さんも出てくるそうです」
「あ、よかったじゃないか」
被害者は増える一方だった。それでは木崎の立場も芳しくないのではないかと思うのだが、念願のとおり高任を刑事室から出てこさせることができたためか、さして気にしたようすでもなく新しいテープを再生している。四本目も内容自体は変わらないので、少々聞き飽きてきたところなのだけど。
意外なのは三人目と四人目にはっきり繋がりが見つかったことだった。なんとふたりは強盗グループで、過去に何件もの宝石店に押し入っているのだ。そしてふたりは別々に職質で捕まっている。その後、本人たちが自認した分だけ服役して、出所後は違う街でばらばらに暮らしていたそうだ。月重湖にはそれぞれが観光で来ていたらしい。そんな偶然あり得るだろうか。
ふたりの起こした強盗事件のほとんどは自供され、強奪した物品も供述した場所から見つかっている。だが追及されていたいくつかの余罪については否認していて、もちろんその事件で盗まれた宝石類は発見されていないものが大半だ。ほとぼりが冷めてから、それらを山分けするために月重湖で落ち合った、と考えたほうが自然だろう。
なら片割れが失踪したと聞いて四人目は動揺したのではないだろうか。ふたりとも隠し場所を知っていたとは限らない。それに強盗グループはふたりだけではなかったという話もあったそうだから、首謀格が別にいたんじゃないかとか、そんな噂も耳にしたと木崎は言う。
「もしかしたら前の二件のどちらかが首謀格だった、なんてことにはなりませんかねえ」
「さあね、僕は門外漢だから。とりあえず高任警部が到着する前にいろいろやっておかないと……で、木崎くんはこのところうちに入り浸ってるけど、そっちの捜査は大丈夫なのかい」
「ああ。なんか井島さんの話したら納得されたんで、問題ないと思いますよ」
「……なんで?」
井島のほうで納得がいかない。捜査一課に何があった。
何はともあれ、ふたりは必要な書類を持ってとあるホテルに向かうことにした。そのホテルは『ツキエ・レイクサイド・パレス』といい、月重湖でも歴史のある宿泊施設で、かつての名称は月重湖レイクサイドホテル。あのテープが録音された場所だ。
事前に連絡しておいたため、従業員がひとり井島たちを待っていた。このホテルで十年以上、つまり経営者が変わる以前から働いているというベテランで、件の事故のときにも勤務していたという人物だ。
「ええ、取り調べに一室お貸ししましたよ。初めてのことでしたのでよく覚えています」
「初めて?」
「当ホテルは湖から少しばかり離れておりますので、それまで何かあったときには他の施設が利用されていたのです。刑事さんにも、もっと近くにあるホテルでなくてもいいのかお尋ねしたのですが、離れているほうが都合がいいのだとを仰っていました」
「その刑事が誰だったか覚えていますか」
「申し訳ありませんがお名前までは……あれからもう十年ほどになりますし」
「……もしかして、あの刑事じゃないですか、その人」
そう言いながら木崎が振り向いた。井島と従業員もそちらを振り返ると、がっしりとした体格のいかにも頑迷そうな刑事がひとり立っていた。一斉に三人の視線を浴びたせいか居心地の悪そうな顔をしている。
「あ、そ、そうです、たしかにこの方です」
「……捜査一課の高任だが。木崎おまえ、こんなところに呼び出しておいて一体なんの……」
「紹介します高任さん。こちら捜査二課の、あの井島警部補」
あのって何だ、あのって。
「井島です」
「ああ、あんたが例の……木崎からだいたい聞いてるよ。どうせテープの件だろ」
例のって何だ、例のって。あんたもか。
高任はゆっくりとした足取りで井島に歩み寄ると、なぜだかじっと見つめてきた。なかなかの強面だ。強行犯捜査三係ということは、取調室でこの人とふたりきりにされた犯人たちもたくさんいたのだろうな、と井島はぼんやり考えていた。
「高任さん、来てくれたってことはテープのこと教えてくれるんですよね?」
「まあな。井島、おまえも聞きたいか」
「あ、はい」
「じゃあおまえの部屋とやらに案内しろ。こんな開けたところじゃあ話せないんでな」
