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絶望のソムリエ ~勇者パーティーの美しい崩壊を、一番いい特等席で見届ける~

作者: S&Y
掲載日:2026/10/06

■ ヴィンセント(語り手)

勇者パーティー専属の参謀兼補給係。

戦闘力は皆無だが、深い知識と温厚な人柄で仲間を支える保護者的存在。手塩にかけて育ててきた二人が魔王を討ち、幸福な結末を迎える日を誰よりも心待ちにしている。


■ アルス

勇者。かつては自己評価の低い落ちこぼれの少年だったが、ヴィンセントの指導と励ましによって、仲間を命がけで守る誇り高き「本物の英雄」へと成長した。エレナを一途に愛している。


■ エレナ

聖女。教会の「神の生贄(いけにえ)」として感情を殺されて育ったが、アルスとヴィンセントの温かさに触れ、人間らしい心と笑顔を取り戻した。アルスを深く愛している。


※本作は1話完結の読み切り短編です。

最後までお付き合いいただければ幸いです。

【第1幕:剪定と施肥(せんていとせひ)――甘美な前奏曲】


夜の帳(よるのとばり)が、魔王領の荒野を濃密な藍色(あいいろ)で塗り潰していた。

ごうごうと低く唸る冷たい夜風のただ中で、小さな焚き火だけが爆ぜる音を立て、朱色の火の粉を夜空へと撒き散らしている。


「ヴィンセント、お茶のおかわりをもらえるかい?」

「ええ、もちろんですよ、アルス。冷めないうちにどうぞ」


私は手元で煮出していた干し林檎とカモミールの薬草茶(ハーブティー)を、木製のマグカップに注いで手渡した。湯気とともに立ち上る甘酸っぱい芳香に、青年は細められたヘーゼルナッツ色の瞳をふわりと緩める。

アルス――かつては王都の裏路地で泥にまみれ、自らの剣の才能にも気づかず、周囲の嘲笑に怯えていた落ちこぼれの少年。

いま、私の目の前に座る彼は、無駄のない筋肉を纏った逞しい体躯と、何者をも恐れぬ誇り高き光を宿した瞳を持つ、押しも押されもせぬ「人類最強の勇者」へと変貌を遂げていた。


「ありがとう。……ヴィンセントの淹れるお茶は、いつも世界で一番落ち着くよ」

「身に余る光栄です。戦う力のない私にとって、あなた方の心身を最高の状態に保つことこそが唯一の務めですから」

「そんなことないわ、ヴィンセント」


アルスの隣に寄り添っていた少女が、鈴を転がすような澄んだ声で遮った。

エレナ。白銀の髪を夜風に揺らし、月光を溶かしたような蒼穹(そうきゅう)の瞳を私に向けた、至高の聖女。

彼女はアルスの差し出したマグカップにそっと両手を添え、分け合うようにして口をつけた。二人の触れ合う指先が、照れくさそうに、けれど自然に絡み合う。


「ヴィンセントがいてくれたから、私たちはここまで来られたの。迷ったときは進むべき道を示してくれて、傷ついたときは誰よりも優しく介抱してくれた。……あなたは私たちの、たった一人の大切な家族よ」

「エレナ様の温かいお言葉、胸に沁み入ります」


私は胸に手を当て、深く頭を下げた。口元には、いつも通りの穏やかで慈愛に満ちた笑みを浮かべて。

嘘偽りはない。私は心から、この二人が愛おしかった。


見つめ合う二人の瞳には、一点の曇りもない。

打算も、猜疑も、エゴも存在しない。互いのために命を投げ出すことを欠片も躊躇わない、純度百パーセントの信頼と、魂を結び合わせる熱烈な愛。

ああ、なんと甘美で、瑞々しい光景だろう。


ここまで育てるのに、丸四年もの月日を費やしたのだ。


記憶が、温かな追憶となって脳裏をよぎる。

四年前に出会った頃のアルスは、ひどいものだった。才能の片鱗を抱えながらも自尊心は地に落ち、他人の視線に怯えるばかりの、痩せこけた荒野の苗木。

私は彼の「師」となり「友」となり、惜しみなく賛美と承認を与え続けた。彼が挫折しそうになるたび、誰よりも熱心に彼の正しさを肯定し、小さな成功を大仰に称え、彼の中に「弱者を守る誇り高き英雄」の輪郭を彫り込んでいった。

