帰る場所2
エイラと似た顔をした青年が困った顔でエリクを見た。久しぶりに会う弟のバートはすっかり大人に成長していたが、面影は変わらない。赤子の頃から面倒を見ていたこともあり、懐かしいという気持ちが胸にわいてくる。
「大きくなったね。元気にしてた?」
「どうして帰ってきたんだよ……せっかく自由になったと思ったのに」
バートが心から残念そうに言うと、エイラが信じられないといった様子で彼の腕を掴んだ。
「何を言っているの? 久しぶりに家族が揃ったのに、酷いことを言わないで」
「酷いのはお前だ。何度もやめろって言ったじゃないか」
エイラが反論しようとしたとき、奥の部屋から物音がした。直感で花瓶だと思ったのは、陶器が割れて水がこぼれる音だったからだろう。
顔色を変えたエイラが奥へ走っていく。
「お母さん大丈夫? 触っちゃ駄目よ。ホウキを持ってくるから待っていて。兄さん達は、とりあえず座ったら? 積もる話もあるでしょ」
忙しそうにホウキを取りに行ったエイラを見送り、エリクは弟に小声で言った。
「……帰るつもりはなかったんだけどね。帰らない理由を言っても分かってもらえそうにないから」
「ごめん。兄さんにとって、この家は良い思い出がないからやめておけって何度も言ったんだよ。それなのにあいつ、全然聞かなくて。兄さんの番を自称する女に会った時もそうだよ。赤の他人の話を疑いもしないで、兄さんを連れ戻しに行くって飛び出して行ったんだ」
バートはリビングにエリクを招き入れ、湯を沸かす準備を始めた。
「兄さんが家を出たのは、反抗期だったからだ、なんて決めつけてさ。どれだけ兄さんが我慢してたのか知らないんだよ、あいつ」
「エイラはまだ幼い子供だったから仕方ないんじゃないかな」
「当時はそうだけど、今は母さんの態度で分かるはずなんだよ。母さんの様子が本格的におかしくなったのは、あの女が兄さんのことを話してからだよ。ねえ兄さん。あいつ、本当に兄さんの番?」
「そうらしいね」
エリクは簡単にニナのことを話した。最後に会いたくないと付け加えると、バートは神妙な顔で頷く。
「分かった。もしまた家に来ても、兄さんのことは話さないようにする」
「君は昔から優しいね」
「他の奴らが自分のことしか考えてないから、そう見えるだけだよ。それで、兄さんは今どうなの? あの女は兄さんのこと、幸せを知らないから可哀想って言ってたんだけど」
「もちろん幸せだよ。僕のことを理解してくれる番じゃない女性と結婚して、来年の春に子供が生まれるんだ。先のことは分からないけど、これからも幸せが続いていくんじゃないかな」
バートは言われたことを噛み締めるように目を伏せたあと、良かったとこぼした。
「兄さんは昔から要領が良かったから、どこかで幸せに暮らしてるって信じてたけど……やっぱり直接聞けて嬉しいよ」
昔からバートはエリクにとって心の安定剤だ。今も変わらない存在でいてくれることに加えて、エリクの幸せを願ってくれていたと知って心の中で感謝した。実家に戻ってきた苦労が報われた気がする。
お互いの近況を軽く話し終えた頃、エイラが家の奥から戻ってきた。
「お待たせ。お母さんを落ち着かせてきたわ。ラーシュ兄さん、お母さんのところへ行こうよ」
「お前、まだそんなことを」
「バート。何度も言い聞かせるよりも、見る方が早いこともあるよ」
エイラが出てきた部屋へ向かうと、瑞々しい花の香りがした。母親が好きな、淡い黄色の花だ。床が濡れているのは、やはり花瓶を落としたらしい。
ベッドに腰掛けていた母親は、記憶の中よりも老けて小さくなっていた。昔と変わらない姿だったなら、込み上げてくる感情もあっただろう。今エリクが感じているのは、憐れみだけだった。
母親はエリクの顔を見ると、あからさまに慌てていた。
「まあ。ヨルゲン様? このようなところへお越しになるなんて」
視線はエリクに向いているが、母親はエリクを見ていない。エリクは成長して父親に外見が似ている。だから母親が見ているのは、ここにいない父親の幻だ。
「お、お母さん? どうしたのよ。ヨルゲンって誰?」
「黙りなさい! なんて失礼なことを。申し訳ございません。侍女には、私からよく言って聞かせますので」
まるで貴族のように振る舞う母親に、エイラはただおろおろとしているだけだった。助けを求めるようにエリクとバートを交互に見る。
「僕が帰らなかった理由、分かった? こうなるからだよ。昔から母さんは僕が嫌いなんだ。人生の汚点だから」
「でも、どうしてこうなるの? ときどき変になることはあったけど、さっきは普通だったのよ……」
「番を亡くして弱っているところに、思い出したくなかった存在が来るって知らされて、徐々に変わったんじゃないかな。母さんは心が強くないから、心だけ若い頃に戻ったみたいだね。だから君のことは娘じゃなくて侍女だと思いこんでる」