気がついたら首を振っていたので、井島も話を聞かされることになってしまった。従業員には礼を言って一旦ホテル、いや、パレスを後にする。
しかしこれまで黙秘を貫いていた高任が、なぜこうも容易に口を開くことになったのだろう。木崎が何かしたんじゃないかと井島は訝った。とはいえ、自分たちの調べたことは共有してきたのだから、木崎の掴んだ情報は井島も知っているはずなのだが。
それとも高任は誰か話せる相手を探していたのか。人の耳がある場所では話せないという、その内容を。
●9
高任はご丁寧にも写真を持参していた。恐らく事故当時のものであろう、古びた一枚の写真には、おとなしそうな風貌の女性が写っている。純和風な顔立ちでなかなか美人だ。
彼女の名前は、各務安和子。十年前の事件の重要参考人であり、遺体の第一発見者。
「市内というか、ここのすぐそばの番地に住んでた人だ。若いのに当時ですでに未亡人だった。家族は娘がひとりだけ」
「住んでたって、じゃあ今はどちらにいるかご存じないんですか」
「いや。つい最近まで連絡をとっててな、最後はたしか、秋に最初のテープが見つかったころだ。娘のほうから、母親が帰ってこないとか、母親から何か聞いていないかとか、電話でまくし立てられて、知らんがっつったらそれきり何にも言わなくなった」
「そ、そそそそれ失踪事件じゃないですか!」
木崎が素頓狂な声をあげると、高任はうるさそうに彼を見遣った。そしてすぐに押し黙る木崎。後輩への教育には余念がないようだ。
「そうとも限らねえよ。あそこはその、なんだ、特殊な家だからな。、そのうちひょっこり帰ってくるっつうことも考えられる。だからどうしても帰ってこないようならまた連絡しろって言ってあるんだ」
「それから連絡がないので安和子さんは無事帰ってきたのだと判断したんですね」
「ああ。こっちからも確認しようとしたが繋がんねえしな」
そうぶっきらぼうに言いつつも、高任は不安そうに安和子の写真を睨んでいた。このようすでは、安和子が無事だとは決して思っていないな、と井島は確信した。先ほどまでの面倒そうな表情とは違う。誰かを心配している顔だ。
繋がらないということは、安和子の娘にも何かあった可能性も充分にある。なにやら木崎もこちらを見て頷いているところからして、井島の次の行動は、もう決まっているらしい。
「その安和子さんの娘さんに会いに行きましょう。休日で、自宅にいる可能性はありますし。高任警部は住所くらいご存じですよね?」
高任は何も言わず、席を立った。沈黙とは肯定なり。
それから三人は車で月重湖から離れ、ちなみに運転するのは木崎だが、現在の安和子とその娘が暮らしているという街に向かった。とはいっても湖のある街からはせいぜい二十分くらいの近場なのだが。
後部座席から高任の頭を眺めていたら、質問をし損ねた。
けれども訊きたいことはたくさんあるのだ。たとえば、テープのことを黙っていた理由。各務母娘との連絡がとれなくなっていたうえ、心配している素振りは隠さないのに、今までようすを見に行かなかったわけ。そして各務家がどういった意味で特殊な家庭であるのか。
もしかしたら、と井島は思う。各務家は十年以上前から母子家庭で、高任が他の安和子の娘は幼いころから母親とふたりで暮らしてきたのだろうし、高任は母娘ぐるみで十年間も互いに連絡をしあってきた存在。彼女にとってもそれなりに信頼を寄せているということだ。そして高任は、各務家の何かを知っている。
その何かはあのテープに何らかの繋がりを持っている。そんな気がしてならない。
などと考え込んでいるうちに各務家に到着した。外観はごく普通のアパートといった感じだが、その街の住宅街からは少し離れているようだ。周囲には竹林とこぜまい駐車場、寂れた自営店などで大きな街灯も少なく、これでは夜間あまり明るくなさそうに思える。母娘のふたり暮らしにはいまいち安全性に欠けているのではなかろうか。
それはともかく、三人はインターホンを押した。各務母娘が暮らしているのは二階の突き当たりの角部屋らしい。
返答がなかったらどうしようかと井島は少し不安になったが、意外とすぐに若い女性の声がした。高任が野太い声で名乗るとしばらく声の主は黙りこみ、それから内側で鍵とチェーンロックが外されたらしい金属音がして、どうぞ、とだけ言った。