アルスがかつて、自らを嘲笑した粗暴な冒険者たちに剣を抜けず震えていた夜のことも覚えている。私が裏でその冒険者たちの元へ赴き、彼らが二度とアルスの前に現れないよう『穏便に処理』してやったとき、少年は私の胸で泣きじゃくり、私を唯一の理解者として崇拝するようになった。


エレナもまた、手のかかる娘だった。

教会の奥深くで「奇跡を行使するための生贄」として虐待を受け、心を完全に凍結させていた冷たい石像。

私は彼女に痛みのない世界を教え、温かな寝床を与え、そして何より――「傷ついたアルスを慈しむ悦び」を与えた。

教会が彼女を連れ戻そうと刺客を差し向けた夜も、私はアルスとエレナの寝室には一滴の血も通わせず、夜陰に乗じて使徒たちを『剪定』した。二人が目覚めたとき、世界はいつでも静かで、優しく、安全でなければならなかったからだ。


二人が惹かれ合うのは必然だった。

私がそうなるよう、旅の道程、野営の配置、寒さを凌ぐために分け合う毛布の枚数に至るまで、細心の手入れを施したのだから。

疑念という名の害虫がつけば、私が夜陰に乗じて摘み取った。

仲違いの火種となるような雑味が生じれば、私の柔らかな話術で丁寧に刈り込んだ。

ただひたすらに、純粋で、美しく、一点の濁りもない至高の愛だけが実るように。


「……明日だな」


アルスが焚き火の炎を見つめながら、ぽつりと呟いた。

彼の視線の先、荒野の地平線には、天を突き刺すようにそびえ立つ黒曜石の巨塔――魔王城が不気味な影を落としている。


「ああ。明日、あの城の玉座にいる魔王を倒せば、すべてが終わる」

「ええ……。長かった旅も、ようやく終わりね」


エレナがアルスの肩に頭を預ける。アルスはその細い肩を愛おしそうに抱き寄せた。


「魔王を討伐したら、王都の叙勲も、貴族の地位も、全部辞退しようと思ってるんだ」

「ふふ、アルスらしいわね。じゃあ、どこへ行くの?」

「ヴィンセントの言っていた、南の海が見える静かな丘の村だよ。あそこに小さな家を建てて、三人で暮らそう。朝は波の音で起きて、昼は畑を耕して、夜はヴィンセントの美味しいご飯とお茶を囲むんだ。……どうかな、ヴィンセント?」


無邪気で、透き通るような希望。

少年のような瞳で私を見上げてくるアルスに、私はこの世で最も優しい微笑みを返した。


「ええ、アルス。ええ、もちろんですとも。それは……想像するだけで、胸が震えるほど素晴らしい結末ですね」

「決まりだな! よーし、そうと決まれば、明日は絶対に負けられないぞ」

「ええ、アルス。私の全魔力を、あなたに捧げるわ」


重なり合う二人の手。

陽光を浴びて完熟した果実が、自らの重みで枝をしならせるように。

彼らの魂は今、人生で最も甘美で、最も瑞々しい成熟を迎えていた。


私は胸の内で、静かに目を細めた。

素晴らしい。雑味のない、完璧な仕上がりだ。

いよいよ明日は、待ちに待った収穫の日(ヴァンダンジュ)である。


【第2幕:開花と成熟――完璧な英雄譚の完成】


空気の震えが肌を刺す。

魔王城最上階、謁見の間。天を覆う天蓋(てんがい)からは禍々しい瘴気(しょうき)が立ち込め、紫黒色の雷鳴が不気味に轟いていた。


「ガハハハハ! 小虫どもめが、よくぞここまで辿り着いたものだ!」


玉座に君臨する魔王は、漆黒の甲冑を纏った異形の巨躯を誇っていた。身の丈は三メートルを超え、四本の腕にはそれぞれ禍々しい業火(ごうか)を宿した大剣が握られている。その足元には、過去に挑み、散っていった無数の英霊たちの白骨が転がっていた。