てっきり母親に罵倒されるだろうと思っていたエリクは拍子抜けした。
母親は浴びるように愛されないと萎れてしまう人だ。番によって満たされている間は正常でいられたが、心の支えを失った今、自分の世界に逃避してしまった。彼女はもう自分にとって都合が良いものしか見ない。エリクが去った後は、番の死すら忘れているだろう。
「ヨルゲン様。どのようなご用件でしょうか」
「……見舞いに来ただけだ」
うっすらと覚えている父親の口調を真似すると、母親は嬉しそうに微笑んだ。
「しばらく家を空ける。それまで、息災で」
母親は引き留めてきたが、最後の義理は果たした。もう会うことはない。
玄関へ向かうとエイラが青い顔で追いかけてきた。
「どうしてお母さんがああなるって言ってくれなかったの? それにヨルゲンって誰?」
「正直に言ったら、信じてくれた? 君は家族なら無条件で愛されると思っているよね。でもそうじゃない関係もあるんだ」
エイラは気まずそうに目を逸らす。
「ヨルゲンは僕の血縁上の父親だよ。母さんの前夫。色々あって別れた後に母さんが番と会ったから、君が知らなくても仕方ないよ」
「私、お母さんを苦しめただけだったの? そんなつもりじゃなかったのに。家族一緒にいるのが幸せだって、教えてくれたのはお母さんよ?」
「あの人にとって僕は家族じゃないんだ。ずっとそうだった。それにね、苦しいかどうかは本人にしか分からない。君の幸せと他人の幸せは違うってこと、忘れないで。じゃあ、僕は帰るよ。元気でね」
家を出て花を買ったエリクは、共同墓地へ向かった。墓守に場所を聞いて向かったのは、養父が眠っている場所だ。これも最低限果たすべき義理だろう。
墓石の上に載っていた落ち葉を払い、花を置くと大仕事を終えた気分になった。
「兄さん」
墓地を出ると、追いかけてきたらしいバートに出くわした。
「これ、どうしても渡したくて」
彼が差し出したのは、銀細工の小さなベルだった。子供の成長を祈って作られるものだったはず、とエリクは昔の記憶を探る。子供が産まれる前に用意するのが慣わしだ。
「俺さ、細工師のところに弟子入りしたって話したよね? 兄さんが昔、おもちゃを手作りしてくれたのが忘れられなくて。自分でも何か作りたかったんだ。ようやく小さなものを任されるようになったばかりで、まだまだ下手だけど」
「……もらっていいの?」
「もちろん。そのために作ったんだ」
「ありがとう。綺麗だね」
本人が言う通り、熟練の職人に比べると未熟な部分がある。だがどんなに拙くても、弟からの贈り物というだけで十分価値があった。
「これ、俺が働いてる工房の連絡先。またベルが必要になったら教えてくれよ。職場宛ての手紙なら、母さんたちに見つからないから」
「うん。機会があれば、また」
エリクも自宅の住所を教えてから、今度は産婆のところへ向かった。
久しぶりに会った産婆は何も変わっていない。エリクの顔を見るなり占いを始め、悪くないと言う。
「あんたが住んでいるのは、大きな力の庇護下にある町だね」
「グランフルトだよ」
竜族が支配する土地だから、ある意味では庇護下にあると言えるだろう。
「人生に関わる大きな波が二つ、あっただろう? もう一つ、来るか来ないか……あんたの波は乗り越えたから、相手かね」
産婆はテーブルに虹色の鱗を置いた。
「持っていきな。枕元に吊るすんだ。お産に関する問題は、それが身代わりになってくれるさ。一人産んだら、あとは楽だよ。産後は冷やさないように気をつけな」
ウルリカのことは、まだ一言も喋っていない。占いだけでエリクの現在を言い当てられ、彼女の底知れない一面を知った。
エリクは鱗を受け取り、代わりに茶葉が入った包みをテーブルに置いた。グランフルトを出発する前に、産婆に会えることを期待して買っておいた土産だ。
「なんで分かるの?」
「長く生きてるからさ」
全く答えになっていない。
「あたしに構っている暇なんてないよ。人生は短いんだ。さっさと自分の家に帰りな。あんたの幸せは、ここにはない」
産婆の言うことはきついが、帰ろうとしたエリクをわざわざ玄関まで見送りに来たり、行動には気遣いを感じる。
「最後に一つ、聞いてもいい? グランフルトに住んだことがある?」
「ないね。だが竜族の町に住んでいたよ。まだ彼らが番を肯定していた頃さ」
外から差し込む光が産婆の顔を照らした。彼女の瞳孔が縦に窄まり、種族の外見的特徴をあらわにする。
エルフや竜族といった一部の種族は長命だ。さらに彼女が持っている知識の多さから、かつて知識階級にいたことは察している。だがエリクは追求するのをやめた。
今さら明らかになっても、意味がないことだ。彼女はエリクに知識を与えるだけでなく、生き方にも影響を与えてくれた。彼女が誰だろうと、エリクが幸せを掴めたことに変わりはない。
「色々とありがとう」