……あ、開けるのはこっちなんですね。
「高任さん、そちらのふたりは、どなたですか」
ドアの向こうから顔を覗かせた、各務安和子の娘らしい少女は、不安そうな声で高任に尋ねた。
長い黒髪が色白に映える和顔の美人だ。見たところまだ高校生くらいだろうが、当時まだ流行っていた、茶髪や金髪にパーマをあて色黒にし独特の化粧を施す生物、いわゆるコギャル、とはおよそかけ離れている。まあ清楚でおとなしめの女の子、という印象だ。
「ああ、こいつは俺の部下の木崎。こっちは捜査二課の井島って奴だ。幸和ちゃんと話がしたいんだってよ。今いいか」
「はい。どうぞ、上がってください」
女の子ひとりの部屋においそれと入っていいものか井島は悩んだが、木崎は対照的にさっさと上がり込んだので、これ幸いと彼に続くことにした。そう、躊躇している場合ではないのだ。
少女は懇切丁寧に三人を居間に通し、構うなという高任の言葉にも関わらず緑茶を淹れていた。あくまで和風なところに井島は意味もなく好感を覚えたが、それは単に井島が緑茶派だったのと、出されたお茶が美味しかったからかもしれない。
「各務幸和子といいます。お話っていうのは、やっぱり母のことなんでしょうか……?」
「え、まあ、平たく言うとそうなりますね。俺は木崎明彦」
「井島幹樹です。……ええと、単刀直入に言えば、安和子さん、つまりあなたのお母さんと、この高任警部の会話が録音されたテープについて、なんですが」
「テープ、ですか?」
きょとんと小首を傾げる幸和子。そこへ高任が改めて説明をした。つまり、月重湖で連続失踪事件が起こっていること、その現場で十年前の事故の取り調べを録音したテープが見つかっていること。そして、安和子の失踪との関連性を高任が疑っているということ。
最後の部分は井島も木崎も初耳だった。どうやら高任はひそかに木崎たちの捜査状況を刑事室で聞いていて、秋の事件以降に再びテープが発見されるまで悩んでいたようだ。テープの話を木崎にするかどうか、そして幸和子と木崎を会わせるかどうか、そのうえで自分が捜査に加わるかどうか。
そしてたぶん、ここへ来ることで高任は後輩を信じた。かつて井島が後輩を信じていたように。なんとなくそう思った。
●10
「十年前なんざ、幸和ちゃんはまだ小学生くらいで大したことは覚えちゃいねえだろうけど。そういや今は高校か」
「はい、今年で高二です。あのときはお世話になりました」
「んなこたいいんだよ。それよりあの話をこいつらにもしてやってくれないか。俺の見込んだ奴と、そいつが見込んだ奴だ」
高任は相変わらずぶっきらぼうに話す。たしかに愛想を振りまく感じの男ではなさそうだし、幸和子のほうでも慣れているふうに彼の言葉を聞いているから、普段からそうなのだろう。
「もちろん、嫌だったら構わんが」
「……ううん、高任さんがそう言うならいいですよ。母も納得するでしょう」
少し俯いて、考えるようにしてから、幸和子はそう言って前を向いた。太股の上に置いた手のひらを、緊張を押し込めるようにぐっと力ませている。
「あ、でも、他の人には言わないでくださいね。高任さん以外の警察の方には話すなって母も言ってたので」
「おう。悪いな」
いったい各務家には何があるのか。妙に控えめな高任と、なかなか話し始めようとしない幸和子に、思わず井島と木崎は顔を見合わせる。
「いきなりこんなことを言っても、わからないと思いますけど……うちの家系は、人の『ねじれ』が見えるんです。それに見えるだけじゃなくて、直したり、ひねったり……それで、それをするのに湖や沼を使います。母は『水鏡』と呼んでいました」
幸和子は落ち着いた口調でこんなことを言った。井島はしばらく意味がわからずにぽかんとしたが、気をとりなおして木崎のほうを覗うと、負けず劣らずの間抜け面を晒していた。
ふたりがこんなだったので、幸和子は困ったように高任のほうをちらちら覗っている。その直後、高任の咳払いに木崎の背筋がびしっと伸びた。井島も慌てて姿勢を正す。そのとき、どうして自分はこんな話を聞かされているのだろうかと、一瞬ふらりと疑問に思ってしまった。
ひとの、ねじれ、……ってなんだ?