「魔王! 貴様の悪虐も、今日この場で終わりだ!」


アルスが聖剣(エクシリア)を抜く。

刀身から放たれる純白の輝きが、謁見の間の瘴気を切り裂く。

開戦の合図など不要だった。魔王が地を蹴り、爆音とともに間合いを詰めてくる。四本の剛剣が、大気を引き裂きながらアルスへと振り下ろされた。


「アルス、右から二本目を弾き、低空で懐へ! エレナ様、防壁をアルスの左半身へ集中!」


私は玉座の間の入り口、安全な柱の影から、冷静かつ明瞭な声で指示を飛ばした。

戦う力を持たない私の唯一の武器は、百戦錬磨の魔導知識と、敵の初動をミリ単位で見極める観察眼だ。


「了解だッ!」


アルスは私の指示に一分の迷いもなく従った。

右から迫る漆黒の刃を聖剣の腹で受け流し、火花を散らしながら身を沈める。同時に、エレナの手から放たれた白銀の障壁が、アルスの死角を狙った残る三本の刃を完璧に防ぎ止めた。


「小癪なァッ!」

「そこだ、アルス! 心臓の真下、魔力結節点(コア)へ!」

「おおおおおッ!」


裂帛の気合とともに、アルスの聖剣が魔王の胸甲を深く抉り抜いた。

青白い閃光が爆発し、魔王が苦悶の絶叫を上げて後退する。


「ぐ、おのれ……! なぜだ、貴様らごときの矮小な力で、余の魔壁を貫けるはずが……!」

「俺たちはお前のような化け物に屈しない! 俺の背中にはエレナがいて、ヴィンセントがいる! 仲間を信じる心が、俺に無限の力をくれるんだ!」


誇らしげに叫ぶアルスの姿は、まさに神話から抜け出してきた英雄そのものだった。

彼の言葉に嘘はない。彼は本当に、仲間への愛と信頼を力に変えて戦っているのだ。

私の指示通りに動き、エレナの祈りを背に受け、自らの命を顧みずに刃を振るう。

アルスが傷を負えば、エレナが涙を浮かべて即座に治癒の光を注ぎ、その献身に胸を打たれたアルスがさらに剣の威力を増す。

互いが互いを想う熱量が、極限の戦場という熱源によって、臨界点を超えて高まっていく。


「エレナ、最大出力を! これで決める!」

「ええ、アルス! ――天上の光よ、悪を討ち滅ぼす刃となれ!【ヘブンズ・カタストロフ】!」


エレナの瞳に祈りの光が宿り、彼女の全霊を込めた神聖魔力がアルスの聖剣へと奔流となって注ぎ込まれる。

青年の剣は太陽のごとき眩い光を放ち、謁見の間を満たしていた闇を焼き払っていく。


「終わりだ、魔王ぉぉぉぉぉぉッ!」


光の軌跡が、魔王の巨躯を一刀両断にした。

轟音。漆黒の大剣が砕け散り、魔王の巨体がどさりと床へ崩れ落ちる。傷口からどす黒い血液が噴き出し、玉座の間の絨毯を赤黒く染め上げていった。


「……はぁ、はぁ……や、やったのか……?」


アルスが荒い息を吐きながら、膝をつく魔王を見下ろす。

聖剣の光が静かに収まり、静寂が謁見の間を支配した。


「勝った……勝ったんだ、アルス!」

「エレナ!」


エレナが駆け寄り、アルスの胸へと飛び込んだ。アルスは彼女を強く抱きしめ、二人は歓喜の涙を流しながら抱擁を交わす。


「やったぞ、エレナ……! 世界は救われたんだ! 俺たちの手で、本当に……!」

「ええ、ええ! アルス、あなたって本当に凄い! 世界で一番の勇者様よ!」


二人の頭上には、勝利の光が降り注いでいるかのようだった。

四年間の苦難、流した血と涙、そのすべてが報われた瞬間。

絶望の闇を打ち破り、世界を救い、愛する人と手を取り合って迎える輝かしい未来。


――希望の、最高到達点。


私は柱の影から静かに歩み出た。

コツ、コツ、と革靴の音が、静まり返った広間に心地よく響く。

ああ、胸の鼓動が高鳴るのを止められない。

彼らの放つ魂の輝きは、いまや眩暈を覚えるほどに純白で、濃密で、美しかった。


熟した。

天候にも恵まれ、害虫もつかず、これ以上ないほど甘く、豊潤に、実は極限まで膨らみきった。


ならば――収穫の鋏を入れねばならない。


【第3幕:収穫の刻(ヴァンダンジュ)――残酷な理の開示】


「ク、クク……クハハハハ……!」


突如として、広間に響き渡ったのは、乾いた哄笑だった。

床に伏し、両断されたはずの魔王の口から、血の泡とともに嘲りの笑いが漏れ出していた。