育った町を出たエリクは、グランフルトへ向かった。乗合馬車は人が多く、翌日でなければ乗れそうにない。これ以上は知り合いに会いたくないので、宿を取らずに街道を進んだ。
二つほど町を通り過ぎたとき、誰かに見られている気配がした。盗賊のような欲にまみれた視線ではない。魔獣とも違う。命の危機は感じないが、放置もできず鬱陶しい。
密かにエリクと接触したいのだろうと予想して、二股に分かれた街道のうち、人が少ない方を行く。案の定、後ろにいる誰かがエリクを逃すまいと追いかけてきた。
「何か用?」
いつまでも茶番に付き合う気になれず、追跡者に話しかけた。
「主人の元へご案内するよう仰せつかっております」
素直に出てきた追跡者は、そう言って頭を下げた。三十半ばの狐族の男だ。人に仕える者特有の、感情を抑えた顔をしている。
「名前も身分も明かさない奴の言いなりになれと?」
「こちらをご覧ください」
男が見せてきたのは、どこかの家の家紋が入った布だった。見覚えがないと言えば嘘になる。
――次から次へと過去が追いかけてくる呪いにでもかかってるのかな。
早くウルリカが待つ家に帰りたいのに、そう簡単にはいかないらしい。仕方なく男についていくと、誰もいない街道に貴族の馬車が一台停まっていた。男が扉を軽く叩いて声をかけ、扉を開ける。
「ラーシュ。久しぶりだな」
降りてきたのは血縁上の父親だった。エリクと同じ銀色の髪が風に揺れる。
「……どちら様でしょうか」
「つれないな。まあいい。ラーシュ。家に帰ってこないか?」
何を言っているんだこいつは――エリクは本気で相手の頭を疑った。ボケるにはまだ早い年齢のはずだ。それとも母親のように心に負担がかかりすぎて、現実逃避を選んだのだろうか。
「お前を探している最中に、お前の番を保護した。苦労をしているそうだな。遠い異国の地で果てるくらいなら、我が家へ帰ってきなさい」
「なるほど。子供が生まれないという噂は本当だったんだね。だから僕に接触してきたんだ」
父親の表情は変わらない。その変化の無さは、エリクの言葉が正しいと裏づけていた。
自分が生まれた家のことは、狩人になってから一度だけ調べたことがある。偽りの番に騙された悲劇の当主として、父親には同情が集まっていた。追放された母親と子供の行方については定かではない。だが父親を逆恨みして、呪いをかけたという出所不明の噂に行き着く。
その中の一つ。追い出されて死んだ息子が生まれてくる子供に嫉妬をして、呪い殺して成り代わろうとしている噂話には笑ってしまった。当の本人は今もなお元気に生きているというのに。面白おかしく尾鰭がついた結果、現実とはかけ離れた話になっている。
「ラーシュ。お前まで追い出したのは間違いだった。彼女の話によると、氷術の才能まであるそうじゃないか。私のところへ戻れば、さらに上を目指せる。もう狩人などという卑しい仕事をしなくてもいいんだ」
父親が近づいてこようとしたので、エリクは氷のナイフを彼の足元に飛ばした。
「僕がどんなふうに生きてきたのか知らないくせに。身勝手さは変わってないね。自分の息子じゃないって言ったのは誰だったっけ?」
「あれは……」
「ラーシュは死んだよ。あんたが殺したんだ。自分から捨てたくせに、都合よく拾えると思うな。番の話で揺さぶろうとしても無駄だよ。番に狂うあんたたちを見てきたから、僕は番とは一緒にならない。絶対に」
エリクは愕然としている父親から、幻術を使って逃げた。名前を呼ぶ声がした気がするが、今の自分はラーシュではない。
街道を進むにつれ、心を占める苛立ちは帰りたい気持ちへ変わっていく。グランフルトの門が見えてくると、ますます強くなった。
門をくぐると脇目もふらず家へ急ぐ。玄関の鍵を開ける時間すら惜しい。ようやく扉を開けて中へ入ると、真っ先にウルリカを探した。
「お帰りなさい。意外と早かったわね」
一番会いたかったウルリカは、裏庭で洗濯物を取り込んでいる最中だった。子供ができた影響なのか、笑顔に柔らかさが増している。
エリクはウルリカを抱きしめて、ずっと言いたかったことを口にした。
「ただいま」
「お帰りなさい。いきなり抱きしめてどうしたの?」
「なんとなく」
ウルリカが労るように背中をさすってくる。普通の里帰りではなかったと察し、何も聞かずにいてくれるのが嬉しい。
ようやく安心できる場所に帰ってきた。
さんざん放浪して、手に入れた幸せがここにある。
どうしても「彼ら」のその後と、縁が切れるところが書きたくなったんです。
苦労してきたエリクですが、落ち着くところに落ち着いたことで、今度は人並みの幸せを享受していくことでしょう。これからはウルリカがいますからね。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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