1、消えた男
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※読む前の注意※
本作品に登場する個人、団体および地名その他はすべて架空のものです。実在するものとは一切関係ありません。
また、全編付け焼刃の知識でお送りしています。本格的な刑事小説をご期待の方や、現実と異なる部分にツッコミを入れたくなる性分の方には、不向きですし期待外れになってしまう可能性が高くなっております。要するに雰囲気で楽しめる方向けです。
また本来縦書きで執筆された作品なので、横書き表示の方は改行パターンなど見辛い可能性がございます。予めご了承ください。
なお本作品は前作「亡目奇談」のシリーズ作品となっています。作中の「死んだ後輩」と「鬼」にまつわるお話です。
そちらを読んでおく必要はありませんが、もしご興味がありましたらどうぞ。
↓では本編へどうぞ。
●1
井島幹樹は昔からミキちゃんと呼ばれやすかった。もちろんちゃんづけで呼ばれるなんて男がすたるというものだが、こんな名前をつけた物好きな母を責める気にはあまりなれない。
悔しいが井島は、ミキという名前を気にいっていた。
その井島がそれでも人生何度目かに己の名前を呪ったのは、数年前のとある事件のことだった。可愛がっていた後輩が不慮の殉職を遂げたすぐあとで、悲しみを感じる間も与えられずに県境の僻地に行くはめになった井島は、とにかく快速電車の中で無言を貫くことで反抗を試みた。当時の井島は子どもの心をなくしていない純情な男だったのだ。
──ツキエコ。井島は今でもその名称に背筋を震わせる。
「おい井島。おまえ、まだ昼飯食ってねえだろ」
隣で先輩刑事が水っ鼻をすすりながら言った。どうも花粉症かアレルギー鼻炎らしいのだが、見ているこちらまでむずがゆくなってくる。
井島は無言のままティッシュを差し出すと、何気なく窓の外に眼を遣った。典型的な田舎然とした風景だ。ぼんやりとした、青鈍色にかすむ山並みと、裾野に広がる水田。雑木林。
後輩が死んだのも、こんな寂しい田舎だった。
「とても食べる気分にゃなれませんよ」
「バカ野郎、落ち込むなら非番のときにしとけ」
乱暴な言葉とともに突きだされた生温いおにぎりを、井島はしぶしぶ受け取った。でも自分は梅干しが苦手なんですが、とは言いだせない雰囲気だったので、とりあえずそれをポケットにねじ込んでおいた。あとでどうにか処分せねば。
いい加減に黙秘を解く必要性を感じた井島が顔をあげると、先輩刑事は狙ったかのように緑茶のペットボトルも突き出した。
「あの」
「なんだよ」
「いや……事件の概要、まだ聞いてなかったんで。どうせまた横領かなんかなんでしょうけど」
「ああ。ま、そんなもんまだ起こっちゃいねえけどな」
「えっ?」
見れば先輩刑事はにやにやしながら井島を見ていた。素頓狂な声を上げたのがそんなに面白かったのか、とっておきの情報でも掴んでいるのか。それにしたって子どもみたいな人だ。
どうも井島は無意識のうちに訝しげな顔で睨んでいたらしく、そう怖い顔しなさんな、となだめられた。
「タレ込みだよ。贈賄の」
「はあ」
「ほらよ、この観光地。ここんとこリゾート開発が盛んでな、湖を中心に遊園地だのホテルだのがわんさと造られてるとこなんだが、どうもその建設事業がらみでやらかすらしい」
提示された旅行ガイドらしい雑誌のページには、妙ちくりんな形の湖が大判の写真入りで紹介されている。観光地としてはそれなりに有名な場所らしいが、残念ながら井島には旅行その他に対する興味がないため、地名ぐらいしか聞き覚えがない。
こんな田舎の観光地で、ほんとうにタレ込みどおりの贈賄が行われるのか。そりゃあ人気を忍んでこそこそやるよりも観光客に紛れて手渡しするほうが怪しまれずに済むだろうが。
ときどき井島は、捜査二課は自分には向いていないのではないかと思うことがある。
「それ、情報源は確かなんでしょうね?」
「そこそこ信用できる筋だよ」
思わず不審そうな顔をしてしまったが、先輩刑事は満足げに緑茶をすすっていた。悪い人じゃあないなと思った。
●2