「なっ……まだ生きて……!?」


アルスが即座にエレナを背中に庇い、聖剣を再び構える。

しかし、魔王は立ち上がろうとはしなかった。ただ、血に染まった瞳で二人を、そしてその後ろに立つ私を舐めるように見つめていた。


「愚かな……真に愚かな人間どもよ……。勝った気でおるのか? 余を斬り裂き、世界を救った気でおるのか……?」

「往生際の悪い戯言を! 貴様の心臓は確かに断ち切ったはずだ!」

「たしかに余の肉体は滅びる……。だが、余は『世界の歪み』そのもの。余の魂を完全に消滅させぬ限り、この身から解き放たれる数万の瘴気が世界を呑み込み、生きとし生けるもの全てを狂気と死で満たすであろう……!」

「なに……!?」


アルスの顔に焦燥が走る。

魔王の言葉を裏付けるように、魔王の傷口から黒い霧が立ち上り、怨嗟の叫びのような不気味な音を立てて広がり始めていた。


「この瘴気を浄化し、余の魂を完全に滅ぼす術はただ一つ……! 古の神が遺したその聖剣の、真の力を解放することのみ……! だが……ククク、貴様らにそれができるかな? その聖剣の起動条件を、知らぬはずではあるまい……!」

「起動条件だと……? 何を言っている! 聖剣の力なら、エレナの祈りで先ほど解放した!」

「違うな……あれはただの表面の光に過ぎん。聖剣の真髄とは、魂の等価交換(とうかこうかん)……! 【最も愛する者の無垢な魂】を注ぎ込まねば、真の覚醒はあり得んのだよ!」


謁見の間の空気が、凍りついた。


「……は?」


アルスの口から、間の抜けた声が漏れる。


「愛する者の魂……? 何を……何を言ってるんだ? そんなデタラメに騙されるか! 俺とエレナを分断するための見え透いた嘘だ!」

「嘘だと思うなら、貴様の背後にいる男に聞いてみるがよい……! その男は、貴様らよりも遥かに多くの書物を読み、世界の理に通じておるはずだぞ……!」


アルスが弾かれたように振り返った。

その瞳には、すがりつくような、哀願の色が滲んでいた。


「ヴィンセント……! 言ってやってくれ、あんな奴の戯言、ただの出まかせだって! 聖剣は俺たちの絆の力で動くんだって……お前が一番よく知ってるだろ!?」


私は、彼らの視線を真っ向から受け止めた。

そして――いつものように、柔らかく、温かで、慈しみに満ちた笑みを浮かべて、静かに頷いた。


「ええ、アルス。魔王の言う通りです」


……しん、と。

広間から全ての音が消え去った。


「……え?」


アルスの瞳が、見開かれたまま硬直する。


「ヴィンセント……? お前、何を……」

「魔王の言葉に、何一つ嘘はありませんよ。私は王都の大図書館の禁書も、古代神殿の壁画も、失われた神代の言語も、すべて解読しました。この聖剣『エクシリア』は、造物主が魔王を封じるために作った檻。そしてその鍵となるのは、所有者が【世界で最も深く愛する、無垢なる者の心臓の血】……すなわち、魂の生贄です」


私は一切の抑揚を乱さず、まるで明日の天気や美味しいお茶の淹れ方を教えるかのように、穏やかに解説を続けた。


「そんな……嘘だろ……? だって、お前……旅立つ前、俺に言ったじゃないか!『聖剣はあなたの清らかな心に呼応して、奇跡を起こす』って……!」

「ええ、言いましたよ。嘘ではありません。あなたの心は世界一清らかで、そしてエレナ様への愛は世界一深い。だからこそ――この聖剣は、エレナ様の命を捧げることでしか、真の力を発揮しないのです」

「な、何を言ってるんだ……!? ヴィンセント、お前、頭がおかしくなったのか!? エレナを殺せって言うのか!? 俺が……俺の手で、エレナを!?」

「ええ。それ以外の道は、この世界の物理法則において存在しません」


私は一歩、彼らに歩み寄った。

アルスはまるで恐ろしい怪物を見るかのように、後ずさりをした。


「もしエレナ様を捧げなければ、あと数分で魔王の肉体は崩壊し、解き放たれた原初の瘴気が大陸全土を覆います。王都の人々も、あの南の海の村も、大地に生きる何億という無辜の民が、皮膚を爛れさせ、狂気に狂って死に絶えるでしょう。……もちろん、あなたも、エレナ様も」