「わたしや母が水鏡を通して見ると、人に芯のようなものが通っているように見えるんです。それに呼び名はありません」
「んで、その芯がねじれたり曲がってると、人間はすぐ良くねえ方向に行っちまうんだと。安和子さんや幸和ちゃんはそういう曲がった奴をまっすぐに直してやってんだ」
なぜだろう、高任が言うと一昔前のヒューマンドラマみたいに聞こえる。その場合、曲がっているのは根性で、愛情で以て叩き直すということになるが、しかし幸和子はどうにもそういった娘には見えない。こう言うと失礼だが、むしろドラマの冒頭で根性の曲がった人に苛められる役、のほうが合うと思う。井島自身もどちらかといえばそっちだが。
いや、そういう話ではないのはわかるのだ。もっと非現実的な、超常現象とか超自然とか、感覚としてはわかるのだ。頭がすぐに納得してくれないだけで。
「ご、ごめんなさい、こんなわけのわからない話」
「いやいやいやいやそんなことないよ! えーっとつまり、きみには特殊能力みたいなのがあるって思っとけばいいんだろ?」
「あ、は、はい」
木崎がいやに乗り出して熱弁するので、井島……とたぶん高任もだが、少し狭苦しかった。それにしてもこの木崎という男、どんな理解力の持ち主だっていうんだろう。いやこの場合は単純だと言うべきか。純真とかでもいいのだが、褒め言葉になりそうだから却下する。
実際に見たほうがわかりやすいと思いますけど、と呟いた幸和子に、木崎はわかっているのかいないのか判然としないようすで頷いていた。これは単に現役女子高生と親しくしたいだけのようにも見えてきたぞ。
「それで高任警部。彼女の能力の話は、あのテープや今回の事件とはどんな関係があるんでしょうか。僕にはよく……」
「あ、ああ。それなんだがな」
このまま木崎に任せると脱線しかねないので、高任に話題を振り直すことにした。それに十年前の事件と関係があるにしても、当事者だった安和子はともかく、当時の幸和子は小学生で記憶も曖昧だろうし、担当刑事だった高任に訊いたほうが手っ取り早い。
「あの十年前の事故のときな。安和子さんはちょうど月重湖で水鏡をやっていたんだ。そこで倉知を鏡越しに見てたんだよ」
「倉知康夫を、ですか」
「ああ。そのとき、倉知が誰かにぐしゃぐしゃにねじ曲げられていたのを見て、どうにかそれを直そうとした……でも上手くいかなかった、と言っていた」
「あっ、それあのテープで言ってましたよ。井島さんも聞きましたよね。B面のやつ」
「あ、そういえば……」
木崎に言われて思い出した。今朝それを聞いたばかりだったというのに、木崎に越されるとは何やら悔しい気もする。頭脳派の捜査二課、のはずなんだが。木崎曰く。
それはそうと、たしかこんな内容だった。
『はい。完全に、ねじ曲げられた跡が見えました。あたしもなんとか直せないかと思ったんですけど、どうしても上手くいかなかったんです、だから、それで』
そうだ。安和子はそう言っていた。ねじ曲げられた、の意味がわからなかったので聞き流していたけれど、幸和子や高任のいうその……水鏡とやらのことだった、ということか。
あたしでは、力が足らなかった……。そうだ。安和子は嘆くようにそう呟いていた。あの声は震えているようだった。
「要するにありゃあ殺人だったんだよ。幸和ちゃんみたいに水鏡が使える他の奴がいて、倉知をめちゃめちゃにねじ曲げて死ぬようにしたってこった」
「え? 高任さん、そこ説明はしょらないでくださいよ。なんでそれで倉知って人が死ぬんですか」
「言っただろ、曲がった奴は悪いほうに行っちまうって」
高任の説明によれば、こうだ。
人の持っているその芯は普通に生活していても、ある程度は歪んだり、少し曲がったりすることはある。それがだんだんひどくなると自殺したり、あるいは殺されたり、そこまで極端にはならなくても病的な憂鬱や倦怠感に襲われるようになる。精神面に負荷がかかることで身体的な不調も引き起こす。
しかし、件の水鏡を行うことで、人工的にその歪みを加えることができてしまう。少し曲げる程度なら自然にも起こりうるから、さして問題はなく症状も出ない。問題は一度に強い力を加えてねじ曲げた場合だ。急激に負荷を与えることになるからそれだけ影響も大きくなる。
そして安和子によれば、倉知康夫はその死の直前に誰かから水鏡でねじ曲げられていた痕跡があった。ちなみに自然にできた歪みか人工的につけたものかはひと目で判断できるという。
「だからありゃあ殺人なんだ。立証は不可能だがな」
高任は苦々しげにそう言い捨てると、上着の内ポケットに手を突っ込んだ。煙草でも吸いたくなったんだろうか。が、それを見て幸和子の気配が一瞬だけ険しくなったので、高岡も慌てて手を引っ込めた。各務家は禁煙らしい。
「安和子さんが失踪したのはちょうど第一の事件のすぐ後。無関係なわきゃねえだろう……幸和ちゃん、安和子さんが帰って来てねえのになんで俺に言ってくれなかったんだ」
「ごめんなさい……手紙がきたから、言いそびれて」
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