件の月重湖は、沈みがちな井島の想いとは裏腹になかなかの賑わいを見せていた。この雪の中をなにが楽しくて湖なんぞを見にくるのだろうか。井島としては非常に理解しがたい世界だ。
電車の乗換えの合間に先輩刑事に見せてもらった資料によると、今回容疑者になる予定の人物は、赤坂栄治というリゾート開発企業の重役らしい。彼は現在この月重湖リゾートでも最大規模のホテルに宿泊中だそうだ。井島と先輩刑事はその隣のホテルにチェックインをしたのち、諸々の準備を済ませた。
問題の贈賄が行われるのは翌日の昼すぎ。リゾート地だからレストランや喫茶店のチェーンは多いが、指定の場所はどうやら自営店らしい。確実に行われるという証拠は今のところ発見されていないので、張り込んで現行犯で逮捕するしかないだろう、とは先輩刑事の言である。
念のため今日から張り込むことになり、井島と先輩刑事は観光客を装って月重湖にくり出した。
ほんとうに妙ちくりんな形をした湖だ。といっても空撮写真でもない限りわかりはしないが、片手に抱えた観光ガイドでは『竜の寝姿』などと紹介されていた。どうも井島にはツチノコに見えるのだが。
予定のうえでの被疑者は、一日じゅう会社の部下らしい男を引き連れて建設中の施設を見まわっていた。
とくにこれといって怪しげな素振りもないため明日出直すことになった。それに先輩刑事はそのタレ込みに随分信頼を寄せているらしい。かといってどういう筋からの情報なのかは頑として教えてくれなかったのだが。
ほぼ順調と呼べたのはここまでだった。翌朝たまたま朝食を買いに出ていた井島の耳に、群衆の不穏なざわめきが届いたのだ。井島は律儀に観光客のふりを続けながら周囲の会話をかき集めて、自分でもだんだん青ざめてきたのを感じながら、大慌てでホテルの部屋に舞い戻った。
もたつく手でドアにキーを突っ込む。本来井島は寒がりだが、このときは手に汗をかいていた。
「五十嵐さん、赤坂が入水自殺したってほんとですか」
先輩刑事は渋い顔で、まだわかんねえよ、と答えた。彼の右手にはホテルの電話の受話器が握られていて、コードがだらりと垂れ下がっていた。
結局そのあと捜査一課が出てきたとの情報を得たふたりは、のこのこと湖に顔を出した。事情を説明すると刑事がひとり送られてきて、彼からだいたいの状況を聞くことができたので、ひとまず先輩刑事が一旦書類を書きに戻ることになり、説明用にひとり残された井島は情けなくも湖畔で右往左往していた。
一課の捜査員は木崎明彦という若い巡査部長で、彼によれば赤坂栄治は昨晩、突然ホテルの部屋からいなくなったのだという。その後、彼の上着を載せたボートが湖に浮かんでいるのが発見されたそうだ。ちなみにこのボートは湖畔の売店で観光用に貸し出されているもので、もともと入れ替わり立ち替わり観光客が乗った跡が多数あったため、赤坂が確かにこれに乗ったという証拠はないのだという。
「それじゃ、上着だけ脱いで自殺したように見せかけて、どこかに姿をくらませたってこともあるでしょ?」
木崎刑事は軽い調子でそう言った。人ひとり亡くなったかもしれないというのに不謹慎だ。
「目撃者がいたんじゃないですか」
「あれ、わかりました? いやあ偶然ね、深夜だったんですけど、通りがかったっていう人がいたんですよ。それでその人が言うには、確かにこの赤坂っていうおっさんが虚ろな顔して湖のほうに歩いて行ったのを見たんだそうで」
「つまり自殺しようって顔だったと」
「みたいです。それで、いちおう動機も調べてみたんですけど、なんかどうもそれらしいのは奥さんとの不仲くらいしか出てこなくて……」
「不仲? 喧嘩したとかですか」
「ええ。浮気がばれて大変だったみたいです。離婚話に発展したとかで、裁判沙汰にするのしないの」
「それは……自殺の原因になりうるんでしょうか」
率直に尋ねると木崎も肩をすくめた。井島の予想が正しければお互い未婚だから、そういうことに明るくないということもあるが、仮に井島が赤坂のような状況に陥ったとしたら、自分が死ぬ前に妻のほうを殺すような気がする。実際そんな事件の話を聞いたこともあるし。小説だったかもしれないが。
何より赤坂は、明日にたぶん重要な賄賂受け渡しを控えていたのだ。自殺しようという人間がそんなことをするか?