「そんな……そんなの……!」

「選ぶのです、アルス。世界を救うためにエレナ様を殺すか。それとも、エレナ様と共に世界を滅ぼすか。……道は、その二つしかありません」


「お前……! 知ってたのか!? 最初から、全部知ってたのかよ!?」


アルスの喉から、獣のような悲鳴が迸った。

大粒の涙が、彼の頬を伝い落ちる。


「知っていて……俺たちをここまで連れてきたのか!? 『三人で故郷に帰ろう』って、あの焚き火の前で言ったのは……全部、全部嘘だったのかよ、ヴィンセントォッ!!」

「いいえ、アルス。嘘など一つもついていませんよ」


私は首を横に振った。心の底からの誠実さを込めて。


「私はあなたを愛しています。エレナ様を愛しています。お二人が互いを思いやるその美しい心に、私は幾度となく魂を震わせてきました。あなた方が共に過ごした四年間は本物であり、注ぎ合ってきた愛は至高の輝きを放っています。……何一つ、偽りなどありません」

「じゃあ、なんで……! なんでそんな残酷なことができるんだよッ!?」

「残酷?」


私は心外そうに小首を傾げた。


「心外ですね。私はただ、あなた方に『最高の舞台』を用意しただけです。もし私が最初から真実を教えていれば、あなた方は怯え、疑い、打算を抱いたでしょう。そんな不純物が混ざれば、これほど美しく澄み切った愛が育つはずもありません。……あなた方が、世界で誰よりも尊く、気高く、愛し合っているからこそ――この至高の瞬間が訪れたのですよ」


私の言葉には、嘲笑も、悪意も、濁りも微塵もなかった。

あまりにも澄み切った、純粋無垢な善意の響き。

だからこそ――それはアルスにとって、魔王のどんな呪詛よりも深く、致命的に精神を切り裂く毒刃となった。


「あ……あぁ……」


アルスの膝ががくがくと震え、聖剣の切っ先が力なく床へと落ちる。

彼が四年間信じ、兄のように、父のように慕ってきた参謀の笑顔。

その微笑みの中にあったのは、悪意などではなく――ただひたすらに、自分たちを「最高の状態で熟した果実」として愛でる、絶対的な観察者の眼差しだった。


【第4幕:圧搾と発酵(グラン・クリュ)――美しい破滅】


黒い瘴気が、魔王の身体から立ち上る勢いを増していく。

天井の石材が腐食し、ボロボロと崩れ落ちる。世界が終焉へ向かうカウントダウンが、冷酷に刻まれていた。


「嫌だ……嫌だ……! 俺は世界なんて救わなくていい! 英雄になんてならなくていい! エレナ……逃げよう! ここから逃げるんだ!」


アルスが狂ったように叫び、エレナの手を掴もうとした。

しかし。

その手を、エレナはそっと、優しく握り返し――そして、引いた。


「……エレナ?」

「アルス。駄目よ」


エレナの声は、驚くほど静かだった。

彼女の白い頬には、幾筋もの透明な涙が流れていた。けれどその口元には、かつて感情を失っていた頃の冷たさではなく、アルスとヴィンセントが与えた、温かな「人間」の笑みが浮かんでいた。


「逃げても、どこにも行く場所なんてないわ。世界が滅びたら……あなたが大好きなあの青い海も、優しい人々も、みんな消えてしまう」

「そんなのどうでもいい! お前がいない世界なんて、俺には何の意味もないんだ!」

「ううん、意味はあるわ。あなたが生きているもの」


エレナは一歩、アルスへと近づいた。

彼女は両手でアルスの震える手を包み込み、彼が握る聖剣の柄を、自らの胸元へと導く。


「ひっ……!? やめろ、エレナ、やめてくれ!」

「アルス。私ね、教会にいた頃は、自分が何のために生きているのか分からなかった。痛くても悲しくても、泣くことすら許されなくて……ただの壊れた人形だった」


エレナの瞳から、大粒の雫が零れ落ち、聖剣の刀身を濡らす。


「でも、あなたが私の手を引いてくれた。外の世界の美しさを教えてくれた。花の名前を教えてくれた。……人を愛する幸せを、あなたが教えてくれたの」

「エレナ……頼むから、頼むからやめてくれよぉッ!」

「だからね、アルス。私はあなたを、何億もの人々を殺した大罪人になんてしたくない。……世界を救う、誇り高き私の英雄でいてほしいの」

「嫌だ! 俺はお前を殺すために剣を握ってきたんじゃない! お前を守るために……ッ!」

「守ってくれたわ。ずっと、私の心を守ってくれた。……ありがとう、アルス。愛してる」


「エレナァァァァァァッ!!」


引き抜こうとするアルスの腕の力を、エレナの祈りの魔力が縛り上げた。

そして――。

彼女は自ら、その身を前へと投げ出した。


ざぶり、と。

肉を断つ、鈍く重い音が広間に響き渡る。


純白の刀身が、エレナの胸の中央を深々と貫いていた。


「あ――」


アルスの喉から、空気の抜けるような音が漏れた。

エレナの胸から噴き出した鮮血が、アルスの顔を、白銀の鎧を、真っ赤に染め上げていく。

だが、その血は床に落ちることはなかった。

聖剣が――血を、魂を、渇望するように貪り喰らい始めたのだ。


『ギ……ギシャァァァァァッ!?』


魔王が恐怖の悲鳴を上げた。

聖剣から解き放たれたのは、先ほどとは比べ物にならない、神々しくも禍々しいまでの純白の劫火(ごうか)をつれ立っていた。

最も愛する者の無垢な魂を喰らった刃は、太陽そのものの輝きを宿し、広間を満たしていた黒い瘴気を一瞬にして焼き尽くした。


「グアァァァァァァァッ!!」


魔王の肉体が、魂が、光の余波に呑み込まれ、灰となって霧散していく。

悪の根絶。世界の救済。完全なる勝利。


だが、その光の中心で――。


「あ……が……あ、あ……」


アルスは、崩れ落ちるエレナの身体を抱きとめていた。

聖剣が手から滑り落ち、甲高い音を立てて床を転がる。

彼の腕の中にいる最愛の少女は、薄れゆく意識の中で、最後まで愛おしそうにアルスの頬に手を伸ばした。


「ない……で……アル、ス……。笑っ……て……」

「エレナ? エレナ……? 嘘だろ、おい……傷を、回復魔法を……! ヴィンセント! ポーションをくれ! 早く、早くしろよぉッ!」


アルスが血まみれの手で私に手を伸ばす。

私は動かない。ただ、静かに目を伏せる。


「聖剣に捧げられた魂は、いかなる神聖術でも戻りません。……彼女の肉体は、もう事切れています」


ぴたりと、エレナの手が力を失い、床へと落ちた。

瞳から光が消え、人形のような美しさだけを残して、二度と動かなくなった。


「あ」


アルスの口から、小さな、壊れたような音が漏れた。


「あああああ……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!」


それは、人間のものとは思えない絶叫だった。

喉が裂け、血が混じるほどの慟哭(どうこく)。

彼はエレナの亡骸を抱きしめ、額を彼女の胸に押し当て、狂ったように叫び続けた。


なぜだ。

なぜ俺が。

なぜエレナが。

俺が救いたかったのは世界じゃない。お前だけだったのに。

俺の手が、俺の剣が、俺の愛が、お前を殺したのか。


精神が軋み、砕け散る音が聞こえるようだった。

誇りも、希望も、未来への夢も、四年間の輝かしい思い出のすべてが、反転して彼自身の心を抉り刻む無数の刃へと変わっていく。

愛が深ければ深いほど、その傷口は深く、広く、二度と塞がらぬ地獄となる。


やがて――。

叫び声は途絶えた。


アルスの瞳から、完全に光が消え去っていた。

涙も止まり、表情も失われ、ただ硝子玉のような虚無の瞳で、腕の中の冷たい骸を見つめている。

息はしている。心臓も動いている。

だが、そこにいた「英雄アルス」の魂は、完全に死に絶えていた。

抜け殻となった、生ける屍(リビングデッド)。


静寂が、謁見の間を満たした。

世界を救った勇者と、世界を救うために殺された聖女の、完璧なる終焉。


【結末:テイスティング――星空の下の美酒】


「……ああ」


私は思わず、恍惚とした吐息を漏らしていた。

胸が熱い。指先が歓喜に震えている。


「素晴らしい……。なんと、息を呑むほどに美しい……」


私は静かに歩み寄り、膝をついた。

壊れてしまったアルスの隣へ。

私の接近に、彼はピクリとも反応しない。もはや彼の世界には、何も映っていないのだ。


私は懐から、布に包まれた道具を取り出した。

鈍く光る純銀のピンセット。そして、上位次元の神話鉱石から削り出された、親指ほどの大きさの魔導硝子小瓶(アンプル)。


アルスの胸元から。

そして、事切れたエレナの唇の端から。

ゆらゆらと、この世の現象とは思えぬ美しい蒸気が立ち上っていた。


それは、夜空の最も深い場所を切り取ったような、妖艶な紫紺色。

そしてその芯には、夕焼けの残照のような、温かな琥珀色の光が微かに揺らめいている。


「【抽出(デキャンタージュ)】」


私が低く呪文を唱え、銀のピンセットで空気を払うと、立ち上る紫紺の蒸気は吸い寄せられるように硝子小瓶の中へと流れ込んでいった。

きらきらと輝く星屑のような粒子を含んだその液体は、小瓶の底へ、一滴、また一滴と溜まっていく。


これこそが、我が収穫物。

人間の魂が極限まで高められた希望を抱き、それが完璧な因果によって引き裂かれた瞬間にのみ滴り落ちる、感情の結晶。


チ、と小さな音を立てて、最後の一滴が小瓶に満ちた。

私は手際よくコルク栓を押し込み、純金の封蝋でしっかりと口を閉ざす。


「ふふ……四年物の、正真正銘の特級畑(グラン・クリュ)だ」


私は小瓶を光にかざした。

濁りは一切ない。

エゴによる裏切りや、保身のための殺害といった雑味は微塵も混ざっていない。

混じり気のない純粋な愛。相手を救うための崇高な自己犠牲。そして、愛ゆえに狂い、自らの手で最愛を屠ったことへの無限の絶望と後悔。

すべてが黄金比で調和した、奇跡のような雫。


「ごちそうさまでした、アルス。エレナ様。……あなた方は、私の誇りです」


私は抜け殻となったアルスの肩を、愛おしそうにポンと叩いた。

彼は何も答えない。ただ冷たいエレナの頬を撫で続けている。

彼らは世界を救ったのだ。やがて王都の騎士団がここへ辿り着けば、彼は永遠の英雄として讃えられるだろう。エレナは神の御許へ召された聖女として祀られるだろう。

この、地獄のような真実を抱えたまま。


私は踵を返し、玉座の間を後にした。

背後で倒れている魔王の残骸にも、転がっている聖剣にも、もはや何の価値もない。

私にとって意味があるのは、この掌の中にある、小さな小瓶だけだ。


城の外へ出ると、夜風が私の前髪を優しく揺らした。

見上げれば、魔王の瘴気が消え去った夜空には、息を呑むような満天の星々が瞬いている。


私はバルコニーの手すりに寄りかかり、ポケットから取り出した特製のアンプルの栓を、親指でわずかに押し開けた。


すうっ、と。

夜風に乗せて、香りを吸い込む。


「……ああ」


芳醇な香りが、鼻腔から脳髄へと染み渡っていく。

初恋の林檎のような瑞々しい甘み。

四年間の旅路で育まれた、焼きたてのパンのような温かな信頼の香り。

そして――それらを一瞬にして圧搾し、発酵させた、重厚で、舌が痺れるほどに深く、甘美な絶望の渋み(タンニン)。


「素晴らしい……。天上の神々も、魔界の王たちも、この一本には惜しみない賛辞と天文学的な対価を支払うことでしょう」


私は栓を閉じ、満足の笑みを浮かべて小瓶を胸ポケットへと仕舞い込んだ。


さて。

仕事は終わった。

次の季節に向けて、また新しい土壌を探さなくてはならない。


今度は、どんな苗木を育てようか。

復讐に燃える哀れな亡国の王子がいいか。

それとも、病の妹を救うために身を粉にして働く、健気な冒険者の少女がいいか。

たっぷり施肥をして、愛を注ぎ、誰よりも高く、美しく咲かせてあげよう。


そして――一番いい特等席で、その花が散る瞬間を見届けるのだ。


「ふふ……あはははは」


満天の星空の下、軽やかな哄笑を残して。

黒衣のソムリエは、誰に知られることもなく、静かな夜の闇へと溶け去っていった。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました!

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