では、これは殺人なのか。
「そうそう、井島刑事に確認したいことが」
考えあぐねていたところを、木崎が少々オーバーなアクションでもって妨害してきた。というか現実に『手をポン』をやる人間なんて初めて会った気がする。
「なんでしょう」
「その赤坂のおっさんですが。もしかして以前にも贈賄の容疑をかけられたことがあったんじゃないでしょうか」
木崎の言葉に心臓が跳ねあがった。
というのも、井島も薄々そうではないかと思っていたのだ。先輩刑事はそこそこ信用できる筋からの情報だと言っていたが、それにしでも確証のない贈賄疑惑に対し、彼や上司らのの対応が随分と丁寧だったように感じる。赤坂が前科者だったとしたら井島としては納得がいくのだ。
「僕は最近まで三係……横領捜査係で、まだあまり詳しくはないので確信は持てませんが、そうだったんじゃないかと思います。……でもどうして木崎刑事がそれを?」
「え? あ、じつはその、これが二回目なんですよ」
「二回目……って、まさか」
「前にも似たようなことがあって、そのときも俺が担当したんですけどね。そのときは自殺で処理しちゃったんですが。で、そのときのガイシャも、たしか窃盗容疑で起訴直前だった奴で」
「……それっていつのことですか?」
「今年の秋口でした、たしか……すごく流行ってた連ドラの初回を見逃したと思うんで。あれ悔しかったなあ」
つくづく世俗的な刑事だ。
とにかく井島は先輩刑事に赤坂の前科を確かめた。案の定彼は以前にも贈賄の疑いがかけられていたらしい。捜査にあたっていたのは先輩刑事自身で、あと少しのところで証拠不十分になったのだと悔しがっていた。
隣で木崎が他の捜査員にふたつの事件の連続性を伝えているのを、井島は落ち着かない気持ちで聞いていた。なんだか嫌な予感がする。この感触は、あの後輩から電話をもらったときに感じた妙な焦燥と、よく似ている。あの、今は亡き後輩からの。
『井島さん、あいつを見つけました。もう死んでました』
自分なりに可愛がっていた後輩だった。人づきあいが決して得意でなはい井島だが、彼とは信頼関係のようなものだって築いてきたつもりだった。その彼があんな死にかたをするなんて。
捜査中の、変死だった。寒々しい山のなかの一軒家で死体になって転がっていた。第一発見者は雑誌記者で、最近その後輩と知り合い、その折に聞いた話を面白がって調べていたところ、後輩の死体に辿りついた、と言っていた。奇妙な偶然をもちろん警察は怪しんだが、後輩の身体には目立った外傷もなく、死因は寒さによる衰弱死。結局事故として処理された。
けれども井島は知っている。後輩の死は絶対に、不幸な事故などではない、ということを。それにあの現場に駆けつけたときの衝撃を井島は生涯忘れないだろう。
そして今感じている、背を這い上ってくる不快感は、あのときのそれにひどく似ている。
「はい、え? いえそれはまだ……はい、はい、了解しました。それなら一本目も送ってもらえます? 確認……え? 井島刑事ならいますよ?」
急に自分の名前が出てきたので井島はぎょっとして木崎を振り返った。ちょうど電話を切ったところだ。
「やはり連続した事件なんでしょうか」
「まだ確証はありませんけど、ちょっと今からそいつを探しにいきましょうよ。カセットテープ」
「カセットテープ?」
「あれ、まだ言ってなかったっけ……前の事件のとき、ボートの中には上着のほかにカセットテープもあったんですよ。今回の事故が連続して起きたものだったら、きっと現場にカセットテープかそれに関連したものがあるんじゃないかって、さっき先輩が言ってました」
そして井島は有無を言わせず、木崎に連れられて再び湖に向かったのだった。